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四章
閑話 これは妄想【2】
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「絲。一人で歩ける」
「おい、こら。無理やって。足かて擦り剥いとうかもしれへんし」
俺の腕から逃れようとする絲さんを、なんとか押しとどめる。そう、意外と強情なとこがあるからな。
「やだ、離して。自分でお家に帰れるもん」
「それやったらええけど。確か、今日は遠野の家は誰もおらへんはずやで」
俺を突っぱねていた手から、少し力が抜けた。
「絲さんは広い家で、一人でお留守番できるんやな。夜になったら、ちゃんと明かりを点けれるんか?」
「ば、ばあやがいるもの。お爺さまだって」
「だぁれもおらへん、って言うたやろ? 皆、お出かけや。寒い部屋で、がちがちと歯を震わせながら布団にくるまって耐えられるんやな」
俺は脅しをかけるように、腕の中の絲さんを見下ろした。
赤や黄色に輝く木々すらも霞むほどに、背後を闇で侵食して。
こういうのは得意や。
現実の絲さんには見せたことのない顔やけどな。
「ほな、遠野の家まで送って行ったろ。絲さんは、お留守番できるみたいやしな」
「う……うぅっ」
強がった手前、すぐには折れることができへんらしい。
絲さんは口をへの字に引き結んで、葛藤している。もちろん恐怖とだ。
「さ、三條の、おうちで、その」
「はーぁ? 聞こえへんな」
ああ、ごめんな。絲さん。兄ちゃん、意地悪言うとうな。
けど、妄想が止まらへんのや。
「蒼一郎お兄さまのお家で待たせてください」
瞳を涙で潤ませながら、絲さんが俺の袖をきゅっと掴む。
ああ、もう可愛いなぁ。
「しゃあないな。ほな、爺さんが迎えに来るまでうちで待っとこか」
「絲のこと、怒らない?」
「怒ってへんで。兄ちゃん、いっつも優しいやろ?」
「うん」と、絲さんは手で涙を拭おうとした。せやから俺は慌てて半巾を取りだす。そんな汚れた手で拭ったら、目の病になるで。
「あのね。おやつ、ある?」
「もちろんあるで。兄ちゃんと一緒に食べよな」
「うん」
俺は右手に絲さん、左手に彼女の草履と風呂敷包みを抱えて、家まで帰る。
道すがら、絲さんは學校でのことを俺に教えてくれるのだ。
秋の午後は陽射しが柔らかで、海風もまだそこまで寒くはないから。体調は悪そうではない。
きっとこんな感じな毎日やったんやろな。
そら、遠野の爺さんも迎えに行くわ。
しかも絲さんはいじめっ子のことは怖がるのに、俺に対しては強気に接してくる。
どう考えても、男児よりも俺の方が強面やねんけどな。
でも、それは絲さんが俺に懐いて信頼しとう証や。
◇◇◇
「はーあ、ええよなぁ。そういう過去があったら、良かったのに」
「何が良かったんですか?」
突然声を掛けられて、俺は驚いて布団から体を起こした。
蚊遣りの白い煙が夜の闇に吸い込まれ、除虫菊のにおいに今はまだ夏なのだと実感した。
絲さんは枕に頭をのせたまま、俺の方を向いている。
「蒼一郎さん、楽しそう」
「あ、うん。ちょっとええ夢を見とったわ」
「あら、素敵。どんな夢ですか?」
「いや、まぁ。ちょっとな」
まさか絲さんの子どもの頃を妄想してました、とは言われへんやろ。
いくらその頃の絲さんに恋愛感情は抱かへんで、と説明しても信じてもらえへん気がするし。
「あー、絲さんは子どもの頃、ガキ……いや、男児に虐められたりせぇへんかったか?」
突然何を訊くのかしら? という風に、絲さんは瞬きを繰り返した。
でも、すぐに微笑みを浮かべたのだ。
「大丈夫でしたよ。女の子ばかりで、皆優しかったです」
ん? あぁ、そうやった。
絲さんは女學院に初等部から通っとんやった。
そもそも男はおらんかったか。
安心はしたけど。
