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七章
2、師走【2】
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おかしい。
絲さんが俺の腕の中に飛び込んでこぉへんかった。
俺は渋々、絲さんを迎えるための腕を下ろした。
なんか機嫌悪いんやろか? それとも気分が悪いんかな。
そう思ってちらっと顔色を窺ったけど。特に問題はなさそうや。
けどな、俺はもう以前の俺とちゃうねん。
絲さんは、知った人の前で俺に甘えるんを恥ずかしがっとうだけやねん。
いやー、俺も女心が分かるようになったよなぁ。こういうの成長したっていうんやろか。
今日は百貨店に行く予定やから、俺は坂を下りたところで、人力車の車夫に声をかけた。
俺と絲さんと別々の俥。
まぁ、二人で乗ったら車夫に迷惑やしな。
「ほな、絲さん。ちゃんと振り落とされんように……おっと、何でもないで」
あかん、あかん。つい口出ししてしまうとこやった。
俺は先に絲さんを俥に乗せて、彼女の着物の袖が翻らんように、膝の上に載せてやった。
それから寒ないように、襟巻もぐるぐるに巻く。ちゃんと顔も半分くらい、襟巻に隠れるくらいに。
もしかしてこれも過保護なんやろか。
けど今日は大事な買い物があるんや。
絲さんをちゃんと大人の女性として扱わんとあかん。
過保護は禁止や。
◇◇◇
寒い冬の風を受けながら、わたしは多分口をへの字に結んでいたと思います。
ガラガラとけたたましく聞こえる車輪の音。
遠くの埠頭の辺りに見えるのは煉瓦造りの貿易倉庫。平屋の倉庫がずらっと並んでいて、中には綿や輸入した雑貨が入っているのだと蒼一郎さんに教えていただいたことがあります。
「百貨店までなら、わたしでも歩けますのに……」
ぼそっと洩れた言葉は、海風と共に消えていきました。
どうしてこんなに寂しい気分になるの?
わたしは、蒼一郎さんが巻いてくださった襟巻に手を添えました。
上質な糸で編んであるので、ちくちくしませんし、編み目が密なので薄いのにとても暖かです。
薄茶色の襟巻は暖かいはずなのに。一人で乗る俥は広くて、風が吹き抜けて寒いんです。顔を見上げても、そこには蒼一郎さんがいらっしゃらないから。
もしかして、校門で出迎えてくださったときにわたしが素直にならなかったから。だから、怒っていらっしゃるのかしら。
だとしたら、どうすればいいの?
瓦屋根の三階建ての『鰻まむし』と書かれた食堂を過ぎます。
わたしは鰻をあまり食べないから、よく知らないのですけど。(「滋養がつくから絲も食べなさい」とおじいさまによく勧められたのですが。あのにょろりとした姿がどうにも苦手で)
「まむし」は蛇のことではなくて「まぶす」の発音が訛ったものだそうです。
何度見ても、ぎょっとする文字なんですけど。それも食堂の看板ですから。
洒落た鞄屋さんを越えたところに、白亜の百貨店が見えてきました。
女學院から直接来たので、三條家から訪れるのとは道が違い、目新しい雰囲気です。
屋号を染め抜いた旗が、仰々しく交差する入り口。その前に、俥は停まっていました。
蒼一郎さんは先に俥から降りていらっしゃいます。
わたしは柔らかな襟巻に顔を埋めて、じっと座っていました。學院とは違い、海の匂いの強い風にわたしの袖がはためきます。
だめ、こんな子どもっぽい我儘な態度をとっては。
ぺしぺしと自分の頬を軽く叩いて、笑顔を作ります。
絲さんが俺の腕の中に飛び込んでこぉへんかった。
俺は渋々、絲さんを迎えるための腕を下ろした。
なんか機嫌悪いんやろか? それとも気分が悪いんかな。
そう思ってちらっと顔色を窺ったけど。特に問題はなさそうや。
けどな、俺はもう以前の俺とちゃうねん。
絲さんは、知った人の前で俺に甘えるんを恥ずかしがっとうだけやねん。
いやー、俺も女心が分かるようになったよなぁ。こういうの成長したっていうんやろか。
今日は百貨店に行く予定やから、俺は坂を下りたところで、人力車の車夫に声をかけた。
俺と絲さんと別々の俥。
まぁ、二人で乗ったら車夫に迷惑やしな。
「ほな、絲さん。ちゃんと振り落とされんように……おっと、何でもないで」
あかん、あかん。つい口出ししてしまうとこやった。
俺は先に絲さんを俥に乗せて、彼女の着物の袖が翻らんように、膝の上に載せてやった。
それから寒ないように、襟巻もぐるぐるに巻く。ちゃんと顔も半分くらい、襟巻に隠れるくらいに。
もしかしてこれも過保護なんやろか。
けど今日は大事な買い物があるんや。
絲さんをちゃんと大人の女性として扱わんとあかん。
過保護は禁止や。
◇◇◇
寒い冬の風を受けながら、わたしは多分口をへの字に結んでいたと思います。
ガラガラとけたたましく聞こえる車輪の音。
遠くの埠頭の辺りに見えるのは煉瓦造りの貿易倉庫。平屋の倉庫がずらっと並んでいて、中には綿や輸入した雑貨が入っているのだと蒼一郎さんに教えていただいたことがあります。
「百貨店までなら、わたしでも歩けますのに……」
ぼそっと洩れた言葉は、海風と共に消えていきました。
どうしてこんなに寂しい気分になるの?
わたしは、蒼一郎さんが巻いてくださった襟巻に手を添えました。
上質な糸で編んであるので、ちくちくしませんし、編み目が密なので薄いのにとても暖かです。
薄茶色の襟巻は暖かいはずなのに。一人で乗る俥は広くて、風が吹き抜けて寒いんです。顔を見上げても、そこには蒼一郎さんがいらっしゃらないから。
もしかして、校門で出迎えてくださったときにわたしが素直にならなかったから。だから、怒っていらっしゃるのかしら。
だとしたら、どうすればいいの?
瓦屋根の三階建ての『鰻まむし』と書かれた食堂を過ぎます。
わたしは鰻をあまり食べないから、よく知らないのですけど。(「滋養がつくから絲も食べなさい」とおじいさまによく勧められたのですが。あのにょろりとした姿がどうにも苦手で)
「まむし」は蛇のことではなくて「まぶす」の発音が訛ったものだそうです。
何度見ても、ぎょっとする文字なんですけど。それも食堂の看板ですから。
洒落た鞄屋さんを越えたところに、白亜の百貨店が見えてきました。
女學院から直接来たので、三條家から訪れるのとは道が違い、目新しい雰囲気です。
屋号を染め抜いた旗が、仰々しく交差する入り口。その前に、俥は停まっていました。
蒼一郎さんは先に俥から降りていらっしゃいます。
わたしは柔らかな襟巻に顔を埋めて、じっと座っていました。學院とは違い、海の匂いの強い風にわたしの袖がはためきます。
だめ、こんな子どもっぽい我儘な態度をとっては。
ぺしぺしと自分の頬を軽く叩いて、笑顔を作ります。
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