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第一部一章 生還

夢と醒

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 「孫六は、蝶を描きとうございます!」

 そう、三つ下の弟に懇願されたからといって、こんな軽装で山に登るのではなかった……と、次郎は天を仰いで悔いた。
 彼が振り仰いだ空は、橙から藍へと色合いを変えつつあった。しかし、木々の葉に遮られた山腹に陽の光は届かず、彼ら三人の兄弟が彷徨っている周辺は、いち早く夜の帳に覆い尽くされんとしている。

「……おい、次郎、孫六。早く歩け。すっかり迷ってしまったが故に、じきに日が暮れてしまう。何としてもその前に――」

 先頭を歩く兄の太郎が、振り返って二人の弟を叱咤する。一見、いつもの兄の落ち着いた顔つきだったが、明らかな焦燥と疲労が、その引き攣った口元に見て取れる。
 しかし、その兄の言葉に、次郎はふるふると首を横に振った。

「いや、兄上。もう、これ以上は無闇に動かぬ方が良いかと。今日はこの辺りで野宿して、朝日が昇るのを待った方が――」
「何を言う! こんな所で野宿など出来るか!」

 次弟の言葉を、太郎は厳しい声で遮った。

「わしらは食うものも持ち合わせておらぬし、火をおこす事も出来ぬ。わらべ三人きりで一晩を山の中で過ごすなど、自ら山犬の餌になるようなものだ。ここは、無理をおしてでも山を下りねば……」
「いや、兄上」

 太郎の言葉に、次郎は再びかぶりを振り、静かな言葉で言った。

「真っ暗な山の夜の中、灯りもなしに下る方が、ずっと危険かと。――第一」

 と、次郎は自分の後方に向けて顎をしゃくった。

「……孫六が、疲れ切っております。まだ四歳の孫六には、これ以上の山下りは、荷がかちすぎるかと」
「……」

 太郎も目を向けた先では、半べそをかきながら、必死でふたりの兄に追いつこうと足を動かす、健気な幼い弟の姿があった。
 その姿を見た太郎は、眉を顰め、微かに唇を噛んだ。
 次郎は、そんな兄の顔をじっと見据えながら、静かな口調で言葉を継ぐ。

「野宿も危険なのは重々承知しておりますが、矢鱈と歩き回っていたずらに力を費やすよりも、ジッと留まって、体力の温存に努めるべきかと、次郎は思います……」

 と、彼は表情を引き締めて、「ただ……」僅か七歳の童子わらしらしからぬ、覚悟を決めた表情で、兄に向かって言った。

「兄上おひとりなら、夜の山道も下れるかもしれません。……兄上は、大事な武田の跡取りでございます故、何かあっては一大事……。さればここは――私と孫六を置いて、おひとりで……」
「たわけ!」

 次郎の言葉を、太郎は怒気を孕んだ厳しい声で一喝する。
 彼は、爛々と輝かせた眼で次郎を見据えながら、決然とした声で言った。

「武田の跡取り――なればこそ、ひとりで山を下るなど出来ようはずもなかろう! そなた達――次郎と孫六は、いずれはわしの傍らで、共に武田の家を背負う一の臣となる者なのだからな……」

 そう言うと、太郎は表情を和らげ、ふたりの弟の顔を交互に見ながら、今までに聞いた事のないような優しい声で言った。

「安心せい、次郎、孫六。わしが、お前たちをしっかりと守ってやる。武田の嫡男として……いや、兄として……な」
「――あ、兄上……!」

 次郎は、兄の言葉を聞き、己の全身が、強い感動で打ち震えるのを感じていた。

 普段の太郎あには、寡黙で、感情を表に出す事は滅多に無かった。
 活発に野山を駆け回ってばかりだった次郎じぶんとは違い、活発に身体を動かす事も好きではないようで、いつも、薄暗い部屋の中で『論語』や『孫子』といった難しい本を開いていた。
 そんな嫡男を、父である、武田家当主・武田信虎は良く思っていない様で、最近のふたりの間に、常に絹の糸のような緊張感が張り巡らされているのを、幼いながらに次郎は感じ取り、その小さな胸を傷めていたのだ。
 だから、今回、絵を描くのが好きな三男の孫六が、『山に棲む大きな紫の蝶を描きたい』と捏ね始めた駄々に負けて、次郎が孫六と一緒に小山に出かけようという時に、

