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三章
1、二人の日々
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春も、長い梅雨も過ぎ、ちょうど祇園祭の先祭の頃、ようやく梅雨が明けました。
今年は特に暑いのかしら。わたしはよく汗をかいて、登校途中でよく道の端にしゃがみこんだの。
送ってくださる蒼一郎さんが心配して、立ち止まってくれるけれど。
先輩方や中等部の子たちが「大丈夫かしら」という風に、ふり返りつつ坂を上っていきます。
「絲さん。顔色青いで」
「そうかしら。でも、暑いのだけど」
わたしは自分の頬に触れて、びっくりしました。だって、とても冷たかったから。
「ちょっと待ち。もしかしてそれ、冷や汗と違うんか?」
「冷たくはない……あれ? 変です」
わたしは気付きました。これは貧血の前兆です。目の前がちかちかと瞬いて、体温が高くなったと思うと、今度は寒くなって。
「ごめんなさい、無理みたいです」
「絲さん?」
「お家に、連れて帰ってください」
「遠野の家にか?」
わたしは弱々しく首を振りました。
「蒼一郎さんの……わたし達のお家にです」
実家は少し遠いからではありません。蒼一郎さんに傍にいてほしかったんです。
わたしは、蒼一郎さんの着物の胸の辺りにしがみつきました。
ああ、いや。もっと元気なら。心配なんてかけずに済むのに。
目の前が暗くなり、わたしは彼の腕の中に倒れこみました。
「絲さん」とせわしげに呼ぶ声が、遠くに聞こえました。
◇◇◇
気づいたとき、わたしの目に映っていたのは洋室の天井でした。太い梁があるわけでもなく、首を横に向けても、床の間もありません。
ええ、それに蒼一郎さんもいないの。
「絲お嬢さま。気がつかれましたか?」
お薬と水の入ったグラスの載ったお盆を持って、部屋に入ってきたのはばあやでした。
そうなのね。わたし実家に戻されたんだわ。
ふいに涙が滲んできました。
お気に入りのマホガニーの箪笥も、小花模様の素敵なカーテンも、何もかもがぼやけて見えたの。
「大丈夫ですか?」
「……蒼一郎さんは?」
ばあやは少し躊躇ってから、ゆっくりと口を開きました。
「三條さんでしたら、お戻りになられましたよ」
「戻ったって。わたしをこの家に置いて?」
「ええ。遠野の家の方がお嬢さまが落ち着くだろうと仰って」
どうして?
だって、蒼一郎さんのお家に連れて帰ってって、お願いしたのに。何故聞いてくれなかったの?
「お医者さまがいらして、お嬢さまが大丈夫だという話をお聞きになると、すぐに」
「どうして?」
わたしはベッドから降りようとしましたが、ふらついてばあやに支えられました。
けれど、ばあやも一緒によろけてしまって。
嗚呼、蒼一郎さんならしっかりと受け止めてくれる。けれど、もうあの手がわたしを支えてくれることはないのかもしれない。
怖そうなお顔なのに、はにかんだ微笑みももう見られないのかもしれない。
「お嬢さま、苦しいのですか? ベッドにお戻りください
わたしは「平気」と首を振りました。でも、本当は苦しいの。喉が塞がれたみたいに息苦しくて、それに目の辺りが熱くなって。
わたし……こんなに弱いから、もういらないんだわ。
好きだって言ってくれたのに。許嫁だって、待っていたって言ってくれたのに。
「う……っ、うう……ぅ」
我慢しようとしても、嗚咽が洩れてしまいます。
蒼一郎さんは強引だし、怖いし……でも、とても優しくて。
わたし……わたし、あの人のことが好きになっていたのに。
もう、いらないって。
ばあやがそっと側卓に置いてくれた薬には、オブラートが添えてありました。
もう、オブラートがなくても飲めるようになったのに。
それを思うと、また涙が溢れてきて。
わたしは布団をかぶって、静かに泣いたの。
今年は特に暑いのかしら。わたしはよく汗をかいて、登校途中でよく道の端にしゃがみこんだの。
送ってくださる蒼一郎さんが心配して、立ち止まってくれるけれど。
先輩方や中等部の子たちが「大丈夫かしら」という風に、ふり返りつつ坂を上っていきます。
「絲さん。顔色青いで」
「そうかしら。でも、暑いのだけど」
わたしは自分の頬に触れて、びっくりしました。だって、とても冷たかったから。
「ちょっと待ち。もしかしてそれ、冷や汗と違うんか?」
「冷たくはない……あれ? 変です」
わたしは気付きました。これは貧血の前兆です。目の前がちかちかと瞬いて、体温が高くなったと思うと、今度は寒くなって。
「ごめんなさい、無理みたいです」
「絲さん?」
「お家に、連れて帰ってください」
「遠野の家にか?」
わたしは弱々しく首を振りました。
「蒼一郎さんの……わたし達のお家にです」
実家は少し遠いからではありません。蒼一郎さんに傍にいてほしかったんです。
わたしは、蒼一郎さんの着物の胸の辺りにしがみつきました。
ああ、いや。もっと元気なら。心配なんてかけずに済むのに。
目の前が暗くなり、わたしは彼の腕の中に倒れこみました。
「絲さん」とせわしげに呼ぶ声が、遠くに聞こえました。
◇◇◇
気づいたとき、わたしの目に映っていたのは洋室の天井でした。太い梁があるわけでもなく、首を横に向けても、床の間もありません。
ええ、それに蒼一郎さんもいないの。
「絲お嬢さま。気がつかれましたか?」
お薬と水の入ったグラスの載ったお盆を持って、部屋に入ってきたのはばあやでした。
そうなのね。わたし実家に戻されたんだわ。
ふいに涙が滲んできました。
お気に入りのマホガニーの箪笥も、小花模様の素敵なカーテンも、何もかもがぼやけて見えたの。
「大丈夫ですか?」
「……蒼一郎さんは?」
ばあやは少し躊躇ってから、ゆっくりと口を開きました。
「三條さんでしたら、お戻りになられましたよ」
「戻ったって。わたしをこの家に置いて?」
「ええ。遠野の家の方がお嬢さまが落ち着くだろうと仰って」
どうして?
だって、蒼一郎さんのお家に連れて帰ってって、お願いしたのに。何故聞いてくれなかったの?
「お医者さまがいらして、お嬢さまが大丈夫だという話をお聞きになると、すぐに」
「どうして?」
わたしはベッドから降りようとしましたが、ふらついてばあやに支えられました。
けれど、ばあやも一緒によろけてしまって。
嗚呼、蒼一郎さんならしっかりと受け止めてくれる。けれど、もうあの手がわたしを支えてくれることはないのかもしれない。
怖そうなお顔なのに、はにかんだ微笑みももう見られないのかもしれない。
「お嬢さま、苦しいのですか? ベッドにお戻りください
わたしは「平気」と首を振りました。でも、本当は苦しいの。喉が塞がれたみたいに息苦しくて、それに目の辺りが熱くなって。
わたし……こんなに弱いから、もういらないんだわ。
好きだって言ってくれたのに。許嫁だって、待っていたって言ってくれたのに。
「う……っ、うう……ぅ」
我慢しようとしても、嗚咽が洩れてしまいます。
蒼一郎さんは強引だし、怖いし……でも、とても優しくて。
わたし……わたし、あの人のことが好きになっていたのに。
もう、いらないって。
ばあやがそっと側卓に置いてくれた薬には、オブラートが添えてありました。
もう、オブラートがなくても飲めるようになったのに。
それを思うと、また涙が溢れてきて。
わたしは布団をかぶって、静かに泣いたの。
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