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一章
1、鬼の森で【1】
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――あの森には鬼がおるんや。せやから森に入るんやったら、覚悟するんやで。鬼に魅入られてしまうからな。
江戸時代の生まれだった祖父は、わたしによく話していました。
そう、わたしが人攫いに誘拐されてから。特に頻繁に。
「絲さん。ごきげんよう、また明日ね」
「ごきげんよう」
わたしはこの春、ステラマリス女學院の高等部に進学しました。
モダンな洋館の講堂と、木造の校舎に御御堂。そして今が盛りとばかりに咲き誇る、お庭の薔薇と聖母マリア様を象徴する百合の花。
明治になって十数年後に、女性宣教師二人が開校したステラマリス女學院が、わたしの学び舎です。
人攫いのことなんて、もう忘れましょう。だって三年も前のことなんだもの。
「今日もいい天気。そうだわ、寄り道しちゃおうかしら」
慈愛の笑みを浮かべるシスターに会釈をして、わたしは着物の袖と袴の裾を春風に翻しながら、校門を出ます。
初等部から通っている女學院だけれど。もう高等部のお姉さんですものね、二本の三つ編みもほどいて、髪を下ろそうかしら。
流行りの庇髪も、華やかで憧れるわ。
慶応の頃に開港してから、外国との貿易が盛んになったこの街。港からは春風に乗って船の汽笛が聞こえてくるの。
遠くに海を眺めつつ、女學院から坂を下ります。
一人で家への道を歩いていると、緑濃いにおいがして、山鳩の軽快な鳴き声が聞こえてきました。
神社の奥に、鬱蒼とした森があります。
ここがお爺さまが仰っていた鬼の森。
「お爺さまったら不思議ね。鬼よりも人攫いの方が恐ろしいのに」
それにわたしにとっては、鬼は悪とは思えないの。
鳥居で一礼して、神社の境内の石畳を歩き、拝殿を過ぎてさらに奥へと向かいます。
湿った土のにおいと、苔の埃くさいにおい。虫の鳴き声や鳥のさえずりが聞こえる森は、想像以上に賑やかでした。
歩くとすぐに息が切れるわたしは、平たい岩に腰を下ろしました。足元には白いたんぽぽの花、もう綿毛になっているのもあるわ。
風呂敷包みから『少女の友』の雑誌を取りだし、表紙をめくります。夢二先生の口絵が美しくて。柳腰で愁いを帯びた眼差しの女性の真似をして、少しばかり瞼を閉じてみたの。
「あんた。ここで何をしとんのや」
突然背後から声を掛けられて、わたしは跳び上がらんばかりに驚きました。
ええ、おさげが左右に跳ねるほどです。
見れば、わたしが座っている平たい岩の前に、青丹色の着流し姿の男性が立っていました。年の頃は……大人の年齢はよく分からないですけど、三十歳くらいかしら。
少し灼けた肌に、短めの黒髪。物静かそうなのに、目つきが怖く感じました。
「何をしている。俺に会いに来たんか」
「ち、違うの。少し休んでいただけなんです」
「ほぉ?」
その男性は、わたしを冷ややかな瞳で見下ろしてきます。今は晩春なのに、まるで霜をまとったかのような雰囲気です。
男前というか、整った顔立ちなので、余計に冷たく感じます。
困りました。初対面の人に会いに来るはずもないのに。どうしてそんな妙なことを仰るのでしょう。
「帰らへんのやったら好都合。ずっとここにおったら、ええ」
「それは……さすがに無理です」
「なぜ? 俺との約束を果たしにきたんとちゃうんか」
約束? 覚えがありません。
そんなわたしに焦れたのでしょうか。青丹色の着流しと羽織を身に着けたその人は、わたしの顔を覗きこんできました。
頬に傷痕があって、しかも身長が高いから屈みこんでいるせいで、わたしの体ごと周囲は影になってしまいました。
まるで闇に閉ざされてしまったかのように。
「自分、絲さんやんなぁ」
「は、はい」
「俺のこと覚えてへんのか? 三條蒼一郎。名前くらい知っとうやろ」
わたしは、覗きこんでくる三條さんを両手で押しのけようとしました。
