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第二部一章 進撃

美濃と三河

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 ――永禄八年 (西暦1565年)九月。

 甲斐国 (現在の山梨県)主・武田信玄が率いる武田軍は、甲斐国古府中 (現在の甲府市)の躑躅ヶ崎館を発した。
 街道を北上して信濃国 (現在の長野県)諏訪を経て塩尻へと至り、そこから南へ進み、数日後には伊那郡飯田城へと到着した。
 飯田城での二日ほどの滞在の間に、各地から馳せ参じた信濃衆が続々と加わり、武田軍の総勢は一万八千になった。
 そこで信玄は、当初の予定通り、軍を二つに分ける。
 ひとつは、信玄自らが率い、南下して三河 (現在の愛知県東部)へ向かう六千。
 そして、もうひとつは、信玄の次弟・武田典厩信繁が率い、美濃 (現在の岐阜県)へ向かう一万二千である。

 総大将である信玄が率いる軍の方が少ないのには、理由がある。
 永禄三年 (西暦1560年)に起こった桶狭間の戦い。
 その際に、駿河今川家当主・今川義元が戦死した後のどさくさに紛れて独立した松平元康 (独立後、家康と改名)によって奪われた三河の地を奪還せんと動いた今川軍への助勢だからである。
 助勢といえど、軍を率いるのは当主信玄であり、盟友である今川への義理立ては充分以上だと言えた。

 また、信玄は、それと同時にもう一方の軍を美濃へと派遣する。
 それは、彼の悲願である上洛への道を確保する上で欠かせない美濃攻略への足掛かりを作る狙いがあった。

 織田家もまた、美濃を狙っていた。
 美濃国は、永禄四年(西暦1561年)に当主斎藤義龍が病死した後、嫡男の龍興が跡目を継いだが、彼がまだ若年だった事もあって、その領国統治は難航した。
 その上、南から、義龍の頃から敵対し度々衝突を繰り返していた尾張 (現在の愛知県西部)織田家の圧力が更に高まった。
 織田信長は、尾張と美濃の国境に近い小牧山 (現在の愛知県小牧市)に城を築き、永禄六年 (西暦1563年)に本拠をそれまでの清州から小牧へと移し、以前よりも速やかな美濃への侵攻を可能にする。
 もちろん、龍興も、織田信長からの圧力に対して、ただただ手をこまねいていた訳では無く、北近江 (現在の滋賀県北部)を領する浅井長政と同盟を結ぼうと試みたものの、織田家の横槍が入った結果、不調に終わった。

 武田家は、そんな美濃の混乱した状況を見て、侵攻を決めた。
 信玄は、木曾谷 (現在の長野県木曽郡)の領主であり、娘の真理を嫁がせた武田家親族衆でもある木曾義昌や、武田家の半従属関係にあった美濃岩村城主遠山景任らに命じて、永禄七年末頃から本格的に東美濃の情況把握と調略を進めさせていた。
 そして、永禄八年に入って、機が充分に熟したと見た信玄は、遂に東美濃の攻略に取りかかったのだった。

 ――そして、
 信玄が、今次の美濃攻めを自軍を二つに分けてまで今川家の三河攻めと同時期に行った事には、更なる狙いが含まれていたのだった……。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 飯田城の本丸御殿の大広間で、甲冑姿の隻眼の男が板張りの床から腰を上げながら、上座に鎮座する男に向かって会釈した。

「では、お屋形様。拙者たちは、そろそろ……」
「うむ」

 隻眼の男の言葉に、どことなく彼と面立ちが似た僧形の男が鷹揚に頷く。

「美濃の事、任せたぞ、典厩」
「はっ」

 典厩――武田典厩信繁は、己の主であり、実兄でもある武田家当主・武田信濃守大膳太夫晴信入道信玄に向かって、恭しく頭を下げた。
 そして、静かに顔を上げると、落ち着いた声で兄に言う。

「お屋形様こそ……くれぐれもご無理はなさらず。ご自愛下され」
「ははは……まだそのような事を申すか」

 信繁の言葉に、信玄は苦笑を漏らした。

「そのように案ぜずとも、儂の身体はもう万全じゃ。むしろ、ここ数年で一番調子が良い」
「そうかもしれませぬが、それは、(板坂)法印殿の煎じた薬と治療の賜物で御座ります」

 からからと打ち笑う信玄の元気な様子に、信繁は内心で安堵しつつも、彼をあまり調子づかせる訳にはいかぬと、心を鬼にして釘を刺す。

「以前にも、法印殿が仰っておられたでしょう。『労咳に効く一番の薬は、安静な環境』だと」
「……分かっておる」

 弟に窘められた信玄は、少し憮然としながら、しぶしぶ頷いた。
 と、彼の横に座っていた若い男が口を挟む。

「……典厩様、御懸念なさるのは尤もですが、どうぞご安心下され。お屋形様には、私が付いておりますゆえ」
「……そうだな」

 若い男の言葉を聞いた信繁は、ふっと相好を崩した。

「確かに、お主が傍に居るのなら安心だな」

 微笑んだ信繁は、若い男に向かって大きく頷きかける。

「以前にも言うた覚えがあるが……お屋形様の事をくれぐれも頼んだぞ。太郎……いや、若殿」
「はっ! 承って御座る!」

 信繁の言葉を受け、若い男――武田家の嫡男・武田義信は、満面の笑みを浮かべながら大仰に頭を下げた。
 その顔に、一年前までの憂いの色は見えない。
 ちょうど一年前に起こった一連の騒動をきっかけに、それまで実父信玄との間を隔てていた分厚い壁が氷解し、義信は着実に、そして順調に武田家次代当主としての道を歩んでいたからだ。
 今年に入って、彼は朝廷から従五位下・左京大夫に叙任されており、武田左京大夫義信となっていた。左京大夫は、彼の祖父である故武田信虎が叙任されていた官位であり、その官位を孫である義信が受け継いだという事は、信玄から義信へ家督が受け継がれるという何よりの証明だと言える。
 その上、彼の室である嶺の腹には新しい命が宿っている。まだ分からないが、もし生まれるのが男児であれば、一層武田家と義信の未来は安泰だ。
 自身の背を力強く押す追い風の存在を感じて、これまでになく意気軒高の義信は、落ち着いた微笑みを浮かべながら信繁に言った。

「御懸念には及びませぬ。確かに総大将はお屋形様ではありますが、実際に軍の指揮を司るのは私たちですから。此度の戦、お屋形様には高みの見物に徹して頂きます」
「……そういう事だ、典厩。置物扱いされるのは、儂としては些か不本意だがな」

 義信の言葉に、信玄は憮然とした顔で頷く。
 そして、したり顔の義信の事を見据えながら言った。

「……だが、お主の采配が少しでも鈍るようなら、その時は儂が直々に軍配を執るからな。肝に銘じておけよ、太郎」
「はっ! もちろん、心得ております。……ですが、父上の御手を煩わせるような事にはならぬでしょう」
「此奴め、儂に対して随分と生意気な口を叩きおるようになったわ……」
「ははは……」

 義信と信玄が交わす、冗談混じりの穏やかなやり取りを見ながら、信繁は朗らかな笑い声を上げるのだった。
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