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第二部二章 駆引
大義と名分
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「……斯様な深更にお呼び立ていたしまして、申し訳ございません」
と、本丸御殿の自室に入って来た人物に向けて、上座に腰を下ろした琴が鷹揚に声をかけた。
「――もうお休みでしたか、叔母上?」
「……」
胴丸を纏ったまま、まるで罪人のように体を荒縄で縛られたつやは、苗木兵によって無理やり板敷の床へ座らされる。
その後ろに、同じように縄を打たれた彼女の侍女が座らされ、兵に頭を押さえつけられて平伏させられた。
つやは、背後を振り返り、険しい顔をして控える具足姿の苗木の家臣たちを一瞥し、それから正面に向き直って、無言で姪の顔を睨みつける。
そんな叔母と侍女を侮蔑の籠もった目で見下しながら、琴は手にした扇で窓の外を指し示した。
「――本当でしたら、先ほどと同じように叔母上と愉しいおしゃべりに興じたいところですが、三の丸に押し寄せてきた甲斐の山猿どものせいで、そのような暇は無いようですね」
「……回りくどい事を」
不快げに眉を顰めたつやは、琴の顔を鋭い目で睨みつけ、低い声で問い質す。
「今度は一体何を企んでいるのですか、貴女は? わざわざ私たちを本丸に上げたのには、理由があるのでしょう?」
「ふふ……」
つやの鋭い視線を受けながらも、琴涼しい顔で意味深な含み笑いを漏らした。
そんな彼女の表情と態度に微かな違和感を覚えながら、つやは言葉を継ぐ。
「私たちを人質にして、武田方の譲歩を引き出そうとしても無駄です。この姿で苗木城へ入った時より、命は無いものと覚悟しており、夫と武田左馬助様にも、予め『万が一の事が起こった時には、我が命は既に無いものとして、存分に御働き下さい』とお伝えしておりますから」
「ふ……それは随分とお勇ましい」
つやの言葉を、まるで揶揄うように笑った琴は、ゆっくりと首を横に振った。
「……ですが、ご安心下さい。もとより私は、叔母上を人質にしようなどとは考えておりませぬ」
「……? では、一体何故――」
つやの声は、一斉に上がった鎧擦れの音によって遮られる。
ハッとした顔をして背後を振り向いたつやの目に映ったのは――おもむろに立ち上がりながら刀の鯉口を切る苗木家臣らの姿だった。
「こ……これは――!」
「うふふふふふ!」
つやが上げた驚きの声に、琴は広げた扇で口元を隠しながら、愉快そうに哄笑する。
そして、ありったけの憎悪を込めた声で叫んだ。
「貴女にお願いしたい事は、もっと簡単な事です。――死んで下さいまし!」
琴の絶叫と同時に、兵たちが一斉に抜いた刀の鞘走りの音が重なる。
それを見たつやの侍女は、縛られたままで身を捩り、主を庇うように兵たちの前に立ちはだかった。
鞘走りの音に振り返り、自分に白刃を突きつける兵たちの姿を見たつやは、さすがに顔を青ざめさせながらも、冷静さを保った声で訊ねかける。
「……気でも触れたのですか、琴殿?」
「いいえ、叔母上! 私は、いたって正気ですわ!」
琴は、興奮のあまり、口元を扇で隠す事も忘れ、狂的な表情で叫んだ。
「織田家の女でありながら、遠山家を武田へ靡かせ、兄上に仇成す真似をした貴女……万死に値します! せめて、死ぬ時くらいは織田家の為になりなさいな」
「織田家の為……? それは一体どういう……」
「ふふん!」
訝しげに訊き返すつやに、琴は勝ち誇った顔で答える。
「これから、私はここを退去し、尾張へ帰ります」
「な……? そ、そんな事が――」
「城下に武田軍が押し寄せているから、不可能だとお思いですか? ふふ……そんな事はありませんよ」
そうほくそ笑みながら、琴は扇で自分の事を指さした。
「なぜなら――私が、織田上総介の妹だからです」
「……!」
「織田家と武田家……実情はともかく、表面的には未だ明確に手切れをしておりませぬから、山猿どもが織田家の身内である私に手を出す事など出来ますまい。万が一にも私を害する事があらば、織田家に武田を攻める大義名分を与えることになりますからね」
「それは……」
「そして、叔母上――貴女も織田家の端くれです。その貴女が、武田が攻めかかってきた苗木城の本丸で死んでいたら、どうなるでしょう?」
