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第一部七章 血縁

悪夢と記憶

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 「……この、たわけ者がぁッ!」

 雪の吹き荒ぶ空気が、怒気に満ちた叫びで震えた。
 甲冑に身を包んだ壮年の男が、髪を逆立てながら目を吊り上げている前で、跪いた年若い青年が、ビクリと身体を震わせ、伏せていた顔を上げた。

「ち……父上――」
「貴様が、何故この場に居るのだ、太郎ッ!」

 呆然と父を見上げる太郎に、男は厳しい言葉を容赦なく投げつける。
 太郎は、意想外にこっぴどく怒鳴りつけられた事に激しく狼狽えつつも、目の前の首桶を指して、慌てて言葉を紡ぐ。

「何故――と、仰いますが……。私は、敵将を討ち取り、城を陥としました故、そのご報告に……」
「それがたわけた事だというのだ!」

 太郎の釈明にますます激昂した男が、怒りにまかせて首桶を蹴り飛ばす。ゴロゴロと首桶が転がり、開いた蓋の中から、斬り落とされてまだ間もない僧形の男の首が飛び出した。
 それにも構わず、男は狂ったように怒鳴り散らす。

「城を落としたのならば、大将たる者は城に残り、周辺の掃討と防備にあたるのが当然であろうが! それを貴様は、手柄に浮かれた挙句、城を放り出してここまでノコノコとやって来るとは……! 孫子だ何だとかいう、大層な書物をいくら読み漁ろうが、戦の機微をまるで理解できておらぬな、貴様は!」
「で――ですが!」

 父の言い草に、さすがに太郎は目を吊り上げた。

「も……もちろん、落とした城の事を疎かにしていた訳ではござらぬ! 充分に索敵を行い、残敵が逃散した事を確認した上で、留守居として――」
「ええい! 父に口答えするか、貴様ぁ!」

 更に怒りを募らせた父が、顔を朱に染めながら、手にした馬鞭を振り上げ、太郎の肩口へ思い切り振り下ろした。

 バチィッ!

 凍てつく冬の空気に、乾いた音が響き渡る。

「――グウッ……!」

 太郎は、打擲ちょうちゃくされて肩に走った激しい痛みを、歯を食いしばって堪える。
 と、男は、馬鞭の先で太郎の顎を無理やり持ち上げた。そのまま、ズイと顔を近づけ、太郎の顔を覗き込むと、

「……何じゃ、その目は!」

 と毒づくや、太郎の身体を思い切り突き飛ばす。
 太郎は堪らず、背中から雪の積もる地面に転がった。

「フン……!」

 雪と泥に塗れた太郎の有様を見て、ようやく溜飲が下がったのか、男は侮蔑に満ちた目で太郎を見下すと、瓢箪の酒を一気に呷る。
 そして、太郎に背を向けると、雪の舞い散るこの場の空気よりも冷たい声で、彼に向けて言い捨てた。

「……もう良い! 貴様はサッサと城へ戻って、戦後の始末をつけて参れ! ――そのまま、春になるまで、戻ってこなくて良いぞ!」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「う――うう……」

 信玄は、ゆっくりと目を開いた。その目に映ったのが、白雪が降りしきる真冬の夜空ではなく、見慣れた天井の木目である事に違和感を感じるが、

(……夢、か)

 先程まで己が居たのが、過去の夢の中だった事に気が付くと、信玄は小さく溜息を吐く。

(初陣の事を夢に見るのは、久しぶりだ……)

 信玄は、微かに眉を顰めた。初陣の時の顛末は、出来れば二度と思い出したくない、苦過ぎる記憶であったからだ。
 そう。
 それは、父から初めて、明白な……血の噴き出るような敵意を向けられた――。

「……」

 彼は、無意識に右手を左肩に伸ばす。
 夢の中で打たれた馬鞭の痛みが、まだそこに残っているような気がしたのだ。
 ――と、

「……お目覚めですか、兄上――」

 不意に声をかけられ、信玄はそこで初めて、己の寝所に、他の者が居る事に気が付いた。
 彼は首を廻らせて、周りを見回す。
 幾人もの見知った顔が、心配げな表情を浮かべて彼の周りに侍っているのが見えた。
 嫡子義信や、五男である盛信が並んで座っており、その後ろに控える形で、信玄の側室である琴に抱かれた子供たちの幼い顔も見える。
 その他にも、馬場信春や工藤昌秀や飯富昌景らが、心配顔をずらりと並べていた。
 信玄はその中から、もっとも枕元の近くに居て、自分に声をかけた男の隻眼の顔を見止めて、弱々しい声で呼ぶ。

「……む――次郎、か……」
「はい……」

 名を呼ばれた信繁は、静かに頷いた。

「早暁に一度お目覚めになった後、また眠られたとの事で、少々心配をしておりましたが……安心致しました」
「そうか……。心配を、かけたようだな……」

 信玄は微かに頷く。と、「失礼を致します」と、薬師が彼の手首に指を当て、脈を測りはじめた。
 そして、脈を取り終えると、今度は信玄の寝間着の袷を開き、胸の音を聞く。

「……ふむ」

 やがて、薬師は小さく頷いて、信玄の袷を整えた後、信繁たちに向き直った。

「……脈も落ち着いておられますし、顔色も良くなられた。……しかし、まだ胸の音に微かな濁りが聞こえますので、当分は安静になさるべきと存じまする」
「……そうか。御苦労であった」

 信繁は、薬師に頷き返して、下がらせた。
 すると信玄は、義信の手を借りて布団から身を起こすと、周囲の者たちの顔を見回しながら、掠れ声で言う。

「……皆も、騒がせてすまぬな。……この通り、儂はもう大丈夫じゃ。安心致せ」
「いやいや……大丈夫ではござりませぬぞ。薬師の申した通り、暫くは安静になされよ、太郎兄」

 そう、信玄に釘を刺したのは、弟の信廉だった。
 その言葉に、信繁と義信も大きく頷く。

「左様にござりまする。暫くの間は、まつりごとは某と太郎に任せ、ごゆるりとお過ごし下され」
「はっ。武田家の嫡男として、父上の代理を立派に務めてみせまする」

 大いに意気込む義信だったが、信玄は大きくかぶりを振った。

「い……いや! それには及ばぬ! 儂はもう大丈夫じゃ。ほれ、この通――」

 そう叫んで、勢いよく立ち上がろうとした信玄だったが、その途中で大きく体勢を崩し、布団の上に倒れ込んでしまった。

「お屋形様――!」

 慌てた家臣達によって、信玄は再び布団の中に押し込められる。

「だ――だから、儂はもう大丈夫だと……」
「ご無理をなされませぬな、兄上!」

 不満そうな声を上げる信玄を、信繁は厳しい声で一喝した。

「無茶をなされて、またぶり返しては、それこそ一大事です。……少なくとも、御典医の法印殿が甲斐へ戻られて、兄上のお身体を看て頂くまでは、決して床上げは罷りなりませぬぞ!」
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