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第一部七章 血縁

深更と客人

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 「……止みませぬな、雨」

 描きかけの絵から顔を上げ、夜闇の中で濡れそぼる庭木に目を遣りつつ、武田逍遙軒信廉は呟いた。
 その声に、彼の前で背筋を伸ばして座っていた信繁も、首を捻って庭を見た。

「――うむ。最近は晴れ続きだったから、丁度良い恵みだ。民は皆、喜んでおる事であろう」
「確かに」

 信繁の言葉に、信廉も大きく頷いた。
 と、

「……なあ、逍遙。そんな事よりも――」

 首を回してコキリと鳴らしながら、信繁は困り顔で信廉に向かって言う。

「儂は、一体何時まで、このまま座っておらねばならぬのだ? そろそろ、身体が固まって、石仏にでもなってしまいそうなのだが……」
「今少し、我慢していて下さいませ、次郎兄。もう少しで、仕上がります故」

 そう答え、苦笑いを浮かべつつ紙に絵筆を走らせる信廉に、渋い顔を向ける信繁。

「のう、逍遙……。儂は別に、似姿などを描いてもらわずとも――」
「いやいや、母上や太郎兄の似姿は、既に描かせて頂きましたからな。あとは次郎兄だけなのです。何とぞ、ご寛恕下され。――ほれ、その様な渋い顔をなさらず。それでは、仏頂面の似姿になってしまいますぞ」

 信廉は、すました顔で答えると、信繁の渋面を気にも留めず、一心不乱に筆を動かし続ける。
 日頃は、鷹揚な性格で、悪く言えばいい加減で物事に無頓着な信廉おとうとだが、絵を描く時だけは人が変わる。自他問わず、一切の妥協を赦さないのだ。
 絵を描いている時に関しては、面相だけでは無く性格まで、長兄である信玄にそっくりになる。
 そうなった弟には、信繁あにであろうが決して逆らえない。……信繁は、小さな溜息を吐くと、観念して顔を引き締めた。
 ――と、その時、

「……主様、逍遙軒様」

 襖の向こうから、桔梗の声がした。
 信繁は、訝しげな表情を浮かべて、襖の向こうに声をかける。

「……どうした、桔梗」
「――お寛ぎのところ、失礼致します。ただ今、宜しいでしょうか?」
「……“お寛ぎ”か……」

 信繁は、桔梗の言葉に、思わず苦笑した。

「――逍遙の道楽に付き合って、かれこれ一刻以上、ずっと同じ態勢を強いられておる。全く寛いではおらぬから、遠慮無く入って良いぞ」
「“道楽”とは、随分と辛辣なお言葉ですなぁ、次郎兄。……義姉上あねうえ、如何ですかな? まだ下書きですが……」
「まあ……とてもお上手ですわ、逍遙軒様」

 信廉に絵を見せられた桔梗は、目を丸くした。

「……主様にそっくり……まるで生きていらっしゃるよう――」
「おい……それではまるで、儂が死んでしもうたような口ぶりではないか?」
「あ……申し訳ございませぬ、主様……!」

 眉間に皺を寄せながらの信繁の文句に、慌てて深々と頭を下げる桔梗。
 
「あ、いや、ただの戯言じゃ。真に受けるな……」

 信繁は、恐縮する桔梗に、慌てて首を横に振った。

「ハッハッハッ! 確かに、日頃真面目な次郎兄が冗談を仰っても、冗談には聞こえませぬな!」
「――お主は逆に、いつも巫山戯ふざけすぎだがな……」

 愉快そうに大笑する信廉をジロリと睨む信繁。
 気を取り直すように、ゴホンと咳払いをすると、改めて桔梗に尋ねた。

「ところで――、どうかしたのか、桔梗?」
「あ――、そういえば……」

 信繁の言葉にハッとして、桔梗は頷いた。

「あの……門に詰めている者からの報せで、ご来客が……」
「来客? ――この時間にか?」

 信繁は驚き、思わず信廉と顔を見合わせる。

「もう、亥の刻 (午後十時)を過ぎた頃であろう。……一体、誰が?」
「……ひょっとして、我が屋敷からの使いでしょうかのう? 私に、『早く帰ってこい』と伝えに――」

