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第一部二章 再動

与力と宿老

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 「……久しいのう」

 信繁は、そう呟いて、赤塗りの丸橋の向こうに聳える大きな門をじっと見つめる。
 その門構えは、二年前、川中島へ向かう為にくぐった時と変わらぬ佇まいで、信繁を静かに迎えていた。

 ――躑躅ヶ崎館。

 甲斐府中の中心にある、甲斐武田家の当主・武田信玄が住まうである。
 ――その名の通り、城では無い。
 一重の水堀を廻らせており、館としては規模が大きいと言えるが、甲斐信濃、そして西上野をも掌握しつつあり、今や日の本における大大名のひとりに数えられんとしている、武田家の統領の居館としては、些か心許なく感じる。
 だが、それは、『人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり』を信念とする、信玄の矜恃を内外に示したものだといえよう――。

「……」

 門構えを見上げる信繁の口元が、僅かに綻ぶ。
 と、

「……お懐かしゅう御座りまするか? 典厩様……」

 病み上がりで未だに自由が利かない彼の右半身を支えた武藤昌幸が、静かな声で尋ねた。
 その問いに対し、信繁は小さく頷く。

「うむ……何せ、この地に立つのは2年ぶりだからな。――八幡原で地に伏した時には……もう二度と、この景色を拝める事はあるまいと覚悟を決めたものだが……」
「……」

 信繁の韜晦とうかいに、昌幸は複雑な表情を浮かべて、口を噤んだ。
 二年前の戦いで、初陣を果たした昌幸は、馬場隊の指揮下に入り、妻女山に籠もる上杉軍をつつき出し、本隊が待ち構える八幡原へと追い落とす役目を負った。
 だが、武田方の動きを機敏に察した、戦巧者の上杉政虎 (当時)は、武田の奇襲部隊が妻女山に到る前に軍列を整えていち早く山を下り、濃霧に紛れて、逆に武田軍本隊に奇襲を仕掛けたのだ。
 その苛烈な攻撃によって、武田軍本隊は大きな損害を受けた。単純な死者の数もさることながら、軍師・山本勘助や、侍大将の諸角豊後守虎定もろずみぶんごのかみとらさだ初鹿野はじかの源五郎忠次といった有力家臣の討ち死も多かった。
 更に、総大将である信玄も負傷し、副将の信繁にも瀕死の重傷を負わせてしまった――その事が、別働隊の一員であった昌幸の心に、人知れぬ深い傷を穿っていたのだった。
 昌幸は、沈痛な表情を浮かべると、信繁に向けて深々と頭を下げた。

「典厩様……あの時は、我々の着到が遅れ、誠に……申し訳――」
「何を謝る? 昌幸」

 と、信繁は、キョトンとした表情を見せながら、昌幸の謝罪の言葉を遮った。

「あの時の事で、初陣だったお主に謝られる理由など無いぞ。――いや、別働隊の指揮を執っていた馬場民部や工藤らを責める気もない」

 そう静かに言うと、信繁は潰れた右目の上を縦に走る傷痕を撫でながら、穏やかに言葉を継いだ。

「――あれは、我々の謀よりも、上杉政虎の戦才の方が一歩上をいった――それだけの事だ。……寧ろ、本隊われわれが壊滅する前に、よくぞ戻ってきてくれた。お主らが一歩遅かったならば、儂も――そして、おそらくはお屋形様も、生きてこの地を踏めなかったであろう……」
「……典厩様」

 信繁の言葉に、微かに声を震わせながら、昌幸は再び深く頭を下げる。
 ――と、そんな彼の姿を見ていた信繁は、ニヤリと薄笑みを浮かべた。

「ふふ……殊勝な事を申しておるが、どうせいつもの小芝居であろう? 儂にはお見通しじゃ――」
「そ……そんなごどは……ございまぜぬ……!」
「あ……」

 キッと顔を上げた昌幸を見て、信繁は思わず息を呑んだ。
 昌幸の真っ赤に充血した目は潤み、その頬には幾筋もの涙の筋を作っていたからだ。

「あ……その……すまぬ」

 信繁は、昌幸の言葉を芝居と断じてしまった不明を慌てて詫びると、自分も深く頭を下げた。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「――! て……典厩殿ッ!」

