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一章
25、夕餉【1】
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蒼一郎さんが仰るには、遠野の家に遣いに出していた組員と共に、うちのばあやと下宿している水浦さんがやってきたそうです。
「絲さんが学校に行っとう間に、縁談が持ち込まれとったらしいで。俺との縁談が先やったから、ご両親は断ったらしいけど。お見合いおばさんとでもいうんか? 結構しつこく食い下がったみたいやわ」
「わたしにお見合い、ですか?」
「そう」
わたしは濡れ縁に座ったまま、絞りの浴衣の衿をきゅっと握りました。
「わたし、恋ってしたことないんです」
「せやろな。出会いもないやろ」
「分かっているの。恋と結婚は別だし。自由恋愛は認められていないって」
男性は恋愛をいわゆる玄人さんと楽しむのが粋で、結婚は単に家同士を繋げ、子孫繁栄のため。
結婚しても外に愛人をつくるのが当たり前で、しかもわたしは体が弱いから……子だくさんなんて絶対に無理。
「愛人を囲うのが男の甲斐性とかいう奴もおるけどな。俺は、そうは思わん」
「蒼一郎さん……」
見上げると、隣に座る蒼一郎さんの表情は真剣でした。
「『恋愛は人生の秘鑰なり。恋愛ありて後、人世あり』て、北村透谷も書いとったやろ」
「ぞ、存じ上げません」
秘鑰って、なんですか?
女學院では、そんな人の言葉は習っていません。だって聖書に書かれている教えと、いかにして良妻賢母になるかばかりですもの。
「秘鑰いうんは、秘密の鍵という意味や。そうか、こういう思想は学校では習わんのやな」
蒼一郎さんは極道で、しかも組長ですけど。でも、勉強熱心というか、学がおありのようです。
「まぁ、この北村いう人は、処女の純潔について随筆で論じとったから。女學校で教える内容でもないか」
それはさすがに、ちょっと……。
「俺は絲さんを好いとう。その先に結婚があるにしても、俺に恋してくれへんか? それとも俺みたいなんは、絲さんに相応しないか?」
わたしは首を振りました。
蒼一郎さんにふさわしくないのは、多分わたしの方だもの。
◇◇◇
夕餉の時間になり、座敷にはお膳が運ばれてきました。
筍ごはんに、木の芽味噌を塗ったお豆腐と生麩の田楽、鯛の塩焼きにお吸い物と盛りだくさんです。
縁談のことで気が重かったけれど。空腹には適いません。
「食べられるか?」
「はい。どれも美味しそうです。でも、どうしてですか?」
蒼一郎さんは、わたしの向かいに置かれた膳の前に座りました。
「いや。普段、洋食みたいなハイカラなんを食べとうと思たから」
「和食、好きですよ。洋食は味がこってりしているから、本当はあまり得意ではないの」
「なら、よかった」
ほっとしたように微笑んで、蒼一郎さんは徳利からお猪口にお酒を注ぎました。
えーと、これって手酌よね。わたしが注いだ方がいいのかしら。
おろおろしていると「別に気にせんでええから」と言われてしまいました。
なぜわたしの考えていることが、分かったのでしょう。
「いただきます」と両手を合わせて、まずはお吸い物をひとくち。
黒塗りのお椀に入ったお汁は澄んでいるのに、お出汁の味がよく効いています。白身のお魚が何かは分かりませんが。ほろりと口の中で崩れていきます。
「おいしいですねぇ」
しみじみとそう呟くと、蒼一郎さんは口許をほころばせました。
「たくさん食べて、元気になり。絲さんはもっと太らなあかん」
そういえば裸を見られていたんでした。
わたしは、顔が熱くなるのを感じました。
いえ、見られたどころではなく。たくさん触れられもして……。
「い、言わないでください」
「別になんも言うてへんで。ああ、でも月曜日まではここにおった方がええ。それまでは可愛がるつもりなんやけど」
お酒を飲みながら、にやにやとわたしを見つめているので。わたしは堪らずに蒼一郎さんに背中を向けたの。
