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三章

27、小さな我儘

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 俺は重い腰を上げて、文机から残骸にしか見えへん紙を取り、絲さんに手渡した。

 あんなに「捨てないで」だの「取ってほしい」だのとねだっていたのに。
 元ゴミ……いや、俺の書きなぐった恋情を目にした絲さんは、瞼をきつく閉じた。そして横になり、慌てて紙を敷布団に置く。

 どうしたんや? と思て、自分の書いた雑文を覗きこむと、俺まで絶句した。

――ああ、絲さん。会いたいなぁ。絲さんが帰ってきたら接吻の雨を降らしたるのに。髪にも手にも頬にも首にもつま先にも足にも。俺は雨になりたい。貴女に優しく降りかかる、春の雨に。

 うわっ。生々しい。
 俺、さっきまでこの文面に書かれとうことを実行しとったんやな。

 絲さんも俺に抱かれとう時の情景を思い出して、見るに堪えんかったんやろ。

「えーと、もうこれは捨てよか」
「……捨てないで」
「でも、絲さんも見てられへんやろ。この文面見たら、恥ずかしいんと違うんか?」

 そう告げると、絲さんは夏布団を頭まで引き上げてしまった。
 ああ、そんな無体な。せっかくの可愛い顔を隠してしまうやなんて。
 
 絲さんは布団の隙間から、手だけを出して指先を自分の方に向けて、くいっと動かす。
 返してほしいという事やろか。

「絲さん。この落書き見るん、恥ずかしいんやろ?」
「……恥ずかしいです」
「そしたら、捨てといたろな」
 
 ふるふると布団に隠れた頭が動くのが分かる。
 うーん、もうひと押しかな。

「けど、さっきのと云うか、昨日から俺に抱かれ続けたんを思い出して恥ずかしいんやろ」

 返事はない。動きもない。
 そーっと夏布団をめくってみると、絲さんは顔を真っ赤にして瞳を潤ませていた。

「は、はず、恥ずかしいですよ。そりゃあ」
「そしたら、それを思い出す品はいらんやろ」
「いやっ」

 珍しく強い語調やった。布団から顔を出して、必死に俺から紙を奪い取ろうとする。
 普段やったら、それくらい訳ないやろに。疲れ果てている絲さんには、奪うんも難しいらしくて、すぐに布団に倒れこんでしまう。

「ほら、無理せんとき」
「いやっ。捨てないで。蒼一郎さんがわたしにくださった物は、捨てちゃだめなの。物も手紙も心も、何もかも大事にしたいから」

 あまりにも可愛すぎる我儘やった。
 感動で心が痺れるというのを、初めて経験したかもしれへん。
 
 絲さんは瞳を潤ませたままで「返して……」と、小さく訴えてくる。
 
 俺は紙を小さくたたんで、絲さんのてのひらに載せた。
 そして上体を落として、彼女のひたいにくちづける。

「どうしたら俺の全部を、絲さんにあげられるんやろな」
「……全部でなくていいの」

 折りたたまれた紙を、絲さんは両手で大事そうに包んで胸の上に置く。
 
「わたしのことを、忘れる時があってもいいの。でも、それでもやっぱり思い出してほしいんです」
「絲さん……」

 俺は言葉が継げんかった。何か決意を秘めたような、或いは何かを悟ったような絲さんの表情。青ざめとんのは、俺が無茶した所為やろ? それ以外にないよな。

「だからこの手紙と、あの恋文はわたしが持っています。もし蒼一郎さんと離れることがあっても、常に大事にしていたいんです」

「離すな」と言うたんは、絲さんやないか。
 そんな風に咎めることは出来へんかった。
 絲さんが薄々気づいとう寂しさが、まるで寂しい色の結晶となっていく気がしたからや。

 分かっとう。
 大病をしとうわけではないけど。絲さんには生きる為の力が圧倒的に足りへん。
 
 普通の人が、夏の朝の眩く力強い日差しを好ましいと思うように、彼女にとっては薄暮の、今にも消え入りそうな幽かな日差しに包まれる方が心地ええんやろ。

 俺は、そんな優しい光にはなられへん。無茶ばっかりして、いつか絲さんの命を削ってしまうかもしれへん。

 そう思って、一度は手を離したのに。あんたはまた手を繋ぎに来た。こうして、しっかりと握って。絲さんにとっての俺は、火傷しそうなほどに熱いはずやのに。

 寂しい……いつか来るであろう絲さんとの別れを思うだけで、こんなにも苦しくて、胸が切り裂かれるかのようにつらい。
 たとえ離れていても、絲さんにはずっと生きていてほしい。
 昼の光に祝福されんでもええ。黄昏の中で、絲さんはずっと静かに存在していてほしい。
 俺なんかに潰されんと……。
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