俺に向かって泣きながら走って来る過去はそもそもなかったんか、と思うと。妙に寂しい気分にもなった。
「おい、こら。無理やって。足かて擦り剥いとうかもしれへんし」
俺の腕から逃れようとする絲さんを、なんとか押しとどめる。そう、意外と強情なとこがあるからな。
「やだ、離して。自分でお家に帰れるもん」
「それやったらええけど。確か、今日は遠野の家は誰もおらへんはずやで」
俺を突っぱねていた手から、少し力が抜けた。
「絲さんは広い家で、一人でお留守番できるんやな。夜になったら、ちゃんと明かりを点けれるんか?」
「ば、ばあやがいるもの。お爺さまだって」
「だぁれもおらへん、って言うたやろ? 皆、お出かけや。寒い部屋で、がちがちと歯を震わせながら布団にくるまって耐えられるんやな」
俺は脅しをかけるように、腕の中の絲さんを見下ろした。
赤や黄色に輝く木々すらも霞むほどに、背後を闇で侵食して。
こういうのは得意や。
現実の絲さんには見せたことのない顔やけどな。
「ほな、遠野の家まで送って行ったろ。絲さんは、お留守番できるみたいやしな」
「う……うぅっ」
強がった手前、すぐには折れることができへんらしい。
絲さんは口をへの字に引き結んで、葛藤している。もちろん恐怖とだ。
「さ、三條の、おうちで、その」
「はーぁ? 聞こえへんな」
ああ、ごめんな。絲さん。兄ちゃん、意地悪言うとうな。
けど、妄想が止まらへんのや。
「蒼一郎お兄さまのお家で待たせてください」
瞳を涙で潤ませながら、絲さんが俺の袖をきゅっと掴む。
ああ、もう可愛いなぁ。
「しゃあないな。ほな、爺さんが迎えに来るまでうちで待っとこか」
「絲のこと、怒らない?」
「怒ってへんで。兄ちゃん、いっつも優しいやろ?」
「うん」と、絲さんは手で涙を拭おうとした。せやから俺は慌てて半巾を取りだす。そんな汚れた手で拭ったら、目の病になるで。
「あのね。おやつ、ある?」
「もちろんあるで。兄ちゃんと一緒に食べよな」
「うん」
俺は右手に絲さん、左手に彼女の草履と風呂敷包みを抱えて、家まで帰る。
道すがら、絲さんは學校でのことを俺に教えてくれるのだ。
秋の午後は陽射しが柔らかで、海風もまだそこまで寒くはないから。体調は悪そうではない。
きっとこんな感じな毎日やったんやろな。
そら、遠野の爺さんも迎えに行くわ。
しかも絲さんはいじめっ子のことは怖がるのに、俺に対しては強気に接してくる。
どう考えても、男児よりも俺の方が強面やねんけどな。
でも、それは絲さんが俺に懐いて信頼しとう証や。
◇◇◇
「はーあ、ええよなぁ。そういう過去があったら、良かったのに」
「何が良かったんですか?」
突然声を掛けられて、俺は驚いて布団から体を起こした。
蚊遣りの白い煙が夜の闇に吸い込まれ、除虫菊のにおいに今はまだ夏なのだと実感した。
絲さんは枕に頭をのせたまま、俺の方を向いている。
「蒼一郎さん、楽しそう」
「あ、うん。ちょっとええ夢を見とったわ」
「あら、素敵。どんな夢ですか?」
「いや、まぁ。ちょっとな」
まさか絲さんの子どもの頃を妄想してました、とは言われへんやろ。
いくらその頃の絲さんに恋愛感情は抱かへんで、と説明しても信じてもらえへん気がするし。
「あー、絲さんは子どもの頃、ガキ……いや、男児に虐められたりせぇへんかったか?」
突然何を訊くのかしら? という風に、絲さんは瞬きを繰り返した。
でも、すぐに微笑みを浮かべたのだ。
「大丈夫でしたよ。女の子ばかりで、皆優しかったです」
ん? あぁ、そうやった。
絲さんは女學院に初等部から通っとんやった。
そもそも男はおらんかったか。
安心はしたけど。
俺に向かって泣きながら走って来る過去はそもそもなかったんか、と思うと。妙に寂しい気分にもなった。
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