 昌幸を引き連れて、躑躅ヶ崎館の大広間に入った信繁を目敏く見付け、大声で呼びながら、小走りで近付いてきたのは、白髪交じりの濃い顎髭を生やした壮年の武将だった。
 その顔を見た信繁の顔も綻ぶ。

「おお! 民部! 久しいのう……!」
「お目覚めになったと聞いて、深志の城を抜け出してでもお逢いしとう思っておりました! ご無沙汰しておりまする」

 その魁偉な顔をクシャクシャにしながら、大きな声でそう言ったのは、武田家の重臣のひとり、馬場民部少輔信春ばばみんぶしょうゆうのぶはるその人であった。彼は、その沈着冷静な頭脳と豊富な経験を買われ、信濃の深志城 (現在の松本市)の城代として、信玄から信濃筑摩郡の執政を任されている男であった。
 信春は、信繁の姿を頭から爪先までじっくりと眺めると、満面の笑みを浮かべた。

「――どうやら、キチンと脚は付いておられるようですな。あの半死の体から、ここまで快復なされるとは……流石は典厩様」
「“流石”と言われる意味がよく分からぬが……取り敢えず生きておるぞ。右目と右半身は、まだ魂が抜けたままのようだがな」
「――なるほど。それで源五郎(昌幸の幼名)を介添として……」
「そういう訳で連れている訳では――」

 本気で言っているのか軽口なのか分からない馬場の言葉に、些か辟易としながら頭を振る信繁。

「昌幸は、儂の与力だからな」

 そうなのだ。当初は、又被官として信繁に仕えたいと強く希望していた昌幸だったのだが、最終的には、信繁と信玄の説得によって、信繁の臣ではなく、信玄が信繁に“直臣”昌幸を、として預ける形を取る事で納得した。――不承不承といった体だったが。
 ――だが、
 信繁は、信玄が昌幸を与力として自分の下に配する事すら、昌幸は計算ずくだったのではないかと疑っている。
 そのくらい、この武藤喜兵衛昌幸という若者は、思慮の底というものを見せない。
 ある時には、冷静なように見えて、内には熱いものを秘めているようにも思え、またある時には、やはりその逆かとも見える。
 だが、彼の、武田家と信繁に対する忠誠の心は、充分に信じるに足るものなのではないか……それが、一月の間、己の与力として働く昌幸の姿を見てきた、信繁の確信だった。

「馬場様、お久しゅう御座います」

 信繁の背後に控えた昌幸が、一礼して言った。馬場は、その髭に塗れた口の端を上げると、大きく頷いた。

「おう、源五郎か――お主も健勝のようで何よりじゃ。――どうじゃ? 典厩殿の下で仕えて」
「学ぶ事が多く、日々充実しておりまする」

 馬場の問いかけに、破顔して応える昌幸。その言葉を聞いた馬場も大笑した。

「ハッハッハッ! さもあろう! 何せ、我らが甲斐武田の副将殿じゃ。いくら学んでも学び足りぬぞ! 存分に吸収し、糧とするのだ」

 馬場は、うんうんと頷きながら、昌幸の肩を何度も強く叩く。
 そして、一転して、しんみりとした顔になって、昌幸の顔をじっと見つめて言った。

「……頼むぞ、源五郎……いや、武藤喜兵衛昌幸よ。武田の家のこれからを支えるのは、我々年寄り共では無く、お主や四郎様のような、若い者たちじゃ。――お主たちが、お屋形様……そして、ゆくゆくは太郎様を盛り立て、たすけてゆくのだぞ――よいな!」
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