「おいおい、そんなんしたら飯が食われへんやろ」
「蒼一郎さんの顔を見ている方が、食べられません」
「つれへんなぁ」
「絲さんが学校に行っとう間に、縁談が持ち込まれとったらしいで。俺との縁談が先やったから、ご両親は断ったらしいけど。お見合いおばさんとでもいうんか? 結構しつこく食い下がったみたいやわ」
「わたしにお見合い、ですか?」
「そう」
わたしは濡れ縁に座ったまま、絞りの浴衣の衿をきゅっと握りました。
「わたし、恋ってしたことないんです」
「せやろな。出会いもないやろ」
「分かっているの。恋と結婚は別だし。自由恋愛は認められていないって」
男性は恋愛をいわゆる玄人さんと楽しむのが粋で、結婚は単に家同士を繋げ、子孫繁栄のため。
結婚しても外に愛人をつくるのが当たり前で、しかもわたしは体が弱いから……子だくさんなんて絶対に無理。
「愛人を囲うのが男の甲斐性とかいう奴もおるけどな。俺は、そうは思わん」
「蒼一郎さん……」
見上げると、隣に座る蒼一郎さんの表情は真剣でした。
「『恋愛は人生の秘鑰なり。恋愛ありて後、人世あり』て、北村透谷も書いとったやろ」
「ぞ、存じ上げません」
秘鑰って、なんですか?
女學院では、そんな人の言葉は習っていません。だって聖書に書かれている教えと、いかにして良妻賢母になるかばかりですもの。
「秘鑰いうんは、秘密の鍵という意味や。そうか、こういう思想は学校では習わんのやな」
蒼一郎さんは極道で、しかも組長ですけど。でも、勉強熱心というか、学がおありのようです。
「まぁ、この北村いう人は、処女の純潔について随筆で論じとったから。女學校で教える内容でもないか」
それはさすがに、ちょっと……。
「俺は絲さんを好いとう。その先に結婚があるにしても、俺に恋してくれへんか? それとも俺みたいなんは、絲さんに相応しないか?」
わたしは首を振りました。
蒼一郎さんにふさわしくないのは、多分わたしの方だもの。
◇◇◇
夕餉の時間になり、座敷にはお膳が運ばれてきました。
筍ごはんに、木の芽味噌を塗ったお豆腐と生麩の田楽、鯛の塩焼きにお吸い物と盛りだくさんです。
縁談のことで気が重かったけれど。空腹には適いません。
「食べられるか?」
「はい。どれも美味しそうです。でも、どうしてですか?」
蒼一郎さんは、わたしの向かいに置かれた膳の前に座りました。
「いや。普段、洋食みたいなハイカラなんを食べとうと思たから」
「和食、好きですよ。洋食は味がこってりしているから、本当はあまり得意ではないの」
「なら、よかった」
ほっとしたように微笑んで、蒼一郎さんは徳利からお猪口にお酒を注ぎました。
えーと、これって手酌よね。わたしが注いだ方がいいのかしら。
おろおろしていると「別に気にせんでええから」と言われてしまいました。
なぜわたしの考えていることが、分かったのでしょう。
「いただきます」と両手を合わせて、まずはお吸い物をひとくち。
黒塗りのお椀に入ったお汁は澄んでいるのに、お出汁の味がよく効いています。白身のお魚が何かは分かりませんが。ほろりと口の中で崩れていきます。
「おいしいですねぇ」
しみじみとそう呟くと、蒼一郎さんは口許をほころばせました。
「たくさん食べて、元気になり。絲さんはもっと太らなあかん」
そういえば裸を見られていたんでした。
わたしは、顔が熱くなるのを感じました。
いえ、見られたどころではなく。たくさん触れられもして……。
「い、言わないでください」
「別になんも言うてへんで。ああ、でも月曜日まではここにおった方がええ。それまでは可愛がるつもりなんやけど」
お酒を飲みながら、にやにやとわたしを見つめているので。わたしは堪らずに蒼一郎さんに背中を向けたの。
「おいおい、そんなんしたら飯が食われへんやろ」
「蒼一郎さんの顔を見ている方が、食べられません」
「つれへんなぁ」
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