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第二部五章 応酬

挟撃と偽旗

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 「動け、動け!」

 激しく降りしきる雨の音に負けじと、武藤喜兵衛昌幸が声を張り上げた。

「常に動き回り、決して一所に留まるな! 首を掻く時間も惜しいゆえ、屠った敵も切り捨てで構わぬ! とにかく、出来るだけ激しく活発に動き回り、我が隊を大軍に見せるのだ!」

 そう叫んだ昌幸は、兜の目庇を上げ、真っ黒な雲で覆い尽くされた空に目を遣る。――頭上の雲は未だ分厚く垂れこめているが、西の空を見ると僅かに明るくなっていた。

(この分では、あと四半刻 (約三十分)も経たずに雨勢は衰えるな……)

 残された時間を推し測りながら、彼は再び地上へ目を戻し、雨霞の向こうで薄っすらと見える敵の後備に向けて、雄叫びを上げながら徒歩で攻めかかっていく自隊の兵たちの背中を見る。

(何とか、雨の勢いが衰えぬうちに、総大将の安藤守就が撤退を決断するように仕向けねば……)

 ともすれば焦りを生じかける心を抑えて平静を保ちながら、昌幸は傍らに立つ百姓姿の男に言った。

「――佐助。川衆どもに、もっと盛大に鬨の声を上げるよう言ってくれ。斎藤方が、百万の敵兵に回り込まれたと錯覚するほどに大きく、とな」
「分かった」

 佐助は、昌幸が伝えた命に小さく頷き、すぐさま踵を返しかけるが、昌幸に「ああ、それと……」と呼び止められ、訝しげな顔をしながら振り返る。

「……なんだ?」
「あの偽旗の数も、もう少し増やしたい」

 昌幸はそう言って、後方に林立する無数の旗印を指さした。――だが、彼が言った通り、そのほとんどは彼らの旗印ではなく、竿や船の櫂に白紙やボロ布を括りつけてそれらしく見せかけただけの偽物の旗である。

「何でも構わぬから、遠目で旗印に見えるものを可能な限り掲げるように言ってくれ。風に靡きそうなら、あれ以上に簡素なもので構わん。むしろでも帆布でも……それこそ褌でもな」
「筵や帆布はともかく……さすがに、褌は形でバレるのではないか?」
「この豪雨だ。雨で霞んで、遠目からでは吹流しに見えるだろうさ」

 呆れ顔を浮かべる佐助に、昌幸は涼しい顔で答えた。
 そして、やにわに表情を引き締めて佐助を急かす。

「……と、冗談を言っている暇は無い。早く行け、佐助。雨が止んで、我らが僅か三百に満たぬ兵数だと敵に見破られたら、あっという間に殲滅させられるぞ。一刹那でも早く敵の総大将に撤退を決断させる事こそが、此度の謀の肝だ」
おれを呼び止めたのも、下らぬ冗談を言ったのもお前だろうが……」

 思わずムッと眉を顰めた佐助だったが、すぐに気を取り直すと、今聞いた昌幸の命令を、自分たちに協力してくれている兼山湊の川衆たちに伝える為、足早に去っていく。
 たちまち雨霞に紛れた佐助の背中を見送った昌幸は、再び前を見据えた。
 ――雨煙の向こうから、激しく争う喚声と剣戟が激しく打ち合わされる金属音が聴こえてくる。
 その音に耳を欹てながら、昌幸は小さく頷いた。

「……もう少し雨勢が弱かったら危ういところだったが、天運は我らの方にあるという事か」




 行軍や合戦において、天候の変化が与える影響は少なくない。
 その為、戦に帯同する軍師には、空や雲、時には生き物の習性や行動などから天候を読み取る能力が求められるのだ。
 ――かつて、武田軍の軍師として、当主の信玄から全幅の信頼を得ていた山本勘助晴幸もそうだった。
 十年ほど前、信玄の奥近習として躑躅ヶ崎館へ出仕していた昌幸は、主君の命に従い、彼から戦に関する様々な知識と技術――いわゆる“軍配術”を教わっていた。
 “軍配術”には、築城や兵法のみならず、観天望気 (現在で言う天気予報)の術も含まれている。

 前日の夜――観天望気の術に基づいて空の雲の流れを見て、翌日の昼前に激しい豪雨が一帯に降る事を知った昌幸は、急ぎ策を講じて信繁に献じ、彼の赦しを得るや、兼山湊の船主たち宛の密書を持たせた乱破を兼山湊に戻った佐助の元へ放った。
 乱破に持たせた密書の中身は、翌日の戦への協力を乞うもので、その見返りとして、首尾よく武田家が兼山一帯を支配した際に、向こう五年間の関銭徴収を免除する旨や、湊の振興の為に多額の金子供与を行う旨などといった破格の条件が記されていた。
 兼山湊の宿で乱破から密書を受け取った佐助は、その足で船主座へ赴き、集まった船主や河川商たちにその内容を伝えた。
 実は――佐助が前々より秘かに湊に潜入していた佐助が、船主や商人たちを味方に取り込むべく接触しており、兼山湊の実権を握る商人や船主たちの大半は、既に武田側へと靡いていた。
 今回昌幸が佐助に届けさせた密書は予定外のものだったものの、武田側が提示した新たな見返りも申し分ない内容だった事もあって、首尾よく商人や船主たちからの協力の確約を得る事が出来たのである。

 そして、合戦当日――。
 昌幸は、雨が降り始める直前に、自身の兵である二百を引き連れ、秘かに本陣を離れた。
 戦場の西の崖を伝い降りた昌幸と彼の手勢二百は、崖下に流れる木曽川で待ち受けていた兼山湊の船主が用意した川舟に分乗し、川を下る。
 おりしも降り出した激しい雨の音で、舟の腹が上げる水音が紛れ、崖上で戦う斎藤軍にも気付かれずに通り過ぎた武藤勢は、兼山湊の船着場から陸に上がると、隊列を整えた。
 そして、首尾よく斎藤軍の後備の更に後ろへと回り込んだ武藤勢は、商人や船主が集めた川衆たちに急拵えの偽旗を掲げさせ、思い思いの喊声を上げさせると同時に、一気に攻めかかる。

 ――以上が、昌幸が立てた策の全容だった。



「さて……と」

 と、改めて気を引き締めるように声を上げた昌幸は、雨霞の向こうに薄っすらと浮かぶ敵陣に向けて目を眇める。

「敵にはそろそろ、挟撃される不利を悟って退却に移ってもらいたい頃合いだが……」

 ここまで組み上げた策には自信があるし、それを後押しするかのように、空の雲も予測通りに動いていて、敵に策のからくりを看破された様子も無い。
 よほどの猪大将か阿呆でもない限り、これ以上粘って踏み止まろうとは考えず、速やかに退却に移って徒な戦力の消耗を避けようとするだろう。
 拍子抜けするほどに、全てが順調に運んでいる。
 ――と、

「それにしても――」

 昌幸は、ふと訝しげな表情を浮かべた。

「この敵の動き……予想以上に鈍い。――どうやら、先ほど佐助が齎した報せの通りのようだな……」

 そう呟いた昌幸は、少し物足りないといった様子で首を傾げる。

「もしも、かの男が安藤守就の傍らに控えているのなら、ここまですんなりと事が進む事は無かっただろうな……」

 安堵と拍子抜けが入り混じった感情を抱えながら、昌幸はその男の名を口にした。

「やはり、ここには居らぬのか……竹中半兵衛」
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