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一章
4、不器用な人【1】
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三條さんの腕に抱えられたまま、首筋に彼が顔を埋めています。
しかも、わたしの匂いをかいでいるの。
もう、恥ずかしくてどうしようもなくて。なんとか逃げたかったのに。三條さんはわたしを地面に降ろすつもりは全くなさそうなの。
「や、やめてください」
「やめへん」
彼の硬い黒髪に手をさし入れて、なんとか引き剥がそうとしますが、無理でした。
「絲さんは俺の嫁になる人や。なんで離さなあかんのや」
「そんなの承諾していません」
「まだ幼い思て、遠野の爺さんが絲さんに教えてへんかったんやろ。せやったら、今ここで承諾したらええ」
わたしが三條さんの……極道の妻になるなんて。しかも三年も前から、それが決まっていたなんて。青天の霹靂です。
お爺さま、どうして何も教えてくれないままに亡くなってしまったの?
午後の太陽は、茂った葉に遮られて森の中はひんやりとしています。
さっき、草の上に手と膝をついたからでしょうか。それとも三條さんの鼻先や唇が、首筋に触れているからでしょうか。
わたしは寒さを感じたの。
「震えとうな。俺のことが怖いんか」
「……いいえ、多分、違います」
答える声は妙にか細くて。あ、これは熱が出るわとわたしは自覚したの。
何の自慢にもならないけれど。子どもの頃からよく寝込んでいたから、貧血と発熱の前兆はすぐに分かるんです。
「早く帰らないと。お願いです。降ろしてください」
「まだ、夕方にもなってへんで」
「違うの。具合が悪くなるから、それまでに家に帰らないと……」
言っている傍から、頭がぼうっとしてきました。でも、これなら微熱くらいで治まりそう。家まで歩いて帰ることもできそうです。
「具合が悪なるって……おい、絲さん。顔、赤いで」
「慣れてますから、大丈夫です」
「大丈夫なことあらへんやろ。体も熱いやんか」
不安そうにおろおろする三條さんの顔が、ぼんやりと朧になりました。
おかしいです。そんなに熱が上がるほどの兆ではなかったのに。
私の手から落ちた半巾が、ひらりと草の上に広がります。
レースで縁どられた白い布に、同色の糸でイニシャルを筆記体で刺繍したお気に入りの半巾。
拾わなくちゃと手を伸ばした時、目眩がして。そして視界が暗くなったの。
ラベンダーの香りが、だんだん薄らいでいきました。
◇◇◇
「絲さん? 絲さんっ!」
俺は腕の中でぐったりとした絲さんを、落とさんように抱えなおした。
彼女の手にも体にも力が入ってへん。とても軽い体だが、さっきよりも重みが増しとんのは、意識を失っとうせいやろ。
絲さんの家は、うちから歩いて十数分もあれば着く。
せやけど……俺は逡巡した。
こんな熱を出してしもた絲さんは、動かさん方がええんやないか? 俥を頼むにしても、揺れるやろ。揺れたら、絲さんがしんどいやろ。
そうでなくても、こないに青い顔をしてるのに。
「絲さん。あんたは嫌がるやろけど、我慢しぃや」
俺は熱くて細い体をぎゅっと抱きしめて、家路を急いだ。
神社の森を出て、ほんの少し歩けば我が家や。
どこまでも長い築地塀が、今日はとことん嫌になる。塀のどっかに穴でも開いとったら、そこから絲さんを家の中に入れてやれるのに。
築地塀の脇に、今が盛りと赤紫の躑躅が咲いている。蜜をたたえた甘い香りの花は、絲さんも好きやろうに。
ぐったりとして、躑躅を見ることもあらへん。
しばらく進むと、瓦葺きのでかい門が見えてきた。門の柱には『三條組』と墨で書かれた、組の看板が掲げられている。
「お帰りなさいませ。頭」
すぐに門の脇に立っていた若い衆が、頭を深々と下げて門を開こうとした。
「いや、そのままでええ。潜戸を使うから気にするな」
不必要なほど門の扉には、人が出入りするための小さな潜戸がついている。そこを開けてもらい、絲さんを抱えた状態で中に入る。
俺の姿を見つけた組員が、慌てて駆け寄って並び、次々と頭を下げる。
うん、そういうのはいらへんからな。しかも俺の立場が組長っていうだけで、俺よりも年嵩の組員の方が多いくらいや。
生まれる家を選ばれへんのは、難儀なもんや。
しかも、わたしの匂いをかいでいるの。
もう、恥ずかしくてどうしようもなくて。なんとか逃げたかったのに。三條さんはわたしを地面に降ろすつもりは全くなさそうなの。
「や、やめてください」
「やめへん」
彼の硬い黒髪に手をさし入れて、なんとか引き剥がそうとしますが、無理でした。
「絲さんは俺の嫁になる人や。なんで離さなあかんのや」
「そんなの承諾していません」
「まだ幼い思て、遠野の爺さんが絲さんに教えてへんかったんやろ。せやったら、今ここで承諾したらええ」
わたしが三條さんの……極道の妻になるなんて。しかも三年も前から、それが決まっていたなんて。青天の霹靂です。
お爺さま、どうして何も教えてくれないままに亡くなってしまったの?
