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第一部三章 出陣

書状と道普請

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 信繁は、昌幸の進言を採り、佐助に仕事を任せた。
 仕事とは、言うまでもなく、嫡男義信の妻・嶺の元に届いた書状に記された、駿州往還の道普請の真偽を探る事だ。

「承知した」

 信繁の命を受けた佐助は、そう一言だけ残すと、音も無くその場から消えた。
 やや不安げな表情を浮かべる信繁に、昌幸は「ご心配には及びませぬ」と、涼しい顔で言うのだった。

  ◆ ◆ ◆ ◆

 それから一ヶ月程経った、二月も半ばを過ぎた頃。
 藍色の直垂を身に着た信繁は、館の濡れ縁に座りながら、ぼんやりと庭に植えられた梅の木々を見ていた。厳しい寒さも和らぎ、躑躅ヶ崎館に植えられた梅の木々は、その枝につけた蕾を綻ばせつつある。
 と、

「お待たせ致しました、典厩様」

 そんな彼に、信玄の近習が声をかけてきた。我に返った信繁は、姿勢を正して、近習の方に向き直る。

「お屋形様は、もうじきお見えになります。どうぞ、座敷にてお待ち下され」
「うむ」

 信繁は、近習に頷くと、襖を開けて、薄暗い部屋に入る。初春の真昼時とはいえ、薄曇りで陽の光は弱い。座敷の中も薄暗く、吐いた息が白くなるほどに冷えていた。
 (火が欲しいな……)と、心の中で呟きながら、信繁は下座に腰を下ろす。
 そのまま、四半刻ほど経っただろうか。ようやく、廊下の向こうから近付いてくる足音が聞こえてきた。
 信繁は、すっかりかじかみ強張った身体を解すように震わせると、両拳を畳に突き、深々と頭を下げる。
 スーッと、襖が桟を滑る音がした。
 そして、聞き慣れた嗄れ声が信繁にかけられる。

「おう、待たせたな、典厩。……にしても、この部屋は寒いのう!」

 そう言うや、

「おい! 火鉢を持ってきて火を熾せ! 早うせい!」

 と、廊下の向こうに向かって怒鳴るのが聞こえた。

「……まったく、気が利かぬ奴らじゃ」

 そう、不機嫌そうなぼやき声をこぼしながら、声の主が上座に座った気配を感じた。

「――すまぬな、典厩よ。面を上げよ」
「はッ」

 信玄の声に促されて、信繁は顔を上げる。対面に、兄の、隈が浮かんだ青白い顔があった。その顔は、以前に会った時よりも、幾分か窶れて見えた。

「……お加減が優れませぬのか、兄上?」

 そう、思わず信繁は声をかけていた。その言葉を聞いた信玄は、「うん?」と唸ると、ぎこちない微笑みを浮かべて答える。

「……なに、些か夜更かしをし過ぎて、寝不足なだけじゃ。片付けなければならぬ案件があった故、な」

 そう言うと、信玄は拳を口に当てて、乾いた咳をひとつした。
 その様子に、信繁の表情が曇る。

「……兄上、その咳は……」
「……うん? まあ、季節の変わり目だからな……風邪をひいたらしい。法印 (板坂。信玄の主治医)から渡された薬を飲んでおる故、じきに咳も治まろう」
「……左様でござるか。ご自愛下され――」

 信繁は、そう答えたが、心の中の漠然とした不安は拭いきれなかった。信玄の咳が、ただの風邪のそれとは少し違うような気がしたのだ。
 だが、信繁の思考は、火鉢を抱えた近習ふたりが部屋に入ってきたせいで途切れた。
 信玄と信繁の間に置かれた火鉢に、ふたりの近習が苦労して火を熾すと、部屋の中は仄かに暖かくなる。それを確認すると、近習たちは一礼して部屋を辞した。
 信玄はまたひとつ咳をすると、火鉢の向こうの信繁をジッと見ながら口を開いた。

「で――信繁よ。火急の用事とは、一体何じゃ?」
「はっ……」

 信繁は、信玄の問いかけに頷くと、懐から一通の書状を取り出した。

「……実は、先日、駿河の朝比奈備中守殿から、某宛てに書状が参りました。――それが、これで御座る」
「……駿河の朝比奈から――?」

 信玄は、僅かに眉を顰めた。
 駿河の朝比奈備中守泰朝は、今川家の重臣のひとりである。先代今川義元が桶狭間にて横死した後、今川家の政務を執り仕切っている。いわば、義元時代に“黒衣の軍師”と異名を取った怪僧・太原雪斎の跡を継いだ形である。
 その男が、武田の副将である武田信繁に宛てて書状を寄越してきた――その意味を、信玄は即座に理解した。
 彼は、左手で口髭を撫でつけながら、押し殺したような顔で静かに問うた。

「――で、何を言ってきた」
「……ご覧下され」

 信繁は、信玄の問いには答えず、手にした書状を差し出した。信玄は、一瞬目尻をひくつかせたが、黙って信繁の手から書状を引ったくるようにして受け取る。
 封紙を引き剥がすように外し、手首を振って書状を広げた。
 そして、火鉢の火に翳すようにして書状に目を通す。

「…………」
「…………」

 暫しの間、部屋は沈黙に包まれる。ふたりの耳に届くのは、信玄が紙を送る音と、火鉢の炭が爆ぜる音だけだ。
 そして信玄は、書状に落とした目を上げた。言葉にはしなかったが、『……どういう事だ?』と、その目が言っている。
 信繁は、無意識に目を伏せて言った。

「……ご覧になられた通り、朝比奈殿は、駿州往還で行われているという街道を拡幅する道普請について、当方に問い質したいとの事です。――今川家に何の相談も無く、密かに普請が行われている様子に、いたくご不審を抱かれておられる由……」
「……」
「――正直、駿州往還の普請の件、某も初耳で御座った。真の事であれば、朝比奈殿……いや、今川家のご懸念も、けだし当然の事かと……」

 ――もちろん、信繁が普請の件が初耳だと言ったのは嘘である。
 その情報は、義信の妻・嶺の元に届いた書状で既に信繁の知るところとなっていた。
 そこで、信繁は、飯富を通して嶺に頼み、、今川方へ伝えさせた。そうすれば、この件を信繁自身が信玄に問い質す名分が出来るからだ。
 正月明けには、佐助を駿州往還近辺へ密かに放ち、事実の裏付けを行う。
 そして――、
 つい先日戻ってきた佐助からの報告は、今川方が掴んだ内容を裏付けるものだった。
 で、あれば……信玄が、今川家、そして、武田家内の大部分の者にすら隠して行おうとしている道普請――それを何の為に行っているのかを、信玄自身の口から聞き出す必要がある。
 しかし、息子の義信や、ましてや、その妻にして、今川氏真の妹である嶺の口から問い質そうとしても、信玄が態度を硬化させて、口を閉ざしてしまうかもしれない――信繁は、それを怖れた。
 ……いや、叔父として、義信と信玄の仲を、これ以上悪化させたくない気持ちもあったのかもしれない。
 いずれにしても、この役目を負うのは自分が適任――そう思った上での小細工であった。
 信繁は、乾いた唇を舌で舐めて湿らすと、覚悟を決めて目を上げた。
 信玄の目を真っ直ぐに見据えて、彼は凜と通る声で問うた。

「……して、一体、如何様な理由で、この様な道普請を……?」
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