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第二部二章 駆引

窮鼠と吶喊

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 「――四郎様!」

 間道の前方に現れた騎馬武者の一群が、雄叫びを上げながら馬の横腹を蹴ったのを見て、勝頼の付家老である小原丹後守継忠が鋭い声を上げる。

「敵が参ります! お下がり下され!」
「……!」

 継忠の言葉を聞いた勝頼は、僅かに眉を顰めながら口惜しそうに下唇を噛むと、手綱を繰って後ろに下がった。
 彼と入れ替わるように素早く前に出た弓足軽が、狭い間道を塞ぐように並び、弓に矢を番える。

「弓隊、放てぇ――っ!」

 継忠の号令と共に、弓足軽たちが引き絞った弓を一斉に解き放った。
 風切り音を立てながら飛来した夥しい矢が、武田軍に向かって吶喊する苗木衆の騎馬武者たちに襲いかかる。

「――ぐぅっ!」
「が……ッ!」
「むん……っ」
「あぁっ!」

 先頭を疾走はしっていた騎馬武者たちの何名かの身体や乗騎に、次々と矢が突き立った。
 ある者は首元を貫いた矢を掴みながら馬から転げ落ち、ある者は悲鳴のような嘶きを上げながら転倒した馬の下敷きになり、ある者は棹立ちになった馬の背から投げ出される。
 だが、それでも苗木衆の勢いは衰えない。巧みに手綱を繰って、斃れた同胞の身体を次々に跳び越えると、尚も喊声を上げながら、ひたすら前へと疾駆する。
 それを見た武田の兵たちは、表情を引き締め、脇に手挟んでいた手槍を一斉に構えた。
 と、彼らの中央に陣取った勝頼が、凛とした声を張り上げる。

「心せよ! 敵は窮鼠のように、死を恐れずにかかってくるぞ! 寡兵といえど、努々油断するな!」
「「「「「おおおおお――っ!」」」」」

 勝頼の声に、武田の兵は万雷の如き鬨の声で応えた。
 その直後、武田兵と吶喊してきた苗木兵が衝突し、たちまち乱戦になる。
 そこかしこで武田軍の小者が掲げる松明の光に照らされた槍の穂が煌めき、打ち合わされた刃から飛び散った火花が蛍のように煌めいた。
 そして、兵たちが上げる気合いの声や怒声や苦悶に満ちた呻き……そして、断末魔の叫びが森の中にこだまし、噎せ返るような血の香りが辺りを漂う。

「者ども、怯むなぁっ!」

 その乱戦のさ中で、矢口茂武も手槍を繰りながら叫んだ。

「敵は当方よりも圧倒的に多数! だが、逆に言えば、おのが周りは全て敵という事じゃ! 同士討ちを怖れる必要は無い! 目に見えた者を斃す事にだけ専念せよ!」

 茂武は、次々と自分に向けて繰り出される刃を懸命に手槍で捌きながら、尚も吠える。

「生きて帰るとは思うな! ここでひとりでも多くの敵を殺し、己が名を天下に轟かせる事だけを考えよ! それが、ひいては主家への報恩になる!」

 そう叫びながら、手槍を大きく振り回し、茂武は頻りに周囲へ目を配った。自分の周囲をびっしりと取り囲んだ武田の兵たちの顔を素早く見回しながら、勝頼の姿を探す。
 ――だが、彼の視界の中に、先ほど遠目で見た三鍬形前立の兜を被った若武者の顔は見当たらない。

「……ちっ!」

 苛立ちで舌を打った茂武は、勢いよく馬の腹を蹴った。

「どこじゃ! 諏訪四郎! 姿を現せい!」

 一啼きして疾駆を始める乗騎の上で、茂武は大声を張り上げる。
 周囲の武田兵が茂武の行く手を遮ろうとするが、彼が遮二無二振り回す手槍と決死の覚悟を極めたに圧されて近寄る事が出来ず、手をこまねいて遠巻きにするばかりだった。
 そして――遂に彼は探していたものの元に辿り着く。

「……そこかぁ!」

 視界の端に闇夜の中ではためく諏訪梶ノ葉紋の旗印を捉えた茂武は、即座に馬首を翻し、旗印の元で向かった。
 あの旗印の下に、諏訪四郎勝頼が居る――そう思いながら、彼は疲労困憊の極みにある身体に渇を入れる。

「我こそは矢口信濃守茂武なり! 諏訪四郎勝頼、いざ参るぞっ!」

 彼はそう絶叫するや、渾身の力で馬の横腹を蹴りつけた。
 棹立ちになってから狂奔したかのように疾走し始めた乗騎の上で、茂武は手槍をしごく。

「止めよ! 断じて通すな!」
「馬から落とせ! 四郎様に近付けるでない!」
「兜首じゃ! 討ち取って手柄とせよ!」

 武田軍の組頭たちから緊迫した指示が上がり、数多の騎馬武者と徒歩武者が茂武に殺到した。

「ええい! どけい! 邪魔じゃ!」

 茂武は、なお一層手槍を激しく繰り回し、尚も前進しようとする。
 そんな彼の身体に、幾本もの刃が何度も突き出され、深く突き立った。

「ぐぅっ! な、なんのぉ!」

 だが、それでも彼は止まらない。
 手槍を左手に持ち替え、右手で刀を抜いた茂武は、無数の刀槍を弾き、受け、捌きながら、ただただ執念の赴くままに前進した。

「どこじゃ! 姿を現せ、諏訪四ろ――」
「私はここだ。矢口とやら」

 ――その時、
 足下から突き上げられた槍を刀で弾き飛ばし、そのまま体を捻って相手の体を突いた茂武が、大きく息を吸い込んで吐いた怒声は、不意に上がった涼やかな声によって遮られる。

