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第二部三章 始末

人質と同道

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 「龍姫を……躑躅ヶ崎館まで……ですか?」

 信繁の言葉を聞いた勝頼は、ハッとした表情を浮かべる。
 そんな甥の顔を見つめながら、信繁は「うむ」と頷いた。

「此度の件もあって……苗木遠山家より、人質を取る事になった。そこで白羽の矢が立ったのが、遠山勘太郎の一人娘である龍姫だ。姫を躑躅ヶ崎館まで送り届ける役目を、お主に任せようと思ってな」
「で、ですが……!」

 勝頼は、静かな声で話す信繁を真っ直ぐに見つめながら、青ざめた顔で声を上ずらせる。

「そ、その御役目は、別に私でなくとも務まりましょう。……そうだ」

 そこで彼は、名案を思い付いたというように、その端正な顔を輝かせた。

「私ではなく、私の付家老である小原丹後守に任せては如何でしょうか? あの者でしたら、必ずや無事に龍姫を躑躅ヶ崎館に送り届け――」
「四郎」

 信繁は、勝頼をやんわりと制する。
 そして、軽く首を左右に振りながら、諭すような口調で言った。

「儂は、他ならぬお主が、役目を果たすのに最適な者だと思うておる。ここは素直に請けてくれぬか?」
「な……何故に御座いますかっ?」

 勝頼は、信繁の言葉に反発しつつ、当惑の表情を浮かべる。

「何故、私が龍姫を送り届けるに最適だとお考えなのですか、典厩様は……?」
「それは……」

 信繁は、勝頼の問いに一瞬言葉を区切ってから、静かな声で答えた。

「――諏訪御前様の子であるお主なら、龍姫が抱いておるであろう心細い気持ちを汲んでやる事が出来る――そう思うたからだ」
「……っ!」

 勝頼は、信繁の言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたように大きく目を見開く。
 ――信繁が口にした“諏訪御前様”とは、勝頼の生母である諏訪御寮人の事である。
 彼女は、諏訪大祝家の当主・諏訪頼重の娘であり、天文十一年 (西暦1542年)に頼重が武田家によって切腹させられた数年後に、武田家当主・晴信に見初められて側室となり、天文十五年 (西暦1546年)に勝頼を生むのだが……その生い立ちが彼女の心身を病んだのか、弘治元年 (西暦1555年)に死去した。
 実は、諏訪御寮人は、頼重の切腹から晴信の側室になるまでの数年間を躑躅ヶ崎館の中で過ごしている。――諏訪家遺臣たちに対する実質的な人質として。
 そんな彼女の事を一番間近で見ながら育ってきた勝頼ならば、これから武田家の人質となる龍の気持ちを誰よりも慮る事が出来る事だろう――そう信繁は考えたのだ。

「……」

 信繁の言葉を聞いて、勝頼は少しの間考え込んでいたが、

「……相分かりました」

 最後には右手を床に付けて、深々と頭を下げた。

「この諏訪四郎勝頼、謹んで典厩様の御命に従います」
「おお、請けてくれるか」

 頭を垂れた勝頼に、信繁は安堵の息を吐く。
 そんな彼に、頭を上げた勝頼が小さく頷いた。

「……はい。西美濃の戦場いくさばに赴く事が出来ぬのは未練ですが、龍姫が心安く甲斐へ向かわれるよう気遣う事も、戦と同じくらいに肝要な事だと心得ました」

 そう言うと、勝頼はそっと右手を自分の胸に置き、しみじみとした声で言葉を継ぐ。

「……それは、確かに私が果たすべき役目でしょう」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「これで一安心ですな」

 勝頼が大広間から辞去した後、ほうと息を吐いた信繁にそう声をかけたのは、武藤昌幸だった。

「……そうだな」

 信繁は、昌幸の言葉に軽く頷く。
 そんな彼の前に膝立ちでにじり寄り、酒を注いだ盃を差し出しながら、昌幸は言った。

「正直……もっと説得に難渋するかと思いましたが、存外にあっさりと引き下がられましたな、四郎様は」
「うむ……」

 一気に酒を飲み干して喉の渇きを癒した信繁は、空になった盃に目を落としながら、ぽつりと呟く。

「四郎は、心根が優しい男だからな。龍姫の為と言えば折れるだろうと踏んでおった」
「成程……」
「……正直、四郎の良心を小狡く利用するようで、あまり気が乗らなかったが……。そうでも言わねば、とても甲斐へ戻る事を承知しそうになかったからな……」

 そう零した信繁は、昌幸が酒を注いだ盃を呷った。
 ――と、
 信繁が干した盃に酒を注ごうと徳利を手にした昌幸が、含み笑いを浮かべる。

「……それだけで御座いますか?」
「ん……?」

 昌幸の問いかけに、信繁は片眉を上げて首を傾げてみせた。

「“それだけか?”……とは、どういう意味だ?」
「いえ……」

 訊き返した信繁の顔を見ながら、昌幸はしたり顔で答える。

「拙者は、てっきり……典厩様は龍姫を、今度は“”として四郎様とめあわせようとお考えなのかと思うておりましたが……」
「……あくまで、儂だけが勝手に拵えた思惑だ。――今の時点ではな」

 昌幸の答えを聞いた信繁も、苦笑を浮かべた。

「結局、武田家の統領たる兄上……御屋形様に『善し』と首を縦に振って頂かねば、それで終わってしまう話だ」
「――拙者は、なかなかの妙案だと思いまするが」

 信繁の言葉に、昌幸はニコリと微笑む。

「東濃は、西進を目指す我ら武田家にとって重要な土地に御座います。その東濃の中でも要となる地を治める遠山家との縁を深める事は、欠かすべからざる事。――四郎様と龍姫との婚姻は、その手立てとしてうってつけかと」

 そこまで言った昌幸は、信繁の盃に酒を注いだ徳利を傍らに置くと、「それに――」と言葉を継いだ。

「併呑した地方の有力者と婚姻を結んで親族衆とするのは、何も今回が初めての事では御座いませぬしな」

 昌幸が言及したのは、信濃国の木曾谷を治める有力氏族・木曾氏の事である。
 弘治元年 (西暦1555年)、武田晴信は帰順した木曾氏に対し、自身の三女・真里姫を木曾家嫡男・義昌に嫁がせ、親族衆とした。
 他家領と隣接した地方の有力氏族を親族衆として取り込む事は、厚遇する事で再度の離反を防ぎ、他家の侵攻を阻む強固な防波堤としての役割を担わせる為に必要な事だった。
 昌幸は、それを美濃遠山氏に対しても行うべきだ――と、信繁が考えていると看破したのである。

「恐らく、御屋形様も同じようにお考えになるかと思います。典厩様のお考えに、やとは言いますまい」

 そう言うと、昌幸は口元を綻ばせた。

「その前段階として、龍姫を四郎様と同道させ、予め“顔合わせ”させて差し上げようという典厩様の御配慮――拙者は感服仕り申しましたぞ」
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