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七章
28、シッカロール【1】
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翌日、わたしと蒼一郎さんはとっても真面目で真剣な顔をして向かい合っていました。
残暑が厳しくて、じりじりとした日が照っています。まだ午前中だというのに、花びらが薄くて繊細な朝顔は、憐れなことに萎れています。
そして縁側に置いたお布団の上で、むずかる琥太郎さん。
お腹が空いたのかしらと授乳をさせても、飲みません。
「病気かしら。お熱はないようですけど」
「うーん。琥太郎、どないしたんや、父さんに言うてみ」
いえ、無理ですって。こんな生まれてひとつきほどの赤ちゃんが、説明したら逆に怖いですよ。
まぁ、その方が楽ですけど。
でも「おかあさんの、だっこへた」とか「おかあさん、ねぞうわるい」とか言われたらと思うと。どうしましょう。
そしてその内、離乳食を与えたら「おかあさんのごはん、おいしくない」「りょうりちょーのほうがええ」とか言われたら。
「うう、ごめんなさい。不出来な母親で」
「……絲さん。なんで涙声なん?」
「だってわたしは不甲斐ないんですもの」
「あー、困ったなぁ」と蒼一郎さんは、ご自分の頬を掻いてらっしゃいます。
困るほどのことが起こったのかしら。
そう思って顔を上げると、とっても呆れた顔の蒼一郎さんと目が合ってしまったの。
「絲さん。よう聞きや。絲さんが落ちこんでも、琥太郎は泣きやまへんで」
「は、はい」
「まずは原因を突き止めるんが一番やないかな」
その通りです。わたしはもう娘ではなくて、お母さんなのでした。
琥太郎さんを抱き上げて、肌着の紐をほどきます。
おむつは濡れていません。さっきも確認しました。
何か刺さったのかしら。棘とか蚊に刺されたとか。
丹念にやわらかなお肌を確認していると、指先にぷつっとしたものが触れたのです。その途端、再び琥太郎さんは泣きはじめました。
「分かりました。蒼一郎さん。あせもです」
「あせも……って。ああ、赤子ってそういうのになるんか」
わたしはあまり汗をかかないのですけれど。やはり赤ん坊の頃には夏はあせもができて大変だったと、ばあやが申しておりました。
「どないしたらええんや」
「沐浴です」
「はい」
「それからシッカロールです」
シッカロール? と蒼一郎さんは首をかしげていらっしゃいます。
あら、ご存じないのかしら。
確か産院でいただいた物があったはずですよ。
琥太郎さんの必要なお着替えやおむつ、哺乳瓶はそれぞれ柳で編んだ籠に入れてお部屋に置いてあります。
「ありました。これです、シッカロール」
金太郎の腹巻をした子どもの絵が描かれている缶を取り出し、蒼一郎さんにお見せします。
「ん? これ天花粉やろ」
「そうともいいます」
「確か天花粉は天瓜粉とも書いて、黄色い烏瓜の根っこからできとんとちゃうかったかな」
シッカロールの蓋を開けると、ふわっと少し甘いような懐かしい夏の匂いがしました。
ですが、その前に沐浴です。
事情を把握している蒼一郎さんとわたしは、互いに頷き合いました。
盥にぬるいお湯を入れて、波多野さんが縁側に運んできてくださいます。
わたしはいそいそと手拭いや着替えを用意しました。
そして蒼一郎さんは、お着物の袖をたすき掛け。
ええ、沐浴は蒼一郎さんがしてくださるの。
「絲さんは、一回盥の中で手を滑らせたからなぁ」
「……申し訳ございません」
そうなんです。産院で看護婦さんと一緒に琥太郎さんを沐浴させていると、つるっと手が滑ってしまったんです。
お湯は浅く張ってありますし、琥太郎さんが少しばかりお尻を打ってしまって。
でもね、それから蒼一郎さんが「危ないなぁ」とか「絲さんは力がないからなぁ」と仰って、任せてもらえないんです。
結局わたしは、手拭いを広げて両手に持ち、沐浴を眺めるしかありません。
「もっとしっかりとした立派なお母さんになりたいんです」
「ん? 力仕事は絲さんには向かへんで」
ぱちゃぱちゃと水音を立てながら、琥太郎さんの滑らかな肌を蒼一郎さんの大きな手が洗っています。
首の後ろや背中の辺りはあせもがあるので、とても丁寧に。そして優しく。
ねぇ、琥太郎さん。蒼一郎さんは素敵なお父さんね。
そしてわたしは……不出来なお母さんでごめんなさいね。
