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第十三章 無数の糸は、如何にして絡まり合うのか
第十三章其の玖 見舞
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――勝悟は、微かに樟脳の香りが漂う廊下を、カツカツと靴音を立てながら歩いていた。
この十二年間、何十回何百回と往復し続けた廊下だ。
蛍光灯の光で壁の白さが一層際立つ廊下の突き当たりまで歩いてきた彼は、『816号室』のプレートが打ちつけられた扉の前に立つ。
「……」
金属製の取っ手に手をかけた彼は、胸の鼓動と心を落ち着けるように長く深く息を吐きながら、ゆっくりとスライドドアを開けた。
ドアのコロが立てるカラカラという音と共に、見慣れた病室内の情景が勝悟の目に飛び込んできた。
「……」
大きな窓を覆うレースカーテンで遮られた柔らかな陽光。大きな病室の中にポツンと置かれた小さなベッド。その脇に置かれ、規則正しい波形のグラフを表示し続ける液晶モニター。
そして――固く目を閉じたままベッドに横たわっている、やつれた顔の幼馴染……。
勝悟は、いつもと変わらない病室の様子に安堵と失望を覚えながら、静かに室内へと入った。
と、その時、
「あ……勝悟くん……いらっしゃい」
彼は、背後から声をかけられた。
振り返った勝悟は、自分に声をかけてきた中年の女性に向けて、ぺこりと頭を下げる。
「……おばさん、こんにちは」
彼に声をかけたのは、病室の主の母親だった。
十二年に及ぶ看病生活ですっかり白髪が増え、げっそりと瘦せ細ってしまった母親の顔を見ると、勝悟はいつも胸が締め付けられる感覚を覚える。
彼は無意識に母親の顔から視線を逸らしながら、お馴染みとなった会話を繰り返す。
「……アマネは、まだ目を覚ましませんか……?」
「……ええ。まだね」
彼女も、勝悟と同じく十二年変わらぬ返事をすると、泣き顔のような苦笑いを浮かべた。
そして、ベッドの脇に歩み寄ると、眠り続ける娘の傷んだ髪の毛を優しく撫でながら、呟くように言う。
「お医者様が言うには、いつ目が覚めてもおかしくないはずなのに、本当にお寝坊さんね……。お母さん、困っちゃうわ」
「……アマネが寝坊助なのは、昔からですから」
娘を見つめる母親の目が潤んでいる事に気が付きながらも、敢えて見て見ぬふりをした勝悟は、冗談交じりに答えた。
そんな彼の軽口に、天音の母親は困り笑いを浮かべる。その表情が、在りし日の天音のそれと重なり、勝悟の胸を更に苦しくさせた。
「……」
「……」
勝悟と母親の間に、気まずい沈黙が澱のように垂れ込める。
「……じゃ、じゃあ、せっかくだから、留守番を頼んでいいかしら? おばさん、ちょっと購買まで行ってこなきゃいけないから」
「あ……は、はい! もちろんです!」
母親の申し出に、勝悟は慌てて頷く。
本当は大した用事がある訳でも無いのだろうが、天音の母親は彼女なりに気を遣ったであろう事は、勝悟にも充分に察せられた。
勝悟の返事を聞いた母親は、力無い笑みを浮かべると、「……じゃあ、宜しくね」と言い残し、勝悟の横をすり抜けるようにして病室を出て行く。
「……行ってらっしゃい」
勝悟は、彼女の消えた入り口に向かってポツリと言うと、ベッドの方に目を向けた。
僅かに開いた窓から入る風がレースカーテンを優しく揺らし、ベッドの上の天音の前髪もサラサラとそよいでいる。
暫くの間、勝悟はベッドの脇で立ち尽くしたまま、じっと天音の寝顔を見下ろしていた。
――十二年前、トラック同士の衝突事故に巻き込まれ、この病院に搬送された直後の天音は酷い状態で、病院に駆けつけた天音の両親は、医者から「覚悟して下さい」と告げられる程だったという。
だが、多数の医師たちの尽力と、最先端の医療技術により、天音は奇跡的に命を拾った。
……だが、その代償は大きかった。
結果として、腎臓やいくつかの臓器は使い物にならなくなり、更に数十度に及ぶ手術によって、彼女の体のあちこちに、一生消える事の無い縫合痕や傷痕が残ってしまった。
そして何より――あの事故の日以来、彼女の意識は戻っていない。
「……ったく、いつまで寝てるんだよ、アマネ……」
そう、意識の無い天音に声をかけながら、勝悟は震える手で天音の髪を撫でた。
その髪の毛は、彼女が元気だった頃のおさげ髪ではなかった。看護で手入れしやすいように短く切りつめられている上に、長い入院生活ですっかり傷んでしまい、毛先が乱れ、ぱさついてしまっている。
だが、その僅かに癖がついた黒い髪は、紛れもなく見慣れ――秘かに見惚れていた幼馴染の髪の毛だ。
「……元気になったら、髪の毛を伸ばしてくれよ。前にも言っただろ? 俺は、髪の長い子が好みなんだ――って」
微かに声を震わせながら、勝悟は天音に語りかけた。
「元気になったらさ……あそこに行こうぜ。ほら、あの日いっしょに行く予定だった遊園地だよ。ウチの親が新聞の勧誘で貰った無料券があるからって言って、俺が誘った……」
そこまで言った勝悟の動きがピタリと止まる。
フレームが歪み、レンズも粉々に砕けた黒縁眼鏡の残骸が枕元のサイドテーブルの上に置かれている事に気が付いたからだ。
――次の瞬間、彼の胸に、ある疑念が浮かび上がる。
今まで何百回何千回と問いかけ、自分を苦しめてきた、あの疑念が。
(――あの日、俺が天音を遊園地に誘わなければ、こんな事にはならなかったんじゃないか?)