でも、生地を通しても分かる、その厚い胸板に力で適うはずがありません。
「まさか、俺の嫁になるっていう約束を破るつもりとちゃうやろな」
江戸時代の生まれだった祖父は、わたしによく話していました。
そう、わたしが人攫いに誘拐されてから。特に頻繁に。
「絲さん。ごきげんよう、また明日ね」
「ごきげんよう」
わたしはこの春、ステラマリス女學院の高等部に進学しました。
モダンな洋館の講堂と、木造の校舎に御御堂。そして今が盛りとばかりに咲き誇る、お庭の薔薇と聖母マリア様を象徴する百合の花。
明治になって十数年後に、女性宣教師二人が開校したステラマリス女學院が、わたしの学び舎です。
人攫いのことなんて、もう忘れましょう。だって三年も前のことなんだもの。
「今日もいい天気。そうだわ、寄り道しちゃおうかしら」
慈愛の笑みを浮かべるシスターに会釈をして、わたしは着物の袖と袴の裾を春風に翻しながら、校門を出ます。
初等部から通っている女學院だけれど。もう高等部のお姉さんですものね、二本の三つ編みもほどいて、髪を下ろそうかしら。
流行りの庇髪も、華やかで憧れるわ。
慶応の頃に開港してから、外国との貿易が盛んになったこの街。港からは春風に乗って船の汽笛が聞こえてくるの。
遠くに海を眺めつつ、女學院から坂を下ります。
一人で家への道を歩いていると、緑濃いにおいがして、山鳩の軽快な鳴き声が聞こえてきました。
神社の奥に、鬱蒼とした森があります。
ここがお爺さまが仰っていた鬼の森。
「お爺さまったら不思議ね。鬼よりも人攫いの方が恐ろしいのに」
それにわたしにとっては、鬼は悪とは思えないの。
鳥居で一礼して、神社の境内の石畳を歩き、拝殿を過ぎてさらに奥へと向かいます。
湿った土のにおいと、苔の埃くさいにおい。虫の鳴き声や鳥のさえずりが聞こえる森は、想像以上に賑やかでした。
歩くとすぐに息が切れるわたしは、平たい岩に腰を下ろしました。足元には白いたんぽぽの花、もう綿毛になっているのもあるわ。
風呂敷包みから『少女の友』の雑誌を取りだし、表紙をめくります。夢二先生の口絵が美しくて。柳腰で愁いを帯びた眼差しの女性の真似をして、少しばかり瞼を閉じてみたの。
「あんた。ここで何をしとんのや」
突然背後から声を掛けられて、わたしは跳び上がらんばかりに驚きました。
ええ、おさげが左右に跳ねるほどです。
見れば、わたしが座っている平たい岩の前に、青丹色の着流し姿の男性が立っていました。年の頃は……大人の年齢はよく分からないですけど、三十歳くらいかしら。
少し灼けた肌に、短めの黒髪。物静かそうなのに、目つきが怖く感じました。
「何をしている。俺に会いに来たんか」
「ち、違うの。少し休んでいただけなんです」
「ほぉ?」
その男性は、わたしを冷ややかな瞳で見下ろしてきます。今は晩春なのに、まるで霜をまとったかのような雰囲気です。
男前というか、整った顔立ちなので、余計に冷たく感じます。
困りました。初対面の人に会いに来るはずもないのに。どうしてそんな妙なことを仰るのでしょう。
「帰らへんのやったら好都合。ずっとここにおったら、ええ」
「それは……さすがに無理です」
「なぜ? 俺との約束を果たしにきたんとちゃうんか」
約束? 覚えがありません。
そんなわたしに焦れたのでしょうか。青丹色の着流しと羽織を身に着けたその人は、わたしの顔を覗きこんできました。
頬に傷痕があって、しかも身長が高いから屈みこんでいるせいで、わたしの体ごと周囲は影になってしまいました。
まるで闇に閉ざされてしまったかのように。
「自分、絲さんやんなぁ」
「は、はい」
「俺のこと覚えてへんのか? 三條蒼一郎。名前くらい知っとうやろ」
わたしは、覗きこんでくる三條さんを両手で押しのけようとしました。
でも、生地を通しても分かる、その厚い胸板に力で適うはずがありません。
「まさか、俺の嫁になるっていう約束を破るつもりとちゃうやろな」
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