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三章
42、花街に行かないで【1】
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「花街には行っていない」という蒼一郎さんに対し、森内さんは否定するような言葉を言いました。
そ、そうですよね。だって男性ですもの。わたしは空になったガラスの器を眺めました。
蒼一郎さんは冬野さんとも仲がいいですし。きっと、おもてになるんでしょう。
ああ、いや。こんなに美味しくて高価なあいすくりんを頂いたのに。女學院へも送り迎えしてくださるほどに大事にしてもらっているのに。
どうしてわたしは、こんなにも強欲なんでしょう。
わたし以外、触れないで。わたしだけを見つめていて、なんて。
きっと子どもじみた我儘なのだわ。
パーラーを出て、家路につく時。正午に近い陽射しがあまりにも眩しくて、わたしは目を細めました。上からの太陽、道に反射する光、それと海を照らす光。
今は夏休みで一年で最も暑い時ですし。お昼時分ということもあって、目眩がしそうです。
普段は、三條邸の中から出ることがないので、外がこんなにも暑いとは知りませんでした。
「日傘を使た方がええかもしれへんな」
「あの方が差しているようなのですか?」
わたしは前方の、坂を下っている男性を示しました。その人は着物姿に、蝙蝠傘を差しています。
黒い蝙蝠傘を、日傘として使う男性は多いようです。
「なんでやねん。絲さんに似合うんは、可愛いレースとかフリルやろ」
「でも、そういうのは高級です。さっきあいすくりんも頂いたのに」
「そうですよー、買ってもらったらいいじゃないですか。女を抱くくらいの値段で買えるんとちゃいますか? ねぇ、頭。最近遊びに行ってないから、金はありますよね」
森内さんが話し終わる前に、『ぴきっ』と音が聞こえたような気がしました。
ええ、いい天気だから水たまりもないですし、冬ではないから氷も張っていないのに。
まさに水たまりの氷が割れたような、鋭い音です。
「森内。お前、蜂蜜と水飴、どっちがええ?」
「は? いや、自分は甘いもんは別に好きでは」
「蜂蜜か水飴か、選ばしたろ。後な、顔だけにするつもりやったけど。全身に塗ることにするわ」
「え? え? なんか怖いんですけど」
脅えて後ずさる森内さんの肩を、とんとん、と波多野さんが軽く叩きます。
「森内。頭に殺されへんだけましやと思た方がええ。けど、蟻だけやのうて蜂まで集まって来たら、いっそ一思いに殺してほしいと思うかもしれへんな」
「恐ろしいこと言わないでください。兄貴ぃ」
暑いのにまるで寒さに震えるかのように、森内さんは自分の肩を抱きました。
ふと、蒼一郎さんが立っている場所を変えました。すると、視界が薄暗くなったんです。
もしかして、陽射しを遮ってくださったのかしら。
「ほら、絲さん」
わたしをご自身の影に入れたまま、蒼一郎さんが手を伸ばしてきます。
いつもならすぐにその手を握るのに。さっきの花街のことや、冬野さんのことが思い出されて。
一瞬、戸惑ってしまったの。
それを聡い蒼一郎さんが見過ごすわけがありません。
「絲さん?」
「いえ、何でもありません」
あいすくりんも美味しかったですし、送り迎えもしてもらって、何も問題ないじゃないですか。
「そういえば、頭。明日の夜、福原で若い衆の集まりがあるんですけど。顔を出してもらえませんか?」
「はーぁ? 俺に言うとんのか」
森内さんの頼みに、蒼一郎さんは心底嫌そうな声を出しました。見上げれば、眉もしかめています。
「いいじゃないですか。集会の後は、そのまま遊べますよ」
邪気のない森内さんでしたが、蒼一郎さんと波多野さんは溢れる怒気をまとっていました。
「あ、あの福原って何ですか?」
「絲さんは、知らんでもええ」
「森内の言うことは、絲お嬢さんには関わり合いのないことです。無論、頭にも」
え、でも。女がどうって。
戸惑うわたしの手を、蒼一郎さんはぎゅっと握りしめます。
