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序章 風纏う蒼き狼

序章其の壱 彷徨

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 ――鉛のように重い瞼を開けると、鬱蒼と茂る緑の葉と、その合間を埋める真っ青な空が見えた。

「……何で……だ……?」

 男は、一瞬、自分が空を仰いでいる意味も分からなかった。
 だがすぐに、自分が仰向けに倒れているからだという事に気が付いた彼は、朦朧とする頭を押さえながら、ゆっくりと身体を起こす。
 しかし、また新しい疑問が頭をもたげた。

「で……、ここは……何処だ?」

 男は、戸惑った様子でキョロキョロと周囲を見回す。
 だが――彼の周りには、歪な伸び方をした木々が鬱蒼と茂っているばかりだった。いくら見回してみても、己が居るのが深い森の中だという事しか分からない。
 そして、疑問の答えが出ないまま、更に新たな疑問が脳裏に浮かんだ。

「……何で俺は、こんな森の中で寝てたんだ……?」

 そう呟くと、男は目を落とし、ジッと自分の両手を見た。
 ……だが、いくらそうしていても、何も頭には浮かばない。
 ――それどころか、彼はもっと恐ろしい事に気が付いた。

「……俺は……だ?」

 彼は、呆然として呟くと、両手で頭を掻きむしった。そうする事で、途切れていた記憶の糸が再び撚り合わされる事を期待しつつ。
 だが――それでも、頭の中は深い靄がかかったようにぼんやりとしていて、自分の名前すら満足に思い出せない。

「クソッ!」

 舌打ちをした男は、尚も激しく腕を動かす。
 ――すると、

「――痛ッ!」

 突然、こめかみに鈍痛を感じ、男は顔を顰めた。
 ギリギリと歯を食いしばって鈍痛に耐えながら、彼は呟く。

「……ダメだ。何も思い出せない」

 彼は、絶望に満ちた表情を浮かべて、痛んだこめかみを押さえる。
 そして、暫くの間、そのままじっと蹲っていた。
 ――十分ほど、そうしていただろうか。

「……ふう」

 漸く、こめかみの鈍痛が消え、男は安堵の息を吐いた。
 ……いや、安心している場合では無い。
 そう思い直し、彼は慌てて立ち上がった。
 そして、顔を下に向け、自分の身体に異常が無いかを確認する。

「……怪我は無い――か」

 自分が着ている黒い“Tシャツ”と迷彩柄の“カーゴパンツ”を捲り、地肌を露わにしたが、少なくとも、目に見える範囲では、どこにも異常は見られないようだった。恐る恐る屈伸をしてみたりもしたが、特に身体のどこかが痛むという事も無い。
 彼は、大きく息を吐くと、もう一度ゆっくりと周りを見回してみた。
 だが、その目に映るのは、先程と変わらぬ木・木・木……。
 男は失望の息を吐き、独り言ちる。

「……とにかく、ここに居てもどうにもならなさそうだ。……そもそも、こんな森の中じゃ、どんな生き物が潜んでいるかも分からないし」

 かといって、一体どちらの方に向かえば良いのか……。
 見る限り、どちらを向いても同じ様な木々が生い茂り、違いがあるようには見えない。
 男は、向かうべき方向を決めかねて、困惑して俯いた。
 ――だが、

「……ん?」

 小さな異変を感じた男は、ハッとして顔を上げる。

「……風?」

 どことなくひんやりとした湿った風が、男の頬を撫でたからだ。
 全く確証は無かったが、何となく、その風の吹く方へ向かった方が良いのではないか?
 そう直感した男は、意を決すると、地面に生える草を“スニーカー”で踏み分けながら、ゆっくりと歩き出した。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 「……川だ!」

 三十分程、獣道すら無い森の中をひたすら歩いてきた男は、思わず歓声を上げた。
 彼の目の前には、小さな川が、微かなせせらぎの音を立てて細々と流れている。
 それを目にした瞬間、男は激しい喉の渇きを覚えた。――思い返せば、目を醒ましてから、何も口にしていない。
 一瞬、川の水に潜む寄生虫や細菌の事が脳裏をぎったが、キラキラと光を反射しながら目の前を流れる透き通った水を見ると、どうにも我慢が出来なくなった。
 彼は、半分無意識のうちに両手を合わせると、ゆっくり水の流れの中に浸した。

「う……冷てっ!」

 指先が凍るかのように感じて顔を顰めた彼だったが、お椀のようにした両掌を満たす透明な水を凝視し、迷わず口元に持っていく。
 そのまま、水を口中に流し込み、喉を鳴らして飲み干した。

「……ぷはっ! 美味え……!」

 彼は感嘆の息を吐くと、濡れた口元を拭う事も忘れて、もう一度両手を川に浸し、その水を掬う。
 もう一度、無我夢中で清冽な水を飲み干すと、漸く人心地が付いた様子で、川岸の砂利に腰を下ろした。
 彼は、その姿勢のままで顎を上げ、空を見上げた。
 川岸で、木々が邪魔をしない分、さっきよりも青い空がよく見える。
 ――と、先程浮かんだ疑問が、再び脳裏を過ぎった。

(……ここはどこで、何で俺はここに……いや、そもそも……?)

 ……ダメだ。やはり、何も思い出せない。
 考えようと、そして思い出そうとすると、それを阻むように、こめかみがズキズキと痛む。
 彼は大きな溜息を吐くと、ゆっくりと立ち上がった。

「とにかく……この川を下っていけば、最終的には海に出るはずだ。それまでに、街のひとつやふたつあるだろう……多分」

 自分が向かうべき方向が定まったのは朗報だ。――どのくらい歩かねばならないのかは、この際考えないようにする。……どうせ、考えたところで答えは出ない。
 男は、川の下流へと数歩踏み出したが、

「……ん?」

 彼は首を傾げると、その足を止めた。――微かに、気になる音が聴こえた気がしたからだ。
 男は眉を顰め、ジッと耳をそばだてる。
 そして、暫しの間動かずに、鼓膜に神経を集中させていたが、

「――ッ! 悲鳴……ッ?」

 彼はそう叫ぶと、目をカッと見開いた。
 間違いない。
 さっきから断続的に聞こえてくるその音は――女の悲鳴だ!
 そう悟った瞬間、彼は身を翻し、川の上流――悲鳴の聞こえた方向へ走り出した。
 『悲鳴が聞こえた』という事は、即ち、『その源に人が居る』という事だ。
 ――いや、そんな事は関係無い。
 『悲鳴が聞こえた』……即ち、『そこに助けを求める人が居る』という事!

『危険に晒されている人は、助けねばならない』

 自分が居る場所も、ここに居る理由も、それどころか自分の素性も名前も分からないのに、それだけは……その事だけは、不思議な程ハッキリと
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