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第一部六章 軋轢
会談と昼餉
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信繁と諏訪四郎勝頼の顔合わせは、勝頼と信豊が、それぞれ高遠と小諸に向けて発つ前々日に実現した。
午の刻 (午前十二時)頃に、僅かな供回りの者のみを連れて、信繁の屋敷を訪れた勝頼は、門前で昌幸と信豊に丁重に出迎えられた。
「典厩様。おふたりを、座敷へとお通し致しました」
自室で書状を認めていた信繁は、襖を開けて勝頼の来訪を告げる昌幸の声に、胡乱げな表情を浮かべて顔を上げた。
「……ふたり? 四郎だけではないのか?」
「は――左様にござります」
信繁の問いに、昌幸は頷いた。
「四郎様は、弟君の五郎様をお連れになっております」
「何……五郎もか?」
五郎とは、信玄の五男・五郎盛信の事である。つまり、勝頼とは腹違いの兄弟にあたる。
彼はまだ齢七歳ではあるが、四郎と同じ日に元服の儀を行い、信濃の名族である仁科氏の名跡を継いだ、歴とした仁科家の当主である。
「四郎様にお伺いしました所、五郎様が一緒に行くと駄々を捏ね――強くご要望なされたとか……」
「泣く子と地頭には勝てぬというヤツか」
「その様で。――ただ、傍目で見ていても、おふたりの仲は大層睦まじいようでございますな。同じ腹から出てきた真田三兄弟よりも、仲は宜しいんじゃないでしょうか」
昌幸はそう言うと、思わず苦笑を漏らした。
信繁は、書状に仕上げの花押を捺すと、着ていた直垂の乱れを調えながら立ち上がった。
「さて……参ろうか」
そう呟くように言うと、微かに緊張の面持ちを見せながら自室を出る。その後ろを、昌幸が静かに続いた。
◆ ◆ ◆ ◆
信繁が座敷に入ると、上座に向かって平伏するふたりの背中と、その傍らに座る信豊の頭が見えた。
上座の円座に腰を下ろした信繁は、軽く咳払いをすると、目の前のふたりに向かって静かに声をかける。
「……四郎、そして五郎。まだ暑い中、我が屋敷へ、よくぞおいで下さった。どうぞ、頭を上げられよ」
「「はっ」」
信繁の言葉に若々しい声と幼い声が同時に応え、おずおずといった様子で、ふたりが面を上げた。
「――典厩様。直接お目にかかるのは初めてとなり申す。……諏訪四郎勝頼にござります」
「に……仁科五郎盛信に、ございます!」
落ち着いた若者の声と、緊張で強張った童の声が、同時に信繁にかけられた。
信繁は、思わず口元を綻ばせながら、鷹揚に頷く。
「――まあ、おふたりとも、そうしゃちほこばらずとも良い。どうぞ、寛がれよ」
「然様でござるぞ、四郎殿、五郎殿。父上の事は、気安く“叔父上”とお呼び下され」
信繁の言葉を補うように、信豊もふたりに声をかけた。
その穏やかな反応に、ふたりもホッとした表情を浮かべ、やや相好を崩す。
勝頼と盛信は、顔を見合わせると小さく頷き合い、まず勝頼が口を開いた。
「――では、お言葉に甘えまして、叔父上とお呼び致します。――叔父上、今までキチンとご挨拶もせず、大変失礼をば致しました」
「良い。そなたらの元服の儀が終わってすぐ、箕輪攻めの準備に入ってしまったからな。お互い、暢気に挨拶する暇も無かった。詫びるには及ばぬ」
勝頼の詫び言に、信繁はゆるゆると首を振りながら言うと、襖の方に向けてポンポンと手を叩く。
すると、静かに襖が開き、彼の妻の桔梗と娘の綾が侍女達と一緒になって、料理の載った膳を運んできた。
「それよりも、もう昼時だ。おふたりとも、腹は減っておるかの? 是非とも、我が奥 (妻)が腕によりをかけて拵えた昼餉を食してくれ。自慢ではないが、美味いぞ」
「まあ……主様、そんな事をおっしゃって……」
信繁の言葉に、思わず頬を赤らめる桔梗。
「四郎様と五郎様のお口に合えば宜しいのですが……」
彼女は困り笑いを浮かべながら、テキパキと四人の前に膳を並べる。
「はい! ごろうさま、どうぞっ!」
綾も、ニコニコと太陽のような笑顔を見せながら、母を助けて配膳を手伝っている。
「これは――忝うございます、叔母上」
「あ――ありがとうございます」
勝頼と盛信も、思わず顔を綻ばせながら、ふたりに向けて頭を下げた。
和やかな会見の場に、食欲を誘う香りが仄かに漂う。
――ぐぅ~。
「――ん?」
――と、誰かの腹の音が、その場に居合わせた者たちの鼓膜を揺らした。
皆は「一体、誰だ?」と、訝しげな表情を浮かべてキョロキョロと周囲を見回す。
そして、
「…………失礼仕りました」
と言って、顔を真っ赤にしたのは――信豊だった。
「……ぷ、ぷはははははっ! お前か、六郎次郎!」
信繁の声を皮切りにして、座敷の間が爆笑に包まれた。信繁も、勝頼も、盛信も、大きな口を開けて爆笑している。
桔梗でさえ、袖に手を当てて、必死で笑いを圧し殺していた。
――ただひとり、