答えは――是。
「――ああああああああっ!」
勝悟は、頭を抱えて絶叫すると、天音の眠るベッドの脇に蹲った。
しばらくの間、彼は頭を抱えたまま、呻き声とも嗚咽ともつかない声を漏らしていたが、やがて顔を上げると、目線と同じ高さにあった天音の横顔に向かって声をかける。
「……ごめんな、アマネ。うるさかっただろ?」
だが、そんな彼の声にも、天音の反応は無い。
彼の唇がわなわなと震え始める。
「うるさかったら、今すぐ跳ね起きて、俺の事を怒鳴っていいんだぜ。……いや、むしろ怒鳴ってくれよ。昔みたいに」
彼の懇願にも、応える声は上がらない。
「……頼むよアマネ。目を覚ましてくれよ……。あの日の事を許してくれなんて言わないからさ……もう一度、俺に声を聞かせてくれ……頼むよ……」
しかし――、
勝悟がどんなに希おうとも――天音の口と目が開く事は無かった。
この十二年間、何十回何百回と往復し続けた廊下だ。
蛍光灯の光で壁の白さが一層際立つ廊下の突き当たりまで歩いてきた彼は、『816号室』のプレートが打ちつけられた扉の前に立つ。
「……」
金属製の取っ手に手をかけた彼は、胸の鼓動と心を落ち着けるように長く深く息を吐きながら、ゆっくりとスライドドアを開けた。
ドアのコロが立てるカラカラという音と共に、見慣れた病室内の情景が勝悟の目に飛び込んできた。
「……」
大きな窓を覆うレースカーテンで遮られた柔らかな陽光。大きな病室の中にポツンと置かれた小さなベッド。その脇に置かれ、規則正しい波形のグラフを表示し続ける液晶モニター。
そして――固く目を閉じたままベッドに横たわっている、やつれた顔の幼馴染……。
勝悟は、いつもと変わらない病室の様子に安堵と失望を覚えながら、静かに室内へと入った。
と、その時、
「あ……勝悟くん……いらっしゃい」
彼は、背後から声をかけられた。
振り返った勝悟は、自分に声をかけてきた中年の女性に向けて、ぺこりと頭を下げる。
「……おばさん、こんにちは」
彼に声をかけたのは、病室の主の母親だった。
十二年に及ぶ看病生活ですっかり白髪が増え、げっそりと瘦せ細ってしまった母親の顔を見ると、勝悟はいつも胸が締め付けられる感覚を覚える。
彼は無意識に母親の顔から視線を逸らしながら、お馴染みとなった会話を繰り返す。
「……アマネは、まだ目を覚ましませんか……?」
「……ええ。まだね」
彼女も、勝悟と同じく十二年変わらぬ返事をすると、泣き顔のような苦笑いを浮かべた。
そして、ベッドの脇に歩み寄ると、眠り続ける娘の傷んだ髪の毛を優しく撫でながら、呟くように言う。
「お医者様が言うには、いつ目が覚めてもおかしくないはずなのに、本当にお寝坊さんね……。お母さん、困っちゃうわ」
「……アマネが寝坊助なのは、昔からですから」
娘を見つめる母親の目が潤んでいる事に気が付きながらも、敢えて見て見ぬふりをした勝悟は、冗談交じりに答えた。
そんな彼の軽口に、天音の母親は困り笑いを浮かべる。その表情が、在りし日の天音のそれと重なり、勝悟の胸を更に苦しくさせた。
「……」
「……」
勝悟と母親の間に、気まずい沈黙が澱のように垂れ込める。
「……じゃ、じゃあ、せっかくだから、留守番を頼んでいいかしら? おばさん、ちょっと購買まで行ってこなきゃいけないから」
「あ……は、はい! もちろんです!」
母親の申し出に、勝悟は慌てて頷く。
本当は大した用事がある訳でも無いのだろうが、天音の母親は彼女なりに気を遣ったであろう事は、勝悟にも充分に察せられた。
