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序章
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「ああ、これはうまく仕込めば、極上の宝石になる。愛玩動物なのに、誰もが憧れるほどに高貴で清い。お前は、そんな雌犬になるのだよ」
まだ数えで十三歳だったわたしを攫った男は、杖の先で、わたしの手の甲を押さえつけたの。
遠野絲。ステラマリス女學院中等部の一年生。今朝も当たり前に海風の吹く坂道を登って登校し、疲れてしまったから途中の教会の石段で休憩していただけなのに。
どうして今、わたしは襦袢姿で床に転がされているの? しかも革の首輪を嵌められ、そこからは鎖がのびて、わたしの動きを制限しています。
「御維新も遠くなった昨今、巷では洋犬を飼うのが流行っている。だが、趣味人は他人と同じ洋犬では飽き足らんようだ。きっとそなたは高く売れるだろう」
杖が、鎖を持ち上げました。じゃらりという音と共に、わたしの体が嫌でも立ち上がってしまいます。
「ほぅら、躾は大事だからな。まずは『お手』からだ」
「わたしは犬じゃありません」
「おやおや、犬は主人に反抗などせぬもの。今は私を仮の主人と思いなさい」
「いやですっ!」
声を震わせながらも叫ぶと、突然頬に鋭い痛みを覚えました。杖で叩かれたと気づいたのは、わたしの体が冷たい床に倒れた後でした。
叩かれた場所は熱を持ち、頬ばかりでなく頭まで痛くなってきます。
「さぁ。『お手』だ。右手を出しなさい」
男の手が、わたしの眼前に差し出されます。そのてのひらに、わたしの手を載せろということなのでしょう。
そんな真似は出来っこありません。
だって女學院のシスター達には、常々「あなた方一人一人が、女學院の顔なのです。マリア様に恥じぬように振る舞いなさい」と教えられているんですもの。
「犬の真似事なんて、できません」
「生意気な。躾として、さらに打ちたいところだが、そんなことをして商品価値が下がっても困る。お前が言うことを聞くまで、餌はなしだ」
男は、その言葉通りにわたしに水以外、何も与えませんでした。しかも犬は手を使わないと言って、器から直接水を飲むように命じます。
決してそんな惨めな真似はするものですか、と思ったのですが。喉はからからに渇いていきます。器に入れられた水が、まるで甘露のように思えて。
でも、左右の手は使えないように縛られているんです。
ああ、ほんの少しでも水が欲しい。舌を出して水を舐めようとして、はっとしました。水面に映っていたのは、紛れもなくわたしの顔だったから。
だめ。こんなの人間じゃないわ。誰かに見られても、聖母マリア様に見られても、恥ずかしくて死んでしまいそう。
喉の渇きくらい、我慢できるわ。
どれくらい耐えていたでしょう。わたしは意識が朦朧として、叩かれたのとは別の頭痛、それに吐き気まで覚えました。
男は相変わらず「強情を張らずに、早く飲みなさい」と命じますが。わたしは木の床に転がされたまま、力なく首を振ります。その度に鎖が、小さな音を立てました。
焦れた男は器に、パンや果物を入れて持ってきました。無論、わたしはすべてを拒否しました。
箸の持ち方も、礼儀作法も、ナイフとフォークを使うテーブルマナーも幼い頃から学んできたのに。どうして犬のように、じかに器から食べ散らかすことができましょう。
「遠野絲。ここにおるんやろ!」
どれくらいの時が経ったのでしょう。わたしの名を呼ぶ声が響き渡りました。扉を蹴破って、見ず知らずの男の人が飛び込んできます。
わたしが横たわっているせいなのか、とてつもなく大きな人に見えました。でも、怖くはなかったの。たとえ扉が吹っ飛んでも、肩をはだけたその人の背に、黒い鬼が彫られていても。
だって、その人は右手に刀を持っていたんですもの。
お爺さまが、剣の鍛錬で使うような鍔のない、長脇差と同じ物。ああ、この人はお爺さまに頼まれて、助けに来てくれたんだわ。
