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第一部七章 血縁
利と失
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「な……何じゃと?」
義信の口から紡がれた言葉に、信廉は顎が外れたかと思うぐらいに口をあんぐりと開いて絶句した。
「……」
一方の信繁は、口惜しそうに唇を噛んだが、『信玄が今川との手切れを明言した』事自体には驚いてはいなかった。
――昨年の冬、この奥間で、義信の守役である飯富虎昌と交わした話。
そして、今年の二月に、甲駿往還の道普請の件を直接問い質した時の、信玄の反応……。
その時に得た感触から、信繁は、兄の心の奥底に駿河を併呑せんとする野望が燻りつつある事を薄々感じ取り、秘かに危惧していたのだ。
「……杞憂であってくれれば、と思ってはいたが……」
信繁は、喉の奥から絞り出すような沈痛な声で呟くと、眉根を寄せた。
そして、彼と同じくらいに顔色を蒼白にした義信の方を見ると、微かに震えた低い声で尋ねる。
「して、太郎……。お屋形様は、具体的な日取りや算段を仰っていたか?」
「……いえ」
信繁の問いに、義信はフルフルと首を横に振った。
「――そういった、具体的なお話は伺っておりませぬ。……というか、『今川と手切れする』と伝えられた時点で、激昂した私とお屋形様とで激しい口論になってしまい、……その最中にお屋形様が激しく咳き込まれ――」
「駿河がどうのという話どころではなくなってしもうた――そういう事じゃな」
「……はい」
義信は、信廉の言葉に小さく頷く。
「そうか……」
信繁は、義信の話を聞くと口元に手をやり、指の腹で顎髭を撫でながら、左目を細めた。
「――では、何とも言えぬな……。今川攻めに関して、お屋形様がどこまでお考えなのか。……まだ、うっすらとした願望でしかないのか、それとも……今すぐにでも攻め込める程に、既に戦略を煮詰めておられるのか……」
彼は難しい表情を浮かべて、ジッと考え込む。
と、信廉が訝しげな顔で、フルフルと首を振りながら呟いた。
「……やはり、にわかには信じ難い話じゃ。……あのお屋形様が――」
「逍遙様は、私の言う事が信じられぬと?」
信廉の言葉尻を捉えて、キッと眦を上げ、鋭い口調で詰問する義信。
甥に睨まれた信廉は、辟易した様子で、
「あ――いや、すまぬ。決して、そうではないが……」
と、首を竦める。
だが、腑に落ちぬといった顔はそのままで、重ねて義信に尋ねる。
「そうじゃ。太郎――お屋形様は、お主と嶺殿については、何と仰っておったのじゃ?」
「それは――」
義信は、信廉の問いに一瞬言葉を詰まらせ、それから顔を俯けながら答える。
「……嶺とは離縁せよ、と……」
「……離縁……か」
義信の答えに、信廉は思わず言葉を失う。
と、それまで瞑目して考え込んでいた信繁が、薄く目を開く。
「……やはり、解せぬな」
「は――?」
「――解せぬ、とは……一体?」
信繁の口から零れた言葉に、義信と信廉は瞠目する。
そのふたりに向けて小さく頷くと、信繁は言葉を継いだ。
「やはり、どう考えても、今川を敵に回す利と失が釣り合わぬ。……そのくらいの算段は、兄上ほどの方であれば十分にお解りになるはずなのだが……」
「……お解りになっていない――という事は……?」
「有り得ぬ」
おずおずと口を挟んだ信廉の言葉を、信繁はバッサリと切り捨てる。
「もし、お屋形様が本気で今川攻めが武田家の利になるとお思いならば、先ずこの儂に話をなさるはずだ。――少なくとも、今まではそうだった」
「成程……」
信繁の言葉に、義信は頷いた。
「叔父上に御相談なされても、絶対に反対される。――何故ならば、今川攻めが利に適うものでは無いから。父上ご自身もそれが分かっておられていて、だからこそ、ご自身の心の内を叔父上には伏せようとしている……そういう事でござるな」
「うむ……」
「で……ですが! では、何故――」
話の流れが読めず、信廉は疑問の声を上げた。
「ならば何故、ご自身でも利の薄い事がお解りになっている今川攻めを、これ程までに推し進めようとなされているのであろうか? 副将であり、血を分けた弟である次郎兄にも秘すようにしてまで――?」
「……そこが解せぬ、というのだ」
信繁は、信廉の上げた疑問の声に大きく頷く。そして、腕組みをすると、大きく息を吐いた。
「……どうも、この件には、何やら裏で蠢くものを感じてならぬ。お屋形様を唆し、意のままに操ろうと画策しておる存在をな――」
「唆す……? あのお屋形様を……ですか?」
信繁の言葉に、信じられぬという表情を浮かべる信廉。
義信も、目を丸くしながら首を傾げる。
「あの父上を操るなど……そんな事が出来うる者が、家中におるとは――信じ難い事でありますが……」
「……いずれにせよ、詳しく調べてみねばならぬな、これは」
そう呟くと、信繁は顔を上げ、信廉と義信の顔を見回しながら、静かな――それでいて断固とした口調で言った。
「――この件は、儂が預かった。お屋形様の周りや、他国の動きを、儂なりに探ってみる事としよう」
そして、表情を引き締め、張り詰めた声で、弟と甥に向けて告げる。