「その声は――!」

 ハッとして振り返った茂武の目に映ったのは、見覚えのある三鍬形前立の兜を被った白皙の若武者の姿だった。

「諏訪四郎勝頼か……!」
「いかにも」

 茂武が向けたぎらついた視線にも怖じる事無く、勝頼は小さく頷いた。
 それを見た茂武は、口元を僅かに吊り上げるや、白馬に跨った勝頼に向けて馬首を廻らせる。

「――その首、もらい受ける!」

 雄々しく叫んだ茂武は、馬を走らせながら、血に塗れた手槍を勝頼の胸元目がけて繰り出した。

「はあっ!」

 勝頼は、手にした片鎌槍で茂武の槍を弾き飛ばす。
 その打撃の強さに耐え兼ね、茂武は手槍を取り落してしまった。
 だが、それでも彼は諦めない。

「なんのぉっ!」

 茂武は、すかさず右手に握った刀を勝頼の肩口目がけて振り下ろした。

「くっ!」

 すんでのところで茂武の刀を左腕の籠手で受け止めた勝頼は、素早く右手の片鎌槍を切り返し、彼の左脇下目がけて突き出す。
 白銀に輝く片鎌槍の穂先が――腕が上がった茂武の脇下を深々と刺し貫いた。

「ぐ……ぅッ!」

 茂武の顔が激痛で歪む。
 それでも、なお刀を握った手に力を込め、籠手ごと勝頼の腕を切り落とそうとする彼だったが――

「……ごほっ、がはぁっ!」

 突如、口から夥しい血を吐いた。
 勝頼の槍の穂先が、彼の左肺に致命的な傷を与えていたのだ。

「……」

 神妙な表情の勝頼が無言で片鎌槍を抜くと、支えを失った茂武はぐらりと体勢を崩し、そのまま力無く地面に落下する。

「はぁ……ごふっ……はぁ……」

 口から血泡を噴きながら浅い呼吸を吐く茂武の傍らに、馬を下りた勝頼が屈み込んだ。
 そして、腰に差した鎧通しを抜き、茂武の首元にあてがう。
 彼は、死相が浮かんだ茂武の顔を見下ろしながら、静かな声で囁きかけた。

「……最後に、何か言い遺す事はあるか? 矢口信濃守――」
「……諏訪……諏訪四郎ど……の」

 霞みかけた視界に移る勝頼の整った顔立ちを見上げながら、茂武は掠れ声で言う。

「か……忝い……。ワシのような者の……今際の言葉を聴いてくれるというのか……」

 茂武は、自分の言葉に小さく頷いた勝頼の顔を見上げた。
 間近で見た勝頼の顔は、驚くほど温和で優しげで――とても、ついさっき自分の体を槍で突き貫いた猛者には見えない。
 最期に恨み言のひとつでもぶつけてやろうかと思っていた茂武が、勝頼の神妙な顔を見ているうちに、そのような気はすっかり失せてしまった。
 彼は、苦しい息の中で苦笑を浮かべ、小さくかぶりを振る。

「……いや、せっかくのお心遣いだが、特に何も――」

 そう言いかけた茂武だったが、その脳裏にひとりの少女の姿が過ぎった。
 ……ああ、そうだ。あの御方の事が……。
 そう考えながら、茂武は言い直した。

「――いや、ひとつだけ……宜しいか?」
「ああ、良いぞ」

 自分の問いかけに勝頼が頷いたのを見て、茂武は軽く目 を瞑りながら続ける。

「た……龍様の事……あの御方は、此度の我々の企みには一切関係御座らぬ……。な、何卒……寛大なご配慮をお願い……した……い」
「……相分かった」

 限界が近づき、絶え絶えに紡がれた茂武の言葉に、勝頼は大きく頷いてみせた。

「その言葉、叔父上にも必ず伝えよう。安心せよ、叔父上は筋の通らぬ事は決してせぬ御方だ。お主の申した事が偽りでないと解れば、決して悪いようにはせぬ。それは、私がこの身に流れる神氏の血に懸けて保証しようぞ」
「かた……かたじけな……い」

 勝頼の言葉を聞いて、茂武は安堵の表情を浮かべると、焦点の定まらなくなった目を瞑り、顎を上げた。

「その言葉を聞けて、安心致した。――では、お頼み申す……」
「……御免」

 勝頼は、僅かに乱れた息を整えてから――鎧通しを握る手に力を込めた。
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