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第一部四章 会戦

雨宮と広瀬

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 「駿河! 駿河!」

 義清を退出させた輝虎は、やにわに声を張り上げた。
 やがて、小走りに廊下を走る足音が近付いてきて、白髯を蓄えた老武者が現れ、輝虎の前で片膝をついた。

「……お呼びで御座りまするか、殿」
「おう」

 白髯の老人――宇佐美駿河守定満うさみするがのかみさだみつの嗄れた声に、庭木に目を向けたまま、輝虎は小さく頷いた。
 彼は、琵琶の弦を軽く爪弾きながら、彼に問う。

「……村上がしくじった事は解ったが、その他の戦況はどうなっておる?」
「――は」

 輝虎の問いに、定満は一瞬逡巡する様子を見せたが、小さく頷くと言葉を続けた。

「……雨宮の渡しと同時に、広瀬の渡しにも直江大和守 (景綱)殿が率いる兵三千を送り、攻めかかりましたが……敵方の抵抗激しく、占拠には到りませなんだ……」
「――何だ、緒戦は完敗ではないか」
「……面目次第も御座いませぬ」

 輝虎の辛辣な言葉に、深々と頭を下げる定満。輝虎は、彼の白髪頭を一瞥すると、愉快そうにくっくっと笑った。

「おいおい、珍しいな。貴様がそうも殊勝に頭を下げるなど。――というか、面目次第も無いのは、寧ろ余の方だ」

 そう言いながら、彼は傍らの盃を手に取ると、一気に呷った。

「――本来ならば、余が自ら陣頭に立って軍を指揮せねばならぬところを、こんな後方で一日寝込んでおったのだからな。……余が万全であれば、少なくとも、ひとつの渡しは獲れたであろうに。――あたら命を散らした兵たちには、悪い事をした」
「いえ……」
「……まったく、難儀な身体よの」

 輝虎は、その端正な顔を僅かに顰めながら、下腹を擦った。

「よりによって今日とは……こんな時に限って、日付通りに来てしまうとはな……」
「致し方御座いませぬな。こればかりは……」

 悔しげに唸る輝虎に、定満はゆっくりとかぶりを振った。

「明日は広瀬の方に、より重点的に兵を出します。海津城を囲む為……或いは、葛尾まで攻め上る為には、千曲川を渡る途筋みちすじがどうしても必要ですからな」
「……雨宮は無理か?」
「容易くはござらぬな」

 輝虎の問いに、定満はすかさず首を振る。

「広瀬も雨宮も、敵方の兵数は共に二千そこそこではありますが、雨宮の方には、あの飯富虎昌の赤備え衆が居りまする。もちろん、我が方が赤備え衆に後れを取るなどとは毛ほども思ってはおりませぬが、正直、打ち破るのには少々骨が折れるかと」
「ふむ……」
「それに対し、広瀬の二千を率いるのは、若輩の武田信豊のみの模様」
「武田信豊? ……知らぬ名だな。というか、広瀬の渡しの守将は、太郎義信ではなかったのか?」

 定満の言葉に、訝しげな表情を浮かべる輝虎。定満は小さく頷いて、言葉を継いだ。

「本日、兵を指揮していた総大将の武田義信は、夕刻に海津城に入ったとの報せが届いております。その後を継いで、現在広瀬を守っているのが、信豊との由」
「……だから、その“信豊”というのは何者だと――」 
「武田信豊とは、あの武田左馬助信繁のせがれにござる。まだ、十六・七の筈です」
「――ほほう。左馬助の倅か」

 “武田左馬助信繁”の名を聞いた輝虎は、眉を上げた。そして、定満の方に目を向けると、目を輝かせながら訊いた。

「その信豊とかいう男は、父親に似て優れた将なのか? その若さで、総大将の後を継いで広瀬の渡しの守備を任されるとは――」
「さあ……どうでありましょうか」

 武田信豊という男に興味津々な主の様子に、思わず苦笑いを浮かべながら定満は答える。

「何分、昨年に初陣を果たしたばかり。それも、小荷駄隊の一隊を任されただけで、前線で格別の働きがあった訳でも無いようですし……。将として如何どうなのかは、正直まだ、海のものとも山のものとも解りませぬ」
「ふむ……そうなのか」
「……随分、彼の者にご興味をお持ちのようですな、殿。――何故なにゆえに?」

 首を傾げながら尋ねる定満に、輝虎はニヤリと笑って応えた。

「いや……、その武田信豊とかいう青二才に対しては、さほどの興味はない。――興味があるのは、その親父の方だ」
「……武田左馬助信繁に、ですか」
「ああ」

 輝虎は、小さく頷くと、その口元を僅かに綻ばせながら言葉を継いだ。

「余は、なのだよ。――武田信繁という男の事がな」
「は? ――好き……ですか?」
「変な意味に取るなよ、駿河」

 思いもかけぬ答えに、思わず目を点にした定満を見て、輝虎は思わず吹き出した。

「あの男の、気性というか生き様というか……好きというのは、そういう所がという意味だ」
「はあ……。それは例えば、どういった所がでしょうか?」
「……そうさな」

 定満の言葉に、輝虎は考え込みながら、盃に酒を注ぐ。

「三年前の八幡原。己を楯にして、我らの猛襲から本陣を――兄を守ろうと戦う様は、さながら鬼神の如し……。敵ながら天晴れな働きであった」
「――確かに、あの隊の奮戦が無ければ、妻女山からの別働隊が間に合う事も無く、或いは信玄入道の首を取る事も可能であったやもしれませぬな」
「うむ」

 輝虎は、定満が言う事に軽く頷くと、盃を呷った。

「その上、あの武田信繁という男は、長幼の序をきっちりと守り、常に兄を立て、忠実に従い、輔けておる。この戦国の世においては、げに珍しき男だ」

 そう言いながら、輝虎は口元に微かな微笑を浮かべた。が、彼の表情は一瞬にして、苦々しげに歪んだ。

「――惜しむべくは、その天晴れな男が、よりにもよって、あの生臭坊主の弟だという事よ」
「……」
「まあ良い」

 やにわに悋気を露わにした輝虎に対して、かける言葉に窮した様子の定満を尻目に、輝虎は琵琶を爪弾きながら言った。

「信玄を誘き出すつもりが、まんまと裏をかかれてしまったが、その代わりに、あの武田信繁めがこの地に居るというのは、正に僥倖」
「は。今度こそ、引導を渡す好機。如何に天晴れな男とはいえど、敵には変わりありませぬ。敵である以上、速やかに討ち果たさねばなりませぬ」
「……そうだな」
「――殿?」
「ん?」
「あ……いえ」

 輝虎の様子に、定満は何か言いかけたが、喉元でその言葉を押し殺した様子だった。その代わりに、彼は訝しげな表情を浮かべて、言葉を継ぐ。

「ここまで、正直あまり芳しくない戦況ではありますが、随分と嬉しそうですな……」
「嬉しいぞ? それが何かおかしいか?」
「……」

 あっけらかんとした顔で素直に頷く輝虎に、二の句も継げなくなる定満。
 そんな老将に、輝虎はニコリと微笑みかけた。月の青白い光に照らし出された彼の横顔は、まるで神話時代の月読命ツクヨミの如き、妖艶な美しさを湛えていた。
 彼は、恍惚とした貌で、呟くように言った。

「素晴らしい男と、戦場で相まみえ、互いの命を賭けて戦い合う。――これこそが、戦場の醍醐味というものよ」
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