「ふたりとも……今宵話した事は、呉々も他言無用だ。……良いな」
義信の口から紡がれた言葉に、信廉は顎が外れたかと思うぐらいに口をあんぐりと開いて絶句した。
「……」
一方の信繁は、口惜しそうに唇を噛んだが、『信玄が今川との手切れを明言した』事自体には驚いてはいなかった。
――昨年の冬、この奥間で、義信の守役である飯富虎昌と交わした話。
そして、今年の二月に、甲駿往還の道普請の件を直接問い質した時の、信玄の反応……。
その時に得た感触から、信繁は、兄の心の奥底に駿河を併呑せんとする野望が燻りつつある事を薄々感じ取り、秘かに危惧していたのだ。
「……杞憂であってくれれば、と思ってはいたが……」
信繁は、喉の奥から絞り出すような沈痛な声で呟くと、眉根を寄せた。
そして、彼と同じくらいに顔色を蒼白にした義信の方を見ると、微かに震えた低い声で尋ねる。
「して、太郎……。お屋形様は、具体的な日取りや算段を仰っていたか?」
「……いえ」
信繁の問いに、義信はフルフルと首を横に振った。
「――そういった、具体的なお話は伺っておりませぬ。……というか、『今川と手切れする』と伝えられた時点で、激昂した私とお屋形様とで激しい口論になってしまい、……その最中にお屋形様が激しく咳き込まれ――」
「駿河がどうのという話どころではなくなってしもうた――そういう事じゃな」
「……はい」
義信は、信廉の言葉に小さく頷く。
「そうか……」
信繁は、義信の話を聞くと口元に手をやり、指の腹で顎髭を撫でながら、左目を細めた。
「――では、何とも言えぬな……。今川攻めに関して、お屋形様がどこまでお考えなのか。……まだ、うっすらとした願望でしかないのか、それとも……今すぐにでも攻め込める程に、既に戦略を煮詰めておられるのか……」
彼は難しい表情を浮かべて、ジッと考え込む。
と、信廉が訝しげな顔で、フルフルと首を振りながら呟いた。
「……やはり、にわかには信じ難い話じゃ。……あのお屋形様が――」
「逍遙様は、私の言う事が信じられぬと?」
信廉の言葉尻を捉えて、キッと眦を上げ、鋭い口調で詰問する義信。
甥に睨まれた信廉は、辟易した様子で、
「あ――いや、すまぬ。決して、そうではないが……」
と、首を竦める。
だが、腑に落ちぬといった顔はそのままで、重ねて義信に尋ねる。
「そうじゃ。太郎――お屋形様は、お主と嶺殿については、何と仰っておったのじゃ?」
「それは――」
義信は、信廉の問いに一瞬言葉を詰まらせ、それから顔を俯けながら答える。
「……嶺とは離縁せよ、と……」
「……離縁……か」
義信の答えに、信廉は思わず言葉を失う。
と、それまで瞑目して考え込んでいた信繁が、薄く目を開く。
「……やはり、解せぬな」
「は――?」
「――解せぬ、とは……一体?」
信繁の口から零れた言葉に、義信と信廉は瞠目する。
そのふたりに向けて小さく頷くと、信繁は言葉を継いだ。
「やはり、どう考えても、今川を敵に回す利と失が釣り合わぬ。……そのくらいの算段は、兄上ほどの方であれば十分にお解りになるはずなのだが……」
「……お解りになっていない――という事は……?」
「有り得ぬ」
おずおずと口を挟んだ信廉の言葉を、信繁はバッサリと切り捨てる。
「もし、お屋形様が本気で今川攻めが武田家の利になるとお思いならば、先ずこの儂に話をなさるはずだ。――少なくとも、今まではそうだった」
「成程……」
信繁の言葉に、義信は頷いた。
「叔父上に御相談なされても、絶対に反対される。――何故ならば、今川攻めが利に適うものでは無いから。父上ご自身もそれが分かっておられていて、だからこそ、ご自身の心の内を叔父上には伏せようとしている……そういう事でござるな」
「うむ……」
「で……ですが! では、何故――」
話の流れが読めず、信廉は疑問の声を上げた。
「ならば何故、ご自身でも利の薄い事がお解りになっている今川攻めを、これ程までに推し進めようとなされているのであろうか? 副将であり、血を分けた弟である次郎兄にも秘すようにしてまで――?」
「……そこが解せぬ、というのだ」
信繁は、信廉の上げた疑問の声に大きく頷く。そして、腕組みをすると、大きく息を吐いた。
「……どうも、この件には、何やら裏で蠢くものを感じてならぬ。お屋形様を唆し、意のままに操ろうと画策しておる存在をな――」
「唆す……? あのお屋形様を……ですか?」
信繁の言葉に、信じられぬという表情を浮かべる信廉。
義信も、目を丸くしながら首を傾げる。
「あの父上を操るなど……そんな事が出来うる者が、家中におるとは――信じ難い事でありますが……」
「……いずれにせよ、詳しく調べてみねばならぬな、これは」
そう呟くと、信繁は顔を上げ、信廉と義信の顔を見回しながら、静かな――それでいて断固とした口調で言った。
「――この件は、儂が預かった。お屋形様の周りや、他国の動きを、儂なりに探ってみる事としよう」
そして、表情を引き締め、張り詰めた声で、弟と甥に向けて告げる。
「ふたりとも……今宵話した事は、呉々も他言無用だ。……良いな」
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