そう言いながら、琴はつやの首を掻っ切るように、手にした扇を横に払う。
「――当然、貴女は、苗木城に攻め入った武田勢の手にかかって死んだものと思うでしょう。世間も織田家も――そして、岩村の遠山大和守たちも」
「な……」
「そうなれば、織田家は“身内を殺された”という事で、武田家を討つ為のまたとない大義名分を得る事となります。そして……愛しき妻を殺された大和守も武田家に深い恨みを抱く事になり、織田家に靡く気になるに違いありませぬ!」
自分の言葉に陶酔した琴は、恍惚とした表情を浮かべながら、すっくと立ち上がった。
そして、呆然とした顔で自分の事を見上げるつやを見下しながら、勝ち誇った声で言葉を続ける。
「さすれば、この東濃の地から武田の力を残らず払拭し、織田家の版図とした上で、南と東から西美濃の斎藤を挟撃して討ち払う事も不可能ではないでしょう。そうなれば、我が兄上は尾張と美濃の二国を統べる大大名となり、武田や今川にも引けを取らぬ力を手にできるのです!」
そこまで一気に捲し立てた琴は、僅かに息を弾ませながら満足げに頷くと、口角を上げて薄笑み、つやの背後の兵たちに目配せをしながら、「――という事ですから」と冷たい声で告げた。
「叔母上には、ここで死んで頂きます。織田家の女として……織田家の繁栄の為に、ね」
「……いいえ」
だが、つやは琴の言葉に決然とした表情で頭を振ると、彼女の顔を真っ直ぐに見据える。
そして、一片の畏れも迷いも無い澄んだ声で言い放った。
「私は、もう織田家の女ではありません。今の私は、遠山大和守の妻――遠山家の女です」
「……ッ!」
琴は、つやの惑いの無い声に一瞬たじろぐが、すぐに目を吊り上げる。
「――減らず口も、これで終いです! さあ、お覚悟なさい!」
彼女はそう金切り声で叫ぶと、手にした扇を勢いよく振り下ろした。
その合図を見た苗木兵たちが、縛られたままのつやと侍女に向けて一斉に刀を振り上げる。
――その時、
「……やれやれ、見境と正気を無くした女子は、げに見苦しきものだな」
という、低い男の呆れ声が聞こえた。
「――っ?」
兵たちは、唐突に聞こえた不審な声に驚き、一瞬体を硬直させる。
その次の瞬間、鳴り響いた乾いた破裂音。
その音と同時に噴き上がった夥しい白煙が、たちまちの内に部屋の中を覆い尽くしたのだった――!
と、本丸御殿の自室に入って来た人物に向けて、上座に腰を下ろした琴が鷹揚に声をかけた。
「――もうお休みでしたか、叔母上?」
「……」
胴丸を纏ったまま、まるで罪人のように体を荒縄で縛られたつやは、苗木兵によって無理やり板敷の床へ座らされる。
その後ろに、同じように縄を打たれた彼女の侍女が座らされ、兵に頭を押さえつけられて平伏させられた。
つやは、背後を振り返り、険しい顔をして控える具足姿の苗木の家臣たちを一瞥し、それから正面に向き直って、無言で姪の顔を睨みつける。
そんな叔母と侍女を侮蔑の籠もった目で見下しながら、琴は手にした扇で窓の外を指し示した。
「――本当でしたら、先ほどと同じように叔母上と愉しいおしゃべりに興じたいところですが、三の丸に押し寄せてきた甲斐の山猿どものせいで、そのような暇は無いようですね」
「……回りくどい事を」
不快げに眉を顰めたつやは、琴の顔を鋭い目で睨みつけ、低い声で問い質す。
「今度は一体何を企んでいるのですか、貴女は? わざわざ私たちを本丸に上げたのには、理由があるのでしょう?」
「ふふ……」
つやの鋭い視線を受けながらも、琴涼しい顔で意味深な含み笑いを漏らした。
そんな彼女の表情と態度に微かな違和感を覚えながら、つやは言葉を継ぐ。
「私たちを人質にして、武田方の譲歩を引き出そうとしても無駄です。この姿で苗木城へ入った時より、命は無いものと覚悟しており、夫と武田左馬助様にも、予め『万が一の事が起こった時には、我が命は既に無いものとして、存分に御働き下さい』とお伝えしておりますから」
「ふ……それは随分とお勇ましい」
つやの言葉を、まるで揶揄うように笑った琴は、ゆっくりと首を横に振った。
「……ですが、ご安心下さい。もとより私は、叔母上を人質にしようなどとは考えておりませぬ」
「……? では、一体何故――」
つやの声は、一斉に上がった鎧擦れの音によって遮られる。
ハッとした顔をして背後を振り向いたつやの目に映ったのは――おもむろに立ち上がりながら刀の鯉口を切る苗木家臣らの姿だった。