午後の太陽は、茂った葉に遮られて森の中はひんやりとしています。
さっき、草の上に手と膝をついたからでしょうか。それとも三條さんの鼻先や唇が、首筋に触れているからでしょうか。
わたしは寒さを感じたの。
「震えとうな。俺のことが怖いんか」
「……いいえ、多分、違います」
答える声は妙にか細くて。あ、これは熱が出るわとわたしは自覚したの。
何の自慢にもならないけれど。子どもの頃からよく寝込んでいたから、貧血と発熱の前兆はすぐに分かるんです。
「早く帰らないと。お願いです。降ろしてください」
「まだ、夕方にもなってへんで」
「違うの。具合が悪くなるから、それまでに家に帰らないと……」
言っている傍から、頭がぼうっとしてきました。でも、これなら微熱くらいで治まりそう。家まで歩いて帰ることもできそうです。
「具合が悪なるって……おい、絲さん。顔、赤いで」
「慣れてますから、大丈夫です」
「大丈夫なことあらへんやろ。体も熱いやんか」
不安そうにおろおろする三條さんの顔が、ぼんやりと朧になりました。
おかしいです。そんなに熱が上がるほどの兆ではなかったのに。
私の手から落ちた半巾が、ひらりと草の上に広がります。
レースで縁どられた白い布に、同色の糸でイニシャルを筆記体で刺繍したお気に入りの半巾。
拾わなくちゃと手を伸ばした時、目眩がして。そして視界が暗くなったの。
ラベンダーの香りが、だんだん薄らいでいきました。
◇◇◇
「絲さん? 絲さんっ!」
俺は腕の中でぐったりとした絲さんを、落とさんように抱えなおした。
彼女の手にも体にも力が入ってへん。とても軽い体だが、さっきよりも重みが増しとんのは、意識を失っとうせいやろ。
絲さんの家は、うちから歩いて十数分もあれば着く。
せやけど……俺は逡巡した。
こんな熱を出してしもた絲さんは、動かさん方がええんやないか? 俥を頼むにしても、揺れるやろ。揺れたら、絲さんがしんどいやろ。
そうでなくても、こないに青い顔をしてるのに。
「絲さん。あんたは嫌がるやろけど、我慢しぃや」
俺は熱くて細い体をぎゅっと抱きしめて、家路を急いだ。
神社の森を出て、ほんの少し歩けば我が家や。
どこまでも長い築地塀が、今日はとことん嫌になる。塀のどっかに穴でも開いとったら、そこから絲さんを家の中に入れてやれるのに。
築地塀の脇に、今が盛りと赤紫の躑躅が咲いている。蜜をたたえた甘い香りの花は、絲さんも好きやろうに。
ぐったりとして、躑躅を見ることもあらへん。
しばらく進むと、瓦葺きのでかい門が見えてきた。門の柱には『三條組』と墨で書かれた、組の看板が掲げられている。
「お帰りなさいませ。頭」
すぐに門の脇に立っていた若い衆が、頭を深々と下げて門を開こうとした。
「いや、そのままでええ。潜戸を使うから気にするな」
不必要なほど門の扉には、人が出入りするための小さな潜戸がついている。そこを開けてもらい、絲さんを抱えた状態で中に入る。
俺の姿を見つけた組員が、慌てて駆け寄って並び、次々と頭を下げる。
うん、そういうのはいらへんからな。しかも俺の立場が組長っていうだけで、俺よりも年嵩の組員の方が多いくらいや。
生まれる家を選ばれへんのは、難儀なもんや。
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