「わしも行こう」

 と、一言だけ言って、黙ってついてきた兄の意外な行動に次郎は驚くと共に、秘かに心が踊るのを感じたのだった。
 そして、今も――。

 次郎は、暗闇に覆われた森の中でも分かる程に顔を赤く染めた兄の顔を見ながら、自分でも知らぬ内に、その顔を綻ばせていた――。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 ――そこで、彼は夢から醒めた。

 彼の四肢を、柔らかく温かい布団が包んでいるのを感じる。――あの日の夜とは違って。
 彼は、覚めてから暫くの間、目を閉じたまま、霧の中の様に霞んだ意識を整理しようと努める。

(――随分と、ふるい日の夢を見た)

 結局、あの日の夜は、山の大きな木のうろの中で過ごしたのだった。幼い孫六と自分を中で寝かせ、洞の外で、長兄の太郎が右手に脇差を握りながら、ひとりで寝ずの番をして守ってくれた。
 ――怖かったが、洞を塞いでいる兄の背中を見る度に心が休まり、不思議と嬉しかったのを思い出す。
 と――、

(――そうだ……!)

 彼は、唐突に思い出した。
 自分が、兄の率いる軍の副将として、襲いかかる敵の大軍と死闘を繰り広げていた事を。

(なのに……何故、現在の自分は、ぬくい布団にくるまっているのだ?)

 彼は、そんな疑問を抱きつつ、カッと目を見開いた……つもりだったが、開いたのは左の目のみで、右の視界は暗い闇に覆われたままだった。

(……これは、どうしたことか……?)

 彼は、右目の様子を確認しようと、自分の右手を動かそうとするが、布団に包まれた右腕は彼の意思に反して、ピクリとも動かなかった。
 いや、右腕だけではない。彼の身体全部が、まるで自分のものでは無くなってしまったかの様であった。
 彼は、焦燥に駆られつつ、鉛の様に重たい身体を何とかして動かそうと、うめき声を上げつつ足掻く。

「……くっ……グゥっ……ンッ――!」

 身体の上に掛けられた布団一枚が、まるで大岩のような重さに感じられる。はねのけるのも一苦労だ。
 たちまちの内に、彼の息は上がり、身体からは冷や汗と脂汗が一緒に吹き出た。

(――どうなってしまったのだ、儂の身体は……)

 一向に意のままにならない己の四肢に、苛立ちと仄かな恐怖を感じながら、彼はなおも藻掻く。
 と、傍らの襖が開く音がした。

「――!」

 彼はギョッとして、唯一自由に動かせる首を巡らせて、音の源に目を遣る。
 襖を開けて入ってきたのは――小さな盥を抱えた老女だった。
 老女は膝立ちになると、彼に背を向けて襖を閉め、――振り返った彼女と、布団の中から彼女をじっと見つめる彼の視線が交錯する。

「……ひ――ッ!」

 ばしゃんっ――

 布団の中から、ジッと見つめられている事に気がついた老女が、喉の奥から妙な声を出すと同時に、手に持っていたたらいを取り落とし、へなへなとへたり込んだ。
 そして、身を捩るや、今閉めたばかりの襖をこじ開けて、部屋の外にまろび出る。
 そして、驚愕で引き攣った顔で、嗄れた声を張り上げた。

「だ――誰か――ッ! 来て下さいまし……っ! て、てん……典厩様が、目を覚まされましたぁッ!」
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