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第二部七章

酒宴と酌

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 それから数日後――。

 甲斐へ戻る信繁と昌幸らに対する送別の宴が催された。

「おやおや、これはイカン! 盃が空になっておりますぞ、典厩殿!」

 すっかり出来上がった真田幸綱が、赤ら顔で信繁に絡んできた。

「さあさあ、この真田弾正めがお注ぎいたしますゆえ、盃をお出し下され!」
「あ、いや……」

 酒臭い息を吐きながら、手に持った片口を傾けようとする幸綱に少し辟易しながら、信繁は苦笑を浮かべて首を横に振る。

「先ほどから皆に大分飲まされて、もう腹一杯だ。だからもう……」
「なんと! 甲斐武田の副将殿ともあろう御方が、なんと気弱な!」

 信繁の固辞を聞くや大袈裟な嘆きの声を上げた幸綱は、ニヤリと不良わるい笑みを浮かべ、言葉を継いだ。

「酒は、腹一杯になってからが本番ですぞ」
「いや、しかし……」
「大丈夫大丈夫! 酔いが回れば、じきに胃の腑の具合など気にならなくなりますわい。じゃから、気にせずもう一献!」
「ええいっ! やめなされ、この酔っ払いッ!」

 無茶苦茶な理屈を垂れながら、困り顔の信繁の盃に無理矢理酒を注ごうとする幸綱の事を、昌幸が羽交い絞めにして止める。

「ええい、何をするんじゃ源五郎! せっかくのワシと典厩殿との親交を邪魔をするでない!」
「何をするんだはこちらの科白セリフだ! というか、酒の無理強いは“親交”とは言わぬわ!」

 羽交い絞めにされたままジタバタと暴れる父親の事を、昌幸は呆れ混じりに怒鳴りつけた。
 と、

「あ……いや、構わぬ、昌幸」

 そう言いながら、信繁は膳の上に置いていた盃を手に取る。

「せっかくの弾正の気遣いだ。ここは受けねばならぬだろう」
「さすが天下の副将殿! どこぞの糞生意気な子狸とは違って話が分かりますな!」

 信繁の言葉を聞いた幸綱が、嬉々としながら昌幸の腕を振りほどき、向けられた盃に片口の注ぎ口を当てた。

「あ……そのくらいで……」

 土器の盃に白濁した酒が半分ほど注がれたところで、信繁は慌てて制止するが、幸綱は「まあまあ」と取り合わず、盃の縁から零れるか零れないかくらいまでなみなみと酒を注がれてしまう。

「ささ! どうぞご遠慮なく! ググーっといきなされ!」
「お主な……」

 まるで悪戯を仕掛けた悪童のような満面の笑みを浮かべている幸綱の事を恨めしげに睨みながら、信繁は盃の酒を一気に呷った。

「おお! さすが我が武田家の大黒柱たる典厩殿! お見事な飲みっぷり! ささ、もう一献!」
「お、おい! 待て、弾正っ! 今飲み干したばかりだというのに……」

 信繁は、飲み干した盃にすかさず次を注ごうとする幸綱に慌てて叫ぶが、幸綱は取り合わず「まあまあ」と言いながら、片口の注ぎ口を傾けようとする。
 ――その時、

「いい加減になされよ、親父殿!」

 昌幸が、憤怒の表情を浮かべて父親の手を押さえた。

「ええい、邪魔するな源五郎! この親不孝者め!」
「さすがに悪酔いが過ぎますぞ! 典厩様もお困りになられております!」

 不機嫌そうに怒鳴る父を、毅然と諫める昌幸。
 その言葉に、口をへの字に曲げて不満を露わにした幸綱だったが、

「……ならば!」

 と短く叫ぶや、持っていた片口を昌幸に突きつけた。

「典厩殿の代わりに、お前がワシの酌を受けよ!」
「はぁ? な、なんでそうなるのですかっ?」
「お前は、典厩殿を一番近くで支える軍師なのであろう? ならば、自分の身を挺してでも主の苦難を救わんかいっ!」
「いや、結局自分で自分の所業を『苦難』だと自覚してんじゃないか……」

 開き直りに近い父の発言に呆れ声を上げた昌幸だったが、「だが……」と続けると、自分の膳から盃を手に取り、幸綱に向けて突きつけた。

「確かに拙者は典厩様の一番の側近! その挑発、乗って進ぜる!」
「おお、よう言うた源五郎!」

 昌幸の言葉にニカッと笑った幸綱は、彼の差し出した盃に、片口の中に残っていた酒を全て注ぎ込む。

「その意気や良し! さあ、存分に男を見せいッ!」
「……っ!」

 思っていた以上に酒を注がれて絶句する昌幸だったが、すぐに腹を括って、盃を迎えるように顔を近付けると一気に傾けた。

「……ぷ、はぁ~……」

 そのまま一息に盃を干した昌幸だったが、その顔はみるみる真っ赤に染まり、一気に眠気が襲いかかったのか、目を激しく瞬かせる。
 一方の幸綱は、上機嫌で手を叩いた。

「おお、我が愚息ながらなかなかの飲みっぷり!」
「な……なんの……これしきの酒……造作も御座らぬ……」

 荒い息を吐きながら、父の賛辞に答える昌幸。……だが、その口ぶりは、早くも怪しい。
 それを見た幸綱は、意地の悪い笑みを浮かべると、下座に控える小者たちに向け、空になった片口を指し示した。

「おおい! 酒が切れた! 早よ替えを持って来い! 酒が足らぬと、武藤喜兵衛殿が申しておられるぞ!」
「い……いや……さ、さすがにこれ以上は……」

 慌てて呂律も回らぬ口で制止の声を上げる昌幸だったが、幸綱は聞こえぬフリをして小者に対して手招きしている。
 さすがに見かねた信繁が、幸綱を窘めようとするが、

「一徳斎殿、実のご子息とはいえ、そのくらいにしておやりなされ」

 彼が声をかける前に、馬場信春が割って入ってきた。

「ば、馬場様……」

 颯爽と現れた信春に、まるで救いの神が現れたかのような目を向ける昌幸。
 そんな彼の真っ赤に染まった顔をチラリと見た信春は、その髭面をいたずらっぽく綻ばせて言葉を継ぐ。

「源五郎は、まだ二十歳にも満たぬ若造。味も飲み方も満足に知らぬ奴に何杯も無駄に飲ませては、せっかくの旨い酒が勿体のう御座るぞ」
「ふむ……確かにそうかもしれませぬのう」

 信春の言葉に、幸綱は納得顔で頷き、

「……」

 昌幸は、助け舟とも追撃ともつかない信春の言葉に、複雑な顔で眉根を寄せた。
 そんな彼の渋面を横目で見ながらニヤリと笑った信春は、

「――という事で」

 と言いながら、今度は信繁の方に顔を向け、おもむろに手に提げていた片口を彼の方へ差し出した。

「ここはひとつ、酒の味が分かる典厩様に、是非とも拙者の酌を受けて頂きたく……」
「……やれやれ。結局儂に回ってくるのだな……」

 満面の笑みを浮かべながらの信春の言葉に苦笑いを浮かべながら、信繁は自分の盃を取るのだった……。
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