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一章

9、初めてやないのに

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「絲さんには、俺がついとうからな」

 瞼を閉じたままで素直に絲さんがうなずくから、俺は彼女の頬に唇を寄せた。

 ほっぺたくらいになら、接吻してもええやろか。
 いや、こういう時に限って、きっと波多野が戻ってきたりするんや。

 逡巡しつつ耳を澄ますが、廊下を歩く音は聞こえない。
 桶に水を汲むって言うとったな。裏庭の井戸やから、すぐには戻ってこぉへんか。

 ほんのちょっとやから。触れるだけやから。
 絲さんの寝てる布団の側に座る俺は、彼女の手を握ったまま上体を屈めた。

 女に接吻したことも抱いたことも、三十歳やから勿論ある。けど、こんな風にドキドキしたことは、一度もなかった。

 唇とちゃうから、泣いたりせぇへんよな。いや、でも俺なんかに……ヤクザの組長なんかに接吻されたと知ったら、舌を噛みたなるかもしれへんよな。

 いやいやいや、考えすぎや。頑張れ、俺。
 っていうか、接吻って頑張るもんなんか?

 しばらく逡巡しとると、絲さんが目を覚ました。ひたいから落ちそうになる手拭いを手で押さえつつ、彼女はゆっくりと上体を起こす。

「あの、ここは?」

 間近に迫った絲さんの顔。熱のせいで上気した頬。
 自分でも信じられへんのやけど、俺は絲さんの唇にくちづけとった。

 絲さんは何が起こったんか分からん様子で、目を丸く見開いた。
 手で押さえとったはずの手拭いは、掛け布団の上に落ちていった。

「柔らか……」

 俺は思わず呟いとった。
 絲さんはまじまじと俺の顔を見つめて、それから空いた左手で自分の唇に手を触れた。
 
「あの。今、何をなさったの?」

 それを俺に訊くんか。俺が答えられると思てんのか、この子は。
 頭を抱えたなったけど。そんなんしたら、絲さんの右手を離さなあかん。

「絲さん、もう十六になるんやろ。接吻も知らんのか?」
「知ってはいますけど。したことも、されたこともないので」

 そらまぁ、そうやろな。逆に慣れとったらびっくりや。
 俺はまた上体を屈めて、絲さんに唇を寄せた。

◇◇◇

 どうすればいいのかしら。
 三條さんの顔が間近に迫ってきて、わたしは固まってしまいました。

「こういう時は、目ぇ閉じるんやで」
「は、はい」

 言われるままに瞼を閉じます。三條さんの片手はわたしの手とつないだまま。もう片方の手は、わたしの頬に添えられました。

 再び、少しかさついた唇が重ねられました。
 
「ああ、震えとう。可愛いな」
「……言わないでください」

 恥ずかしさに顔を背けようとしたけれど、無理でした。
「もっとよう顔を見せてみ」と、三條さんの方を向かされます。

「俺は、あんたが約束の十六歳になるんを待っとった。三年か……長かったわ」
「わたしのことを、待っていらっしゃったの?」
「せや。学校帰りの絲さんを見かけるたびに、あんたは大人びていくから。気が気やなかった。どっかの書生に心惹かれたりせぇへんやろかって」

 そう囁きながら、三條さんは何度もくちづけてきます。

「この先、たぶん近い内に俺は絲さんを抱くと思う。せやから少しずつ慣らしていこな」

 思いがけない言葉に、わたしは三條さんの羽織の袖にしがみつきました。
 三條さんはわたしを抱きしめて、唇や頬だけじゃなくて、うなじにも接吻したわ。

 軽く、そしてひりつく痛みを感じるほどに強く。
 長襦袢姿のままで、殿方に抱きしめられるなんて。きっとシスターに叱られるけれど。
 でも、なぜかしら。
 三條さんの腕の中にいると、不思議と懐かしくて落ち着くの。

 この人が、わたしの許嫁だからなの?
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