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三章
43、花街に行かないで【2】
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花街。遊郭。
その二つの単語が、わたしの頭の中でぐるぐるとまわっています。
世俗に疎いわたしでも分かります。そこが何をするところかって。
蒼一郎さんの影に入っているから暗いのか。それともわたしの視界そのものが暗くなったのか、分かりません。
でも、自分でも知らぬ内にわたしは道に頽れてしまったんです。
「ちょ、絲さん? 大丈夫か?」
「うわー、さすがはお嬢さん。本当に弱いんですねぇ」
「森内。お前、黙ってろ。頭やのうても、俺が海に沈めるぞ」
いろんな声が洪水のように溢れて、苦しくて。
これは冷や汗? 嫌よ、また具合が悪くなるなんて。
だって、わたしは元気じゃないと蒼一郎さんに捨てられてしまうもの。
「平気です。歩けますから」
「なに言うとんや」
伸ばされる逞しい腕を払いのけようとしたのに。手に力が入らなくて。
空も坂も、眼下の街も海もすべてがぐるぐると回っていて。ああ、この目眩は貧血だわと気づいた時には、わたしは蒼一郎さんに抱き上げられていました。
◇◇◇
あいすくりんが冷たすぎたんやろか? と、俺は最初思た。
それとも夏の陽射しが強すぎた? けど、決定的なんはそれやないやろ。
俺は、「ほへー」と呑気そうに、ぐったりとした絲さんを眺める森内を睨みつけた。
波多野は、すぐに絲さんの風呂敷包みを拾って、土を払っている。
いつまでも地面に座り込んどったらあかんやろ。俺は絲さんを抱き上げようとしたが。何故か、今日に限って絲さんは俺の手を拒絶する。
「絲さん?」
「平気。歩いて帰れます。ちょっと貧血を起こしただけなの」
平気な訳あらへんやろ。そんな紙みたいに白い顔して。
別に組のモンがおっても、俺に甘えてええんやで。頼むから、強がらんといてくれ。その方が、よっぽど心配や。
何とか俺の手を払いのけようとする絲さんを抱き上げるのは、大変やった。
まるで暴れる猫や。
しかも体力がないのに、暴れるもんやから。さらにぐったりとして。
「あのな、絲さん。俺に抱えられて帰るのと、担架で運ばれるんとどっちがええ?」
「た……担架はいや。歩けます」
「歩かれへんから、言うとんやろ」
俺の腕の中でしばらく暴れていた絲さんだが。目眩がするのか、両手で目を押さえてようやく静かになった。
「もう寝とき。帰ったら、ちゃんと布団で寝させるから」
「……ないで」
「ん?」
尋ね返したが、絲さんはそれっきり口を閉ざしてしまった。
波多野と森内に先に組に帰ってもらったから、帰宅した時にはすでに座敷に布団が敷いてあった。
畳の上には絲さん用の寝間着と、盆に載せられた水の入った壜も用意されとう。
波多野やな。ほんまに絲さんに関しては気が利く奴や。
「ほら、絲さん。着替えさせるから。もう暴れたらあかんで」
布団に降ろした絲さんの袴と着物の袖が、ひらりと広がる。確かマガレイトやったやろか。髪を編んであるから、それも外していく。
柔らかでふわふわの栗色の髪に、編んだ癖がついているのを指で梳いてやる。
ほんまに絹糸みたいな綺麗な髪や。
「行かないで……」
「うん、どこにも行かへんで。絲さんが寝るまで、傍に居るから」
優しい声音でそう告げたのに。絲さんは、微かに首を振った。
その二つの単語が、わたしの頭の中でぐるぐるとまわっています。
世俗に疎いわたしでも分かります。そこが何をするところかって。
蒼一郎さんの影に入っているから暗いのか。それともわたしの視界そのものが暗くなったのか、分かりません。
でも、自分でも知らぬ内にわたしは道に頽れてしまったんです。
「ちょ、絲さん? 大丈夫か?」
「うわー、さすがはお嬢さん。本当に弱いんですねぇ」
「森内。お前、黙ってろ。頭やのうても、俺が海に沈めるぞ」
いろんな声が洪水のように溢れて、苦しくて。
これは冷や汗? 嫌よ、また具合が悪くなるなんて。
だって、わたしは元気じゃないと蒼一郎さんに捨てられてしまうもの。
「平気です。歩けますから」
「なに言うとんや」
伸ばされる逞しい腕を払いのけようとしたのに。手に力が入らなくて。
空も坂も、眼下の街も海もすべてがぐるぐると回っていて。ああ、この目眩は貧血だわと気づいた時には、わたしは蒼一郎さんに抱き上げられていました。
◇◇◇
あいすくりんが冷たすぎたんやろか? と、俺は最初思た。
それとも夏の陽射しが強すぎた? けど、決定的なんはそれやないやろ。
俺は、「ほへー」と呑気そうに、ぐったりとした絲さんを眺める森内を睨みつけた。
波多野は、すぐに絲さんの風呂敷包みを拾って、土を払っている。
いつまでも地面に座り込んどったらあかんやろ。俺は絲さんを抱き上げようとしたが。何故か、今日に限って絲さんは俺の手を拒絶する。
「絲さん?」
「平気。歩いて帰れます。ちょっと貧血を起こしただけなの」
平気な訳あらへんやろ。そんな紙みたいに白い顔して。
別に組のモンがおっても、俺に甘えてええんやで。頼むから、強がらんといてくれ。その方が、よっぽど心配や。
何とか俺の手を払いのけようとする絲さんを抱き上げるのは、大変やった。
まるで暴れる猫や。
しかも体力がないのに、暴れるもんやから。さらにぐったりとして。
「あのな、絲さん。俺に抱えられて帰るのと、担架で運ばれるんとどっちがええ?」
「た……担架はいや。歩けます」
「歩かれへんから、言うとんやろ」
俺の腕の中でしばらく暴れていた絲さんだが。目眩がするのか、両手で目を押さえてようやく静かになった。
「もう寝とき。帰ったら、ちゃんと布団で寝させるから」
「……ないで」
「ん?」
尋ね返したが、絲さんはそれっきり口を閉ざしてしまった。
波多野と森内に先に組に帰ってもらったから、帰宅した時にはすでに座敷に布団が敷いてあった。
畳の上には絲さん用の寝間着と、盆に載せられた水の入った壜も用意されとう。
波多野やな。ほんまに絲さんに関しては気が利く奴や。
「ほら、絲さん。着替えさせるから。もう暴れたらあかんで」
布団に降ろした絲さんの袴と着物の袖が、ひらりと広がる。確かマガレイトやったやろか。髪を編んであるから、それも外していく。
柔らかでふわふわの栗色の髪に、編んだ癖がついているのを指で梳いてやる。
ほんまに絹糸みたいな綺麗な髪や。
「行かないで……」
「うん、どこにも行かへんで。絲さんが寝るまで、傍に居るから」
優しい声音でそう告げたのに。絲さんは、微かに首を振った。
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