その時、ひょいっと森内さんがわたしの方を覗きこみました。
「福原ってのは、花街ですよ。遊郭があるんです」
そ、そうですよね。だって男性ですもの。わたしは空になったガラスの器を眺めました。
蒼一郎さんは冬野さんとも仲がいいですし。きっと、おもてになるんでしょう。
ああ、いや。こんなに美味しくて高価なあいすくりんを頂いたのに。女學院へも送り迎えしてくださるほどに大事にしてもらっているのに。
どうしてわたしは、こんなにも強欲なんでしょう。
わたし以外、触れないで。わたしだけを見つめていて、なんて。
きっと子どもじみた我儘なのだわ。
パーラーを出て、家路につく時。正午に近い陽射しがあまりにも眩しくて、わたしは目を細めました。上からの太陽、道に反射する光、それと海を照らす光。
今は夏休みで一年で最も暑い時ですし。お昼時分ということもあって、目眩がしそうです。
普段は、三條邸の中から出ることがないので、外がこんなにも暑いとは知りませんでした。
「日傘を使た方がええかもしれへんな」
「あの方が差しているようなのですか?」
わたしは前方の、坂を下っている男性を示しました。その人は着物姿に、蝙蝠傘を差しています。
黒い蝙蝠傘を、日傘として使う男性は多いようです。
「なんでやねん。絲さんに似合うんは、可愛いレースとかフリルやろ」
「でも、そういうのは高級です。さっきあいすくりんも頂いたのに」
「そうですよー、買ってもらったらいいじゃないですか。女を抱くくらいの値段で買えるんとちゃいますか? ねぇ、頭。最近遊びに行ってないから、金はありますよね」
森内さんが話し終わる前に、『ぴきっ』と音が聞こえたような気がしました。
ええ、いい天気だから水たまりもないですし、冬ではないから氷も張っていないのに。
まさに水たまりの氷が割れたような、鋭い音です。
「森内。お前、蜂蜜と水飴、どっちがええ?」
「は? いや、自分は甘いもんは別に好きでは」
「蜂蜜か水飴か、選ばしたろ。後な、顔だけにするつもりやったけど。全身に塗ることにするわ」
「え? え? なんか怖いんですけど」
脅えて後ずさる森内さんの肩を、とんとん、と波多野さんが軽く叩きます。
「森内。頭に殺されへんだけましやと思た方がええ。けど、蟻だけやのうて蜂まで集まって来たら、いっそ一思いに殺してほしいと思うかもしれへんな」
「恐ろしいこと言わないでください。兄貴ぃ」
暑いのにまるで寒さに震えるかのように、森内さんは自分の肩を抱きました。
ふと、蒼一郎さんが立っている場所を変えました。すると、視界が薄暗くなったんです。
もしかして、陽射しを遮ってくださったのかしら。
「ほら、絲さん」
わたしをご自身の影に入れたまま、蒼一郎さんが手を伸ばしてきます。
いつもならすぐにその手を握るのに。さっきの花街のことや、冬野さんのことが思い出されて。
一瞬、戸惑ってしまったの。
それを聡い蒼一郎さんが見過ごすわけがありません。
「絲さん?」
「いえ、何でもありません」
あいすくりんも美味しかったですし、送り迎えもしてもらって、何も問題ないじゃないですか。
「そういえば、頭。明日の夜、福原で若い衆の集まりがあるんですけど。顔を出してもらえませんか?」
「はーぁ? 俺に言うとんのか」
森内さんの頼みに、蒼一郎さんは心底嫌そうな声を出しました。見上げれば、眉もしかめています。
「いいじゃないですか。集会の後は、そのまま遊べますよ」
邪気のない森内さんでしたが、蒼一郎さんと波多野さんは溢れる怒気をまとっていました。
「あ、あの福原って何ですか?」
「絲さんは、知らんでもええ」
「森内の言うことは、絲お嬢さんには関わり合いのないことです。無論、頭にも」
え、でも。女がどうって。
戸惑うわたしの手を、蒼一郎さんはぎゅっと握りしめます。
その時、ひょいっと森内さんがわたしの方を覗きこみました。
「福原ってのは、花街ですよ。遊郭があるんです」
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