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第一部七章 血縁

密命と標的

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 昌幸は、信玄が倒れる前に義信と交わした話の詳しい内容を信繁から聞くと、暗鬱たる表情を浮かべた。

「それは……真でござりますか……」
「お主らに嘘を言うてどうなる?」
「……」

 信繁の答えに、昌幸はぐっと唇を噛み締め、眉根に皺を寄せた。

「昨年の冬、この屋敷に飯富様がいらっしゃった時に憂慮していた事態が、いよいよ現実のものとなった――そういう事ですね」
「……そうなるな」

 信繁も、苦い顔をして、渋々頷く。

「……だが、お屋形様がお倒れになった事で、図らずも、その話は止まっておる。――このまま立ち消えになってくれれば、なお良いのだがな……」
「さすがに、そう上手くはいきますまい」
「……分かっておる」

 信繁は、昌幸の言葉に、ムッとした顔でぶっきらぼうに言い返す。
 そして、拳を口元に当てて咳払いをすると、言葉を継いだ。

「些か不謹慎ではあるが……。そのお陰で、儂や太郎のような、今川と事を構える事を良しとしない者らにとっては、貴重な時間を得る事が出来たとも言える。この猶予、一刻たりとも無駄には出来ぬ」
「――成程、それでオレが呼び出された訳か」

 それまでずっと、影のように押し黙ったままだった佐助が、初めて声を発した。
 信繁は、その声に小さく頷く。

「そうだ。お主に頼みたい仕事があってな。……お主にしか出来ぬ仕事だ」
「ほう……」

 佐助は、信繁の言葉に鼻白んだ。

「オレにしか出来ぬ仕事……、なかなか興味をそそられる響きだな」

 そう呟くと、佐助は舌なめずりをして、そのましらのような貌に不敵な笑みを浮かべる。

「で……、それはどんな仕事だ? 伏せっている信玄の首でも獲ってくるか?」
「佐助ッ! 口を慎めッ! 不敬であるぞ!」

 傲岸不遜な暴言を吐いた佐助を、昌幸が血相を変えて怒鳴りつけた。
 だが、佐助はケロリとした顔で、皮肉気に嘲笑わらう。

「不敬? 不敬とは、配下が主に無礼な振る舞いをすることだろう? 別にオレは、信玄――武田家に飼われた覚えなど無いぞ」
「佐助……お前――!」
「――実際、最も妥当な落としどころだろう。駿河に攻め込もうとしているのが、信玄ひとりだけであるのならば、その本人の口を塞げば済む話だ」
「……そう簡単な話ではない」

 佐助の言葉に、信繁は大きく首を横に振った。

「お屋形様が、嫡子である太郎に話をしたという事は、既に然るべき段階まで、駿河攻めへの布石を打ち終わっているからだとも解釈できる。家中で、我らから隠れて、計画を整えておる者がおるかもしれぬし、或いは……秘かに他国と連絡を取っておるのやもしれぬな」
「他国……差し当たって怪しいのは、尾張の織田弾正忠だんじょうのちゅう信長でしょう」
「――恐らくな」

 昌幸の推測に、信繁も頷いた。

「数年前から、使者を頻繁に送ってきているのは確か。――そして、四郎と織田の姫との婚姻を画策しているという話が真の事であるのなら、信長がお屋形様に駿河攻めを唆しているとしてもおかしくはない」
「美濃を掌中に収めたい信長にとっては、お屋形様の目を他に向けたくて仕方ないでしょうからね。『武田家が駿河に押し出した際には、呼応して、松平と共に今川を西から攻め申す』くらいのことは言ってのけそうです」

 昌幸は、そこまで言うと、つと表情を曇らせた。

「……と、なると――繋がってしまいましたな。……四郎様」
「……」

 昌幸の呟きに、渋い顔になった信繁は、無言で顎髭を撫でる。
 ――昌幸の言う通りである。
 万が一、今川と手切れし、敵対するような事になれば、義信の立場は無くなる。もしも、今川との縁に拘るあまりに、義信が信玄の意に背こうとすれば、最悪廃嫡される恐れすらあるだろう。
 そうなれば、将来、武田家の家督を継ぐことになるのは、四男の勝頼だ。そんな立場の勝頼に、織田信長が己の姫を嫁がせようとしているのは、決して偶然ではあるまい。
 つまり、勝頼自身が武田家の家督を望んでいるのであれば、織田家との利害は一致しているのだ。
 だが――、

「しかし、四郎は家督を継ぐつもりなど毛頭無い。――それは、先日、直に会うて確信できた」

 そう、信繁はキッパリと言い切った。

「あの者は、あくまでひとりの部将として、お屋形様を――そして、兄の太郎をたすけたいと考えておる。そんな四郎が、家督を狙わんが為に、他国と通ずる真似をするとは思えぬ」
「……確かに、四郎様自身はそうお考えかもしれませぬ。されど――」

 信繁に、昌幸は更に声を顰めた。

「……四郎様の周囲に居る臣たちが、四郎様あるじと志を同じくしているとは限りませぬ」
「……」

 昌幸の指摘に、信繁は言葉を詰まらせた。
 彼の脳裏に、先日の論功行賞での、長坂釣閑斎の振る舞いが思い浮かぶ。彼は、義信の守役である飯富虎昌を糾弾し、頑なに彼の切腹を主張したのだった。
 ――確かに、彼は勝頼の側付であった。

「……当主の弟の側付で甘んじるより、当主の直臣の方が良いでしょうからな、拙者のようなひねくれ者でも無い限りは」

 と言って、昌幸は皮肉気に顔を歪める。
 ――すると、

「――では、オレは、諏訪四郎勝頼の身辺を洗う為に呼ばれたのか?」

 佐助が、無表情のまま尋ねてきた。
 だが、

「いや――」

 信繁は首を横に振った。

「……ならば、尾張の織田の動向を探る為か?」
「いや、それも違う」

 重ねて信繁は頭を振る。

「その辺りの事ならば、別にお主を頼る必要は無い。武田子飼いの草 (忍び)に命じれば事足りる。……お主には、草を使う事が絶対に出来ぬ者を探ってもらいたい」
「……草には絶対に恃めぬ相手? 誰だ、それは――?」
「……それは――」

 珍しく当惑の表情を浮かべた佐助の顔をジッと見つめて、信繁は微かに震える唇で、その畏れ多い名を紡いだ。

「――我らがお屋形様。即ち、信玄公だ」
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