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第一部九章 愛憎

理屈と感情

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 その日の夕刻――。

「何と……信虎公――祖父上おおじうえ様が……!」

 躑躅ヶ崎館に戻ってきた信繁と昌幸から、朝の恵林寺での一件について聞かされた義信は、あまりの事実に大きな衝撃を受けた。

「――何故ですか? 祖父上にとって今川家は、甲斐を出られてから身を寄せた、縁深い一族ではないのですか? 伯母上……定恵院様が嫁がれた先でもあり、氏真殿は、ご自身の孫でもある……。そ――それなのに何故、父上に対し、攻めかけるよう唆すのですか?」
「……正直、解らぬ」

 義信の問いかけに、渋面を浮かべた信繁は小さく頭を振った。

「兄上に送った書状には、頻りに『武田家の未来の為』だとか、『織田や松平に侵食される前に、東海三国を併呑する事が、むしろ今川の為でもある』といった文言がもっともらしく記されておったが……。どうも、調子が良いというか、熱に浮かされておるような……儂が読んだ限りでは、そんな印象を持った」
「……拙者も同じです。――正直、現実が見えておられぬように感じ申した」

 信繁に続いて、昌幸も低い声で言った。

「……こう言っては何ですが、狂じ……失敬。……些か正気を失われておられる気配を感じざるを得ない……。普通の感覚では理解に苦しむ怪文――読んで、そう感じました」
「……次郎兄や武藤にそこまで言わしめるとは、逆に読んでみたかったですなぁ。父上の怪文書とやらを」

 そう脳天気に微笑むのは、信繁の弟・信廉であった。
 その屈託のない表情に、信繁も思わず相好を崩す。

「悪いが、それは叶わぬな。一通り検めたら、兄上に勘づかれぬ様に、元通りにして布団の下に戻してきてしまったからな」
「……ですが、読んでもあまり愉快なものではありませんでしたよ、逍遙様」

 そう言ったのは、昌幸だ。彼は僅かに顔を顰めながら、辟易とした様子で言葉を吐いた。

「歯に衣を着せぬ物言いをお許し頂ければ……正直、あの様な書状に、何故あのお屋形様が心を傾けつつあるのか――拙者には、理解が出来ませぬ」
「……そうだな」

 昌幸の言葉に、信繁も静かに首肯する。

「昨今の時勢や、周囲の動向を考えると……如何に勢いが衰えておるとはいえ、現在いまの今川を攻める事に利があるようには思えぬ。寧ろ『長年の同盟国であり、姻戚でもある今川家の苦境に乗じた』という非難の誹りは免れず、武田にとっては後々までの枷ともなろう」

 そう言うと、信繁は怪訝な顔をして首を傾げた。

「……あの兄上が、それをお解りにならぬはずは無いと思うのだが――」
「……私は、何となく解る気がしますなぁ。太郎兄――お屋形様のお気持ちが……」

 その時、そう声を上げたのは、信廉だった。
 信繁は、その言葉に片眉を上げる。

「ほう……そうなのか?」
「ええ……」

 と、信廉は坊主頭をポリポリと掻きながら苦笑いを浮かべた。

「確かに、次郎兄にはお解りになりづらいやも知れませぬ。――私はどちらかというと、お屋形様と同じく、でしたゆえ」
「――!」

 信廉の言葉に、信繁はハッとした表情を浮かべた。

「――まあ、私は、所詮三男。元々期待などされておりませんでしたから、私自身も好き勝手に、絵道楽に逃げ場を見出し、そこそこ楽しく気を紛らわせる事が出来ましたが……。武田の家を継ぐべき身であった太郎兄は、私のように逃げの一手を打つ事も出来ず、さぞや大変だったと思います」
「……」
「太郎兄は、武田の家督を継ぐ者として、何とか父上に認められようと心を砕いていたのです。ですが、父上は太郎兄に対し、碌にまつりごとにも加わらせず、戦でも後方に配置するなどして、終始軽々しく扱いました。――結局父上は、甲斐を逐われるまでの間、決して兄上をお認めになる事はなかったのです」

 そこまで言うと、信廉は盃に口をつけ、酒で舌を湿らせた。
 そして、小さく息を吐くと言葉を続ける。

「――そんな父上が、恐らく生涯初めて、太郎兄の力を恃もうとなさっておられるのです。……そんな、親の期待に何とか応えたいと思うのは、子の情としては寧ろ当然なのではないでしょうか?」
「……なるほど」

 と、信廉の話に小さく頷いたのは、義信だった。

「……私にも、解るような気が致します。――恐らく、昔の父上のそれとは比べものにならぬ程小さいとは思いますが……私も、以前はその様な思いを抱いた事があります……」

 そう呟くように言うと、義信は大きく息を吐いた。

「――ですが」

 そして、その目に強い光を宿すと敢然と立ち上がり、信繁ら一同の顔を見回す。

「――かといって、信虎公の妄言に踊らされ、父上が正道を踏み外し、ひいては武田家自体を危うくする事態は、是が非にでも避けねばなりませぬ!」

 そう言い放つと、義信は深々と頭を下げた。

「――典厩様! 逍遙様! そして、喜兵衛! どうか、私の――武田家の為に、お力をお貸し下され! 何とぞ……」

 その義信の言葉の前で、異論を挟む者など、居なかった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 そして、四人は膝を突き合わせて今後の方策について頭を悩ませていたが、深更にもたらされた近習からの報せによって、事態は急激に動く事となる。

「――法印殿が、やっといらっしゃるのか」

 信繁は、その報せを聞いて、胸を撫で下ろした。
 近習は、小さく頷く。

「はっ。本日の昼頃に、板坂法印様と、公方様からの見舞いの使者を乗せた船が、清水湊 (現在の清水港)に到着した由に御座ります。本日は駿府にて宿泊なされ、遅くとも三・四日以内には、府中へと到るだろうとの事です」
「ほう。法印殿だけではなく、公方様からの使者殿も参られるのか」

 近習の言葉に、義信は喜びの表情を浮かべた。

「これは、武田の家格を落とさぬように、しっかりとお迎えせねばなりませぬな」

 信廉も、ニコリと笑って、坊主頭を一撫でする。

「――して、公方様が差し遣わした使者というのは、どなたなのでしょうな?」

 と、昌幸が尋ね、信繁は近習から受け取った書状を広げて確認する。

「うむ、使者か……。これには、正使が細川兵部大輔 (藤孝)様……とあるな」

 そう言いながら、信繁の目は、次の行へと移る。

「それに、副使とし……て……」

 突然、信繁の言葉が途切れた。

「……典厩様?」

 異変を感じた昌幸が、怪訝な表情で信繁を呼ぶ。信廉と義信も、顔を曇らせて互いの顔を見合わせた。

「……」

 信繁は唇をグッと噛むと、書状から顔を上げる。――その顔色は、手に持った書状よりも白かった。

「て……典厩様? 一体、どうな――」
「……公方様が遣わされた副使……その者の名は――」

 驚いた昌幸の言葉にも応えず、信繁は言葉を紡ぐ。――呆然とした顔で。

「……副使の名は――
「「「な……っ?」」」

 信繁が告げた名に、三人は絶句する。
 そんな三人を前に、知らぬ内に手にした書状を握り潰した信繁は、微かに声を震わせながら言葉を継いだ。

「つまり……武田左京大夫信虎公――父上だ」
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