勝悟の返事を聞いた母親は、力無い笑みを浮かべると、「……じゃあ、宜しくね」と言い残し、勝悟の横をすり抜けるようにして病室を出て行く。
「……行ってらっしゃい」
勝悟は、彼女の消えた入り口に向かってポツリと言うと、ベッドの方に目を向けた。
僅かに開いた窓から入る風がレースカーテンを優しく揺らし、ベッドの上の天音の前髪もサラサラとそよいでいる。
暫くの間、勝悟はベッドの脇で立ち尽くしたまま、じっと天音の寝顔を見下ろしていた。
――十二年前、トラック同士の衝突事故に巻き込まれ、この病院に搬送された直後の天音は酷い状態で、病院に駆けつけた天音の両親は、医者から「覚悟して下さい」と告げられる程だったという。
だが、多数の医師たちの尽力と、最先端の医療技術により、天音は奇跡的に命を拾った。
……だが、その代償は大きかった。
結果として、腎臓やいくつかの臓器は使い物にならなくなり、更に数十度に及ぶ手術によって、彼女の体のあちこちに、一生消える事の無い縫合痕や傷痕が残ってしまった。
そして何より――あの事故の日以来、彼女の意識は戻っていない。
「……ったく、いつまで寝てるんだよ、アマネ……」
そう、意識の無い天音に声をかけながら、勝悟は震える手で天音の髪を撫でた。
その髪の毛は、彼女が元気だった頃のおさげ髪ではなかった。看護で手入れしやすいように短く切りつめられている上に、長い入院生活ですっかり傷んでしまい、毛先が乱れ、ぱさついてしまっている。
だが、その僅かに癖がついた黒い髪は、紛れもなく見慣れ――秘かに見惚れていた幼馴染の髪の毛だ。
「……元気になったら、髪の毛を伸ばしてくれよ。前にも言っただろ? 俺は、髪の長い子が好みなんだ――って」
微かに声を震わせながら、勝悟は天音に語りかけた。
「元気になったらさ……あそこに行こうぜ。ほら、あの日いっしょに行く予定だった遊園地だよ。ウチの親が新聞の勧誘で貰った無料券があるからって言って、俺が誘った……」
そこまで言った勝悟の動きがピタリと止まる。
フレームが歪み、レンズも粉々に砕けた黒縁眼鏡の残骸が枕元のサイドテーブルの上に置かれている事に気が付いたからだ。
――次の瞬間、彼の胸に、ある疑念が浮かび上がる。
今まで何百回何千回と問いかけ、自分を苦しめてきた、あの疑念が。
(――あの日、俺が天音を遊園地に誘わなければ、こんな事にはならなかったんじゃないか?)
答えは――是。
「――ああああああああっ!」
勝悟は、頭を抱えて絶叫すると、天音の眠るベッドの脇に蹲った。
しばらくの間、彼は頭を抱えたまま、呻き声とも嗚咽ともつかない声を漏らしていたが、やがて顔を上げると、目線と同じ高さにあった天音の横顔に向かって声をかける。
「……ごめんな、アマネ。うるさかっただろ?」
だが、そんな彼の声にも、天音の反応は無い。
彼の唇がわなわなと震え始める。
「うるさかったら、今すぐ跳ね起きて、俺の事を怒鳴っていいんだぜ。……いや、むしろ怒鳴ってくれよ。昔みたいに」
彼の懇願にも、応える声は上がらない。
「……頼むよアマネ。目を覚ましてくれよ……。あの日の事を許してくれなんて言わないからさ……もう一度、俺に声を聞かせてくれ……頼むよ……」
しかし――、
勝悟がどんなに希おうとも――天音の口と目が開く事は無かった。
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