ほろっと涙が出そうになって、目が合った蒼一郎さんはそんなわたしを見て苦笑していたの。
「絲さんはそのままでええで」って。
残暑が厳しくて、じりじりとした日が照っています。まだ午前中だというのに、花びらが薄くて繊細な朝顔は、憐れなことに萎れています。
そして縁側に置いたお布団の上で、むずかる琥太郎さん。
お腹が空いたのかしらと授乳をさせても、飲みません。
「病気かしら。お熱はないようですけど」
「うーん。琥太郎、どないしたんや、父さんに言うてみ」
いえ、無理ですって。こんな生まれてひとつきほどの赤ちゃんが、説明したら逆に怖いですよ。
まぁ、その方が楽ですけど。
でも「おかあさんの、だっこへた」とか「おかあさん、ねぞうわるい」とか言われたらと思うと。どうしましょう。
そしてその内、離乳食を与えたら「おかあさんのごはん、おいしくない」「りょうりちょーのほうがええ」とか言われたら。
「うう、ごめんなさい。不出来な母親で」
「……絲さん。なんで涙声なん?」
「だってわたしは不甲斐ないんですもの」
「あー、困ったなぁ」と蒼一郎さんは、ご自分の頬を掻いてらっしゃいます。
困るほどのことが起こったのかしら。
そう思って顔を上げると、とっても呆れた顔の蒼一郎さんと目が合ってしまったの。
「絲さん。よう聞きや。絲さんが落ちこんでも、琥太郎は泣きやまへんで」
「は、はい」
「まずは原因を突き止めるんが一番やないかな」
その通りです。わたしはもう娘ではなくて、お母さんなのでした。
琥太郎さんを抱き上げて、肌着の紐をほどきます。
おむつは濡れていません。さっきも確認しました。
何か刺さったのかしら。棘とか蚊に刺されたとか。
丹念にやわらかなお肌を確認していると、指先にぷつっとしたものが触れたのです。その途端、再び琥太郎さんは泣きはじめました。
「分かりました。蒼一郎さん。あせもです」
「あせも……って。ああ、赤子ってそういうのになるんか」
わたしはあまり汗をかかないのですけれど。やはり赤ん坊の頃には夏はあせもができて大変だったと、ばあやが申しておりました。
「どないしたらええんや」
「沐浴です」
「はい」
「それからシッカロールです」
シッカロール? と蒼一郎さんは首をかしげていらっしゃいます。
あら、ご存じないのかしら。
確か産院でいただいた物があったはずですよ。
琥太郎さんの必要なお着替えやおむつ、哺乳瓶はそれぞれ柳で編んだ籠に入れてお部屋に置いてあります。
「ありました。これです、シッカロール」
金太郎の腹巻をした子どもの絵が描かれている缶を取り出し、蒼一郎さんにお見せします。
「ん? これ天花粉やろ」
「そうともいいます」
「確か天花粉は天瓜粉とも書いて、黄色い烏瓜の根っこからできとんとちゃうかったかな」
シッカロールの蓋を開けると、ふわっと少し甘いような懐かしい夏の匂いがしました。
ですが、その前に沐浴です。
事情を把握している蒼一郎さんとわたしは、互いに頷き合いました。
盥にぬるいお湯を入れて、波多野さんが縁側に運んできてくださいます。
わたしはいそいそと手拭いや着替えを用意しました。
そして蒼一郎さんは、お着物の袖をたすき掛け。
ええ、沐浴は蒼一郎さんがしてくださるの。
「絲さんは、一回盥の中で手を滑らせたからなぁ」
「……申し訳ございません」
そうなんです。産院で看護婦さんと一緒に琥太郎さんを沐浴させていると、つるっと手が滑ってしまったんです。
お湯は浅く張ってありますし、琥太郎さんが少しばかりお尻を打ってしまって。
でもね、それから蒼一郎さんが「危ないなぁ」とか「絲さんは力がないからなぁ」と仰って、任せてもらえないんです。
結局わたしは、手拭いを広げて両手に持ち、沐浴を眺めるしかありません。
「もっとしっかりとした立派なお母さんになりたいんです」
「ん? 力仕事は絲さんには向かへんで」
ぱちゃぱちゃと水音を立てながら、琥太郎さんの滑らかな肌を蒼一郎さんの大きな手が洗っています。
首の後ろや背中の辺りはあせもがあるので、とても丁寧に。そして優しく。
ねぇ、琥太郎さん。蒼一郎さんは素敵なお父さんね。
そしてわたしは……不出来なお母さんでごめんなさいね。
ほろっと涙が出そうになって、目が合った蒼一郎さんはそんなわたしを見て苦笑していたの。
「絲さんはそのままでええで」って。
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