 信廉が、首を竦めながら言った。彼は、大の恐妻家である。
 だが、桔梗は小さくかぶりを振った。

「いえ……逍遙様のお屋敷からでは無いようです。ただただ、『典厩様にお会いしたい』と仰るばかりで……」
「……どの様な風体の者だ?」

 やにわに表情を引き締め、信繁は桔梗に尋ねた。
 だが、桔梗は困った顔で、「それが……」と口ごもった。
 その、はっきりしない様子に、信繁は首を傾げる。

「……どうした?」
「それが……目深に笠を被ったままとの事で、ご面相は判然としないようで……。声色から、若い殿方だという事くらいしか……」
「……むう――」
「――どうなされますか、次郎兄?」

 手にしていた筆を置き、信廉が兄に訊いた。

「何分、時は既に深更にござる。家人に『主は既におやすみになられた』と伝えさせて、追い返しても構わぬと存じまするが……」
「…………いや」

 信繁は、信廉の提案に対し、首を横に振った。

「その者が何者かは未だ分からぬが……。だが、この様な雨の降りしきる夜更けに、わざわざ訪ねて来たという事は、余程の仔細があるのであろう」

 そう、自分に言い聞かせるかのように言うと、信繁は桔梗に頷いた。

「……分かった。会ってやるとしよう。――桔梗。その者を玄関まで連れてくるよう、門の者に伝えよ。ただし、決して警戒は怠らずに、とな」
「はい。畏まりました」

 信繁の指示にコクンと頷いた桔梗が、部屋から出ていくのを待って、信繁も腰を上げた。
 そして、信廉の方を見ると、顎をしゃくってみせた。

「逍遙。せっかくだから、お主も一緒に来い。……念の為、太刀は携えてな」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 信繁が、信廉を連れて屋敷の玄関に行くと、ちょうど、客人が上がり框に腰を下ろして、濡れそぼった草鞋を脱いでいる所だった。
 彼が纏っている蓑からは、絶えずポタポタと雫が垂れ、玄関の土間に小さな水たまりを作っている。
 草履を脱いだ客人は、家人から手渡された手拭いで濡れた足を拭き、信繁らの方へと振り返った。
 ――桔梗が言っていた通り、彼は雨でぐっしょりと濡れた笠を目深に被っていて、その容貌は判然としない。

「……これ! 武田典厩信繁様が御前なるぞ! 早う笠を取れ!」

 信繁の後方に控えていた信廉が、警戒を露にしながら、彼を守るように一歩踏み出した。
 すると――、

「――ッ!」

 信廉の顔を見た瞬間、客人がギョッとしたように身体を戦慄かせるのが分かった。

「ま、まさか……ち――お屋形様……ッ?」
(……! もしや……)

 その客人の反応と言葉に、信繁はピンときた。
 彼は、信廉の肩をポンと叩き、

「……良い、。大丈夫だ」

 と、声をかけ、客人を囲むように控えていた家人達にも、持ち場へ戻るように命じた。
 心配顔をしながらも、主の命に素直に従い、家人達が去っていき――そして玄関には、客人と信繁、そして信廉の三人だけが残った。
 それを確認すると、客人は安堵の息を吐き――信繁に向かって深々と頭を下げた。

「……お人払い、かたじけのうございます、
「――やはり、そうか」
「ん? ……『叔父上』じゃと? では、お主は――」

 小さく頷く信繁と、事態が良く呑み込めずに目を白黒させる信廉の前で、客人は顎紐を緩め、被っていた笠を脱いだ。

「あ――!」

 彼の顔を目の当たりにして、驚きで目を丸くする信廉。
 そんな信廉に向かって小さく頭を下げると、信繁の方に向き直り、彼らの甥であるは、改めて深く一礼した。

「斯様な夜更けにお伺いしまして、申し訳ございませぬ、叔父上。……どうしても内密に御相談致したい儀があり、罷り越し申した」
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