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三章

2、ただの散歩【1】

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 俺は、結局まだ使わんままになってしもた、絲さんの部屋に入った。
 正確には、俺と絲さん二人の為に用意した部屋や。
 座敷ほどには広くない和室。うちは平屋やから、彼女の実家みたいに二階から、海が見えるとかはない。
 けど、組員が自由に出入りせぇへん坪庭があって、今は青もみじの浅緑に、陽光が透けている。

「気に入ってくれると思うたんけやど。しゃあないかな」

 青い藺草の匂いのする畳の上で、俺は胡坐をかいた。

 嘘や。しゃあないなんて思てへん。この部屋やったら十分に静かやし。絲さんかてゆっくりと休めるはずや。
 けど……。

 俺は、まだ幼かった絲さんがくれた千代紙の豚やったかウサギやったかを、じっと見つめた。
 でかいてのひらで、その折り紙は、やたらと小さく愛らしく見えた。俺の指はこんな繊細なもんは折られへん。

 絲さんのために用意した棚の抽斗を開いて、そこから押し花を漉き込んだ和紙を手に取った。
 淡い青の花の名前を、俺は知らへん。
 文机に向かい、硯で墨を摺る。静かな部屋に、墨がこすれる音だけが聞こえる。
 
 指を折って五を数え、次に七を数える。
 うん、いけそうや。

――われをよぶアンドロメダーのこゑきけば
  ゆめのなかにも にじかかるやう

 細い筆で、一気に文字をしたためる。
 あかん、呼吸するん忘れとった。
 息苦しさに気づいて、俺は深呼吸した。

「しっかし乙女な歌やなぁ。ほんまに俺が詠んだんか?」

 自分でも信じられへんくらい、浪漫溢れる短歌やった。
 水色の花の紙に書かれたその文字の並びを見据えていると、なぜか頬が熱くなった。

 俺には乙女チックな趣味があるんか?
 確かに短歌をこっそりと詠むことはあったけど。どれも下手くそで、書き留めたことすらないのに。

 短歌の上達の為には、同人誌を発行しとう短歌結社に入会するんが王道や。
 絲さんは以前「蒼一郎さんは主催者側になれますよ」なんて、嬉しいことを言うてくれたけど。
 そこまで自分を買いかぶったりしてへん。

「これって、恋文やんなぁ」

 あかん、恥ずかしなってきた。散歩にでも行ってこよ。
 さすがにこの部屋に入る奴はおらんやろけど。もし万が一にでも、組員に見られたら。この乙女な歌を書いたんが、俺やって文字でばれてしまう。
 
 丁寧に和紙を畳んで、それを懐に入れた。
 その辺に捨てるわけにもいかんし。どっかで燃やした方がええんやろか。

 そろそろ凪の時間なんか、風は停滞しとう。ねっとりと肌にまとわりつくような、湿気を伴う大気。今年はとくに夏が暑そうや。

「別に冷夏になれとはいわへん。けど、せめて絲さんが過ごしやすい気候になってくれへんやろか」

 今年初めての蝉の声を聞きながら、俺はため息をついた。
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