「こ……これは――!」
「うふふふふふ!」
つやが上げた驚きの声に、琴は広げた扇で口元を隠しながら、愉快そうに哄笑する。
そして、ありったけの憎悪を込めた声で叫んだ。
「貴女にお願いしたい事は、もっと簡単な事です。――死んで下さいまし!」
琴の絶叫と同時に、兵たちが一斉に抜いた刀の鞘走りの音が重なる。
それを見たつやの侍女は、縛られたままで身を捩り、主を庇うように兵たちの前に立ちはだかった。
鞘走りの音に振り返り、自分に白刃を突きつける兵たちの姿を見たつやは、さすがに顔を青ざめさせながらも、冷静さを保った声で訊ねかける。
「……気でも触れたのですか、琴殿?」
「いいえ、叔母上! 私は、いたって正気ですわ!」
琴は、興奮のあまり、口元を扇で隠す事も忘れ、狂的な表情で叫んだ。
「織田家の女でありながら、遠山家を武田へ靡かせ、兄上に仇成す真似をした貴女……万死に値します! せめて、死ぬ時くらいは織田家の為になりなさいな」
「織田家の為……? それは一体どういう……」
「ふふん!」
訝しげに訊き返すつやに、琴は勝ち誇った顔で答える。
「これから、私はここを退去し、尾張へ帰ります」
「な……? そ、そんな事が――」
「城下に武田軍が押し寄せているから、不可能だとお思いですか? ふふ……そんな事はありませんよ」
そうほくそ笑みながら、琴は扇で自分の事を指さした。
「なぜなら――私が、織田上総介の妹だからです」
「……!」
「織田家と武田家……実情はともかく、表面的には未だ明確に手切れをしておりませぬから、山猿どもが織田家の身内である私に手を出す事など出来ますまい。万が一にも私を害する事があらば、織田家に武田を攻める大義名分を与えることになりますからね」
「それは……」
「そして、叔母上――貴女も織田家の端くれです。その貴女が、武田が攻めかかってきた苗木城の本丸で死んでいたら、どうなるでしょう?」
そう言いながら、琴はつやの首を掻っ切るように、手にした扇を横に払う。
「――当然、貴女は、苗木城に攻め入った武田勢の手にかかって死んだものと思うでしょう。世間も織田家も――そして、岩村の遠山大和守たちも」
「な……」
「そうなれば、織田家は“身内を殺された”という事で、武田家を討つ為のまたとない大義名分を得る事となります。そして……愛しき妻を殺された大和守も武田家に深い恨みを抱く事になり、織田家に靡く気になるに違いありませぬ!」
自分の言葉に陶酔した琴は、恍惚とした表情を浮かべながら、すっくと立ち上がった。
そして、呆然とした顔で自分の事を見上げるつやを見下しながら、勝ち誇った声で言葉を続ける。
「さすれば、この東濃の地から武田の力を残らず払拭し、織田家の版図とした上で、南と東から西美濃の斎藤を挟撃して討ち払う事も不可能ではないでしょう。そうなれば、我が兄上は尾張と美濃の二国を統べる大大名となり、武田や今川にも引けを取らぬ力を手にできるのです!」
そこまで一気に捲し立てた琴は、僅かに息を弾ませながら満足げに頷くと、口角を上げて薄笑み、つやの背後の兵たちに目配せをしながら、「――という事ですから」と冷たい声で告げた。
「叔母上には、ここで死んで頂きます。織田家の女として……織田家の繁栄の為に、ね」
「……いいえ」
だが、つやは琴の言葉に決然とした表情で頭を振ると、彼女の顔を真っ直ぐに見据える。
そして、一片の畏れも迷いも無い澄んだ声で言い放った。
「私は、もう織田家の女ではありません。今の私は、遠山大和守の妻――遠山家の女です」
「……ッ!」
琴は、つやの惑いの無い声に一瞬たじろぐが、すぐに目を吊り上げる。
「――減らず口も、これで終いです! さあ、お覚悟なさい!」
彼女はそう金切り声で叫ぶと、手にした扇を勢いよく振り下ろした。
その合図を見た苗木兵たちが、縛られたままのつやと侍女に向けて一斉に刀を振り上げる。
――その時、
「……やれやれ、見境と正気を無くした女子は、げに見苦しきものだな」
という、低い男の呆れ声が聞こえた。
「――っ?」
兵たちは、唐突に聞こえた不審な声に驚き、一瞬体を硬直させる。
その次の瞬間、鳴り響いた乾いた破裂音。
その音と同時に噴き上がった夥しい白煙が、たちまちの内に部屋の中を覆い尽くしたのだった――!
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