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一章

15、木苺と粉薬【2】

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「ふぅん。木苺っていうのは、美味いもんやな。で、絲さんはどうするん?」
「……っ」
「聞こえへん」

 わたしは敷布団の上で正座をして、両手を膝の上で握りしめました。
 皐月苺さつきいちごはこの時季だけのもの。抗いがたい魅力があります。

「た、食べ、させて……ください」

 自分の顔がとても熱くなるのを感じました。これは発熱しているせいだけじゃないです。きっと。

 蒼一郎さんは片方の口の端を上げて、意地悪そうな笑みを浮かべました。
 この人は、よく笑うんですね。

 ガラスの器の中で、一番粒の大きな皐月苺を蒼一郎さんが抓み、それを差し出します。
 一粒一粒がつるんとした集合体の果実が、わたしの唇に触れました。

 その感触に思わず瞼を閉じます。

「ちゃんと目ぇけ」
「でも」

 目を瞑っていても、木苺は食べられると思うんです。なのに、蒼一郎さんはそれを許してくれません。
 わたしはゆっくりと瞼を開いて、それと一緒に唇も開きました。

 長く、節くれだった指が、わたしの下唇に触れます。そのまま皐月苺が口の中に滑り込んできました。

「噛みなさい」

 命じられるままに噛むと、甘酸っぱい味と皐月苺特有の青い匂いが広がります。
 ええ、学校帰りに摘んで食べるくらい好きなのに。普段ほどに味がはっきりとしなくて。

 器に入った皐月苺を食べ終わると、蒼一郎さんは薬包を開いたの。
 もちろん中には粉薬が入っています。

 その苦味を想像して、思わず顔をしかめてしまいました。

「あの、もう熱はすぐに下がると思うんです」
「ふぅん。絲さんは素人やのに、診断ができるんか。すごいな」

 すごいと言われても、はっきりと馬鹿にされているのは伝わってきます。
 子どもっぽいとは思うのだけれど、わたしは頬を膨らませました。

「平気です。オブラート無しでも自分で飲めますから」

 わたしは手を伸ばして、盆に置いてあるグラスを取りました。そして蒼一郎さんから白い薬包を奪います。

 飲めますよ、粉薬くらい。馬鹿にしないでください。
 いかにも苦そうな匂いを放つ薬を、わたしは凝視しました。
 平気、大丈夫。こんなの一気に水で流し込めばいいだけだもの。

「飲まへんのか?」
「飲みますよ」

 どこかに時計があるのか、かちかちという針の動く音が聞こえます。
 床の間に飾られている赤紫の華やいだ牡丹の花びらが、一枚落ちました。

「まだ飲まへんのか?」
「飲みますってば」

 蒼一郎さんは焦れたのか、手近にあった本に手を伸ばしました。雑誌で暗い色の表紙には『国民小説』と題字があります。
 わたしは『少女界』を主に読んでいるので、『国民小説』は、本屋さんでしか見かけたことがないのだけれど。
 なんだか難しそうな小説が並んでいます。

 すぐに小説に入り込んだのか、蒼一郎さんはきゅっと眉根を寄せました。
 焦れる様子で頁をめくると、小さくほっと息をつきます。

 これは見ていて楽しいです。
 話の内容は当然わたしには分からないけれど。でも手に汗握る展開であるのは、蒼一郎さんの表情から伝わってきます。
 意外と難しい内容ではないのかしら?

「ん? なんや。まだ飲んでへんやん」

 はっ。忘れていました。
 わたしは手の中の薬包に視線を落としました。
 もちろん、しっかりとさらさらの粉は残っています。

 あーあ。知らぬ内に消えてくれていたらよかったのに。
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