「もうっ! にいさまのくいしんぼうっ! しろうさまとごろうさまのまえで、はずかしいですよっ!」
綾だけは、その小さな頬をパンパンに膨らませて、カンカンに怒っていた。
午の刻 (午前十二時)頃に、僅かな供回りの者のみを連れて、信繁の屋敷を訪れた勝頼は、門前で昌幸と信豊に丁重に出迎えられた。
「典厩様。おふたりを、座敷へとお通し致しました」
自室で書状を認めていた信繁は、襖を開けて勝頼の来訪を告げる昌幸の声に、胡乱げな表情を浮かべて顔を上げた。
「……ふたり? 四郎だけではないのか?」
「は――左様にござります」
信繁の問いに、昌幸は頷いた。
「四郎様は、弟君の五郎様をお連れになっております」
「何……五郎もか?」
五郎とは、信玄の五男・五郎盛信の事である。つまり、勝頼とは腹違いの兄弟にあたる。
彼はまだ齢七歳ではあるが、四郎と同じ日に元服の儀を行い、信濃の名族である仁科氏の名跡を継いだ、歴とした仁科家の当主である。
「四郎様にお伺いしました所、五郎様が一緒に行くと駄々を捏ね――強くご要望なされたとか……」
「泣く子と地頭には勝てぬというヤツか」
「その様で。――ただ、傍目で見ていても、おふたりの仲は大層睦まじいようでございますな。同じ腹から出てきた真田三兄弟よりも、仲は宜しいんじゃないでしょうか」
昌幸はそう言うと、思わず苦笑を漏らした。
信繁は、書状に仕上げの花押を捺すと、着ていた直垂の乱れを調えながら立ち上がった。
「さて……参ろうか」
そう呟くように言うと、微かに緊張の面持ちを見せながら自室を出る。その後ろを、昌幸が静かに続いた。
◆ ◆ ◆ ◆
信繁が座敷に入ると、上座に向かって平伏するふたりの背中と、その傍らに座る信豊の頭が見えた。
上座の円座に腰を下ろした信繁は、軽く咳払いをすると、目の前のふたりに向かって静かに声をかける。
「……四郎、そして五郎。まだ暑い中、我が屋敷へ、よくぞおいで下さった。どうぞ、頭を上げられよ」
「「はっ」」
信繁の言葉に若々しい声と幼い声が同時に応え、おずおずといった様子で、ふたりが面を上げた。
「――典厩様。直接お目にかかるのは初めてとなり申す。……諏訪四郎勝頼にござります」
「に……仁科五郎盛信に、ございます!」
落ち着いた若者の声と、緊張で強張った童の声が、同時に信繁にかけられた。
信繁は、思わず口元を綻ばせながら、鷹揚に頷く。
「――まあ、おふたりとも、そうしゃちほこばらずとも良い。どうぞ、寛がれよ」
「然様でござるぞ、四郎殿、五郎殿。父上の事は、気安く“叔父上”とお呼び下され」
信繁の言葉を補うように、信豊もふたりに声をかけた。
その穏やかな反応に、ふたりもホッとした表情を浮かべ、やや相好を崩す。
勝頼と盛信は、顔を見合わせると小さく頷き合い、まず勝頼が口を開いた。
「――では、お言葉に甘えまして、叔父上とお呼び致します。――叔父上、今までキチンとご挨拶もせず、大変失礼をば致しました」
「良い。そなたらの元服の儀が終わってすぐ、箕輪攻めの準備に入ってしまったからな。お互い、暢気に挨拶する暇も無かった。詫びるには及ばぬ」
勝頼の詫び言に、信繁はゆるゆると首を振りながら言うと、襖の方に向けてポンポンと手を叩く。
すると、静かに襖が開き、彼の妻の桔梗と娘の綾が侍女達と一緒になって、料理の載った膳を運んできた。
「それよりも、もう昼時だ。おふたりとも、腹は減っておるかの? 是非とも、我が奥 (妻)が腕によりをかけて拵えた昼餉を食してくれ。自慢ではないが、美味いぞ」
「まあ……主様、そんな事をおっしゃって……」
信繁の言葉に、思わず頬を赤らめる桔梗。
「四郎様と五郎様のお口に合えば宜しいのですが……」
彼女は困り笑いを浮かべながら、テキパキと四人の前に膳を並べる。
「はい! ごろうさま、どうぞっ!」
綾も、ニコニコと太陽のような笑顔を見せながら、母を助けて配膳を手伝っている。
「これは――忝うございます、叔母上」
「あ――ありがとうございます」
勝頼と盛信も、思わず顔を綻ばせながら、ふたりに向けて頭を下げた。
和やかな会見の場に、食欲を誘う香りが仄かに漂う。
――ぐぅ~。
「――ん?」
――と、誰かの腹の音が、その場に居合わせた者たちの鼓膜を揺らした。
皆は「一体、誰だ?」と、訝しげな表情を浮かべてキョロキョロと周囲を見回す。
そして、
「…………失礼仕りました」
と言って、顔を真っ赤にしたのは――信豊だった。
「……ぷ、ぷはははははっ! お前か、六郎次郎!」
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桔梗でさえ、袖に手を当てて、必死で笑いを圧し殺していた。
――ただひとり、
「もうっ! にいさまのくいしんぼうっ! しろうさまとごろうさまのまえで、はずかしいですよっ!」
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