その安心感と苦しさに、わたしは意識を失いました。
「絲さん!」と呼ぶ声を、遠くに聞きながら。
まだ数えで十三歳だったわたしを攫った男は、杖の先で、わたしの手の甲を押さえつけたの。
遠野絲。ステラマリス女學院中等部の一年生。今朝も当たり前に海風の吹く坂道を登って登校し、疲れてしまったから途中の教会の石段で休憩していただけなのに。
どうして今、わたしは襦袢姿で床に転がされているの? しかも革の首輪を嵌められ、そこからは鎖がのびて、わたしの動きを制限しています。
「御維新も遠くなった昨今、巷では洋犬を飼うのが流行っている。だが、趣味人は他人と同じ洋犬では飽き足らんようだ。きっとそなたは高く売れるだろう」
杖が、鎖を持ち上げました。じゃらりという音と共に、わたしの体が嫌でも立ち上がってしまいます。
「ほぅら、躾は大事だからな。まずは『お手』からだ」
「わたしは犬じゃありません」
「おやおや、犬は主人に反抗などせぬもの。今は私を仮の主人と思いなさい」
「いやですっ!」
声を震わせながらも叫ぶと、突然頬に鋭い痛みを覚えました。杖で叩かれたと気づいたのは、わたしの体が冷たい床に倒れた後でした。
叩かれた場所は熱を持ち、頬ばかりでなく頭まで痛くなってきます。
「さぁ。『お手』だ。右手を出しなさい」
男の手が、わたしの眼前に差し出されます。そのてのひらに、わたしの手を載せろということなのでしょう。
そんな真似は出来っこありません。
だって女學院のシスター達には、常々「あなた方一人一人が、女學院の顔なのです。マリア様に恥じぬように振る舞いなさい」と教えられているんですもの。
「犬の真似事なんて、できません」
「生意気な。躾として、さらに打ちたいところだが、そんなことをして商品価値が下がっても困る。お前が言うことを聞くまで、餌はなしだ」
男は、その言葉通りにわたしに水以外、何も与えませんでした。しかも犬は手を使わないと言って、器から直接水を飲むように命じます。
決してそんな惨めな真似はするものですか、と思ったのですが。喉はからからに渇いていきます。器に入れられた水が、まるで甘露のように思えて。
でも、左右の手は使えないように縛られているんです。
ああ、ほんの少しでも水が欲しい。舌を出して水を舐めようとして、はっとしました。水面に映っていたのは、紛れもなくわたしの顔だったから。
だめ。こんなの人間じゃないわ。誰かに見られても、聖母マリア様に見られても、恥ずかしくて死んでしまいそう。
喉の渇きくらい、我慢できるわ。
どれくらい耐えていたでしょう。わたしは意識が朦朧として、叩かれたのとは別の頭痛、それに吐き気まで覚えました。
男は相変わらず「強情を張らずに、早く飲みなさい」と命じますが。わたしは木の床に転がされたまま、力なく首を振ります。その度に鎖が、小さな音を立てました。
焦れた男は器に、パンや果物を入れて持ってきました。無論、わたしはすべてを拒否しました。
箸の持ち方も、礼儀作法も、ナイフとフォークを使うテーブルマナーも幼い頃から学んできたのに。どうして犬のように、じかに器から食べ散らかすことができましょう。
「遠野絲。ここにおるんやろ!」
どれくらいの時が経ったのでしょう。わたしの名を呼ぶ声が響き渡りました。扉を蹴破って、見ず知らずの男の人が飛び込んできます。
わたしが横たわっているせいなのか、とてつもなく大きな人に見えました。でも、怖くはなかったの。たとえ扉が吹っ飛んでも、肩をはだけたその人の背に、黒い鬼が彫られていても。
だって、その人は右手に刀を持っていたんですもの。
お爺さまが、剣の鍛錬で使うような鍔のない、長脇差と同じ物。ああ、この人はお爺さまに頼まれて、助けに来てくれたんだわ。
その安心感と苦しさに、わたしは意識を失いました。
「絲さん!」と呼ぶ声を、遠くに聞きながら。
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