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【4】救い
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今にも握り潰しそうなほどの男の力に、グリファートの腕が悲鳴を上げる。
瘴気を吸い込んだせいもあって視界が酷く不明瞭だが、男の体躯と雰囲気からして護衛士か何かなのだろう。グリファートよりも若そうな見た目と裏腹に、何の光も通さない深く暗い水底のような瞳が印象的だった。
「ッ、……治癒、を…しに、来たんだよ」
額に脂汗を浮かべながら何とか口を開くも、男の手が腕から離れる気配はない。寧ろさらに力を込められてしまい、本当に折る気ではとグリファートは焦った。その体躯からくる握力でもってすればグリファートの腕など枯れ枝を折るようなものだろう。
「…何だ。今さら寄越したんだな」
たったこれだけの反応で、グリファートはこの男によく思われていないのだと理解出来た。
村にいた頃、自身に向けられる視線や言葉には嫌というほど刺されてきたので好意と悪意の区別は容易にできてしまうのだ。好意でない場合は、特に。
男は腕を握ったまま、グリファートを上から下まで凝視していた。
余所者であるグリファートの事を信用していないのか、その視線には隙のない壁のようなものを感じる。
「アンタなら救えるのか?」
そんな男からの問いにグリファートの身体が無意識に強張った。
もしもこれがグリファートではない他の聖職者であったなら、愚問だと男に言い返す事ができただろう。だがこの男はグリファートに対して、治癒を施せるかどうかではなく少年を生かすことができるのかと問うているのだ。
よりにもよって、治癒はできるが救える保証のない今のグリファート相手に、である。
「救えるのかと聞いてる」
そんなもの、グリファートが知りたいくらいだった。
閉口したままのグリファートを見て男の顔が険しくなる。はあ、と吐き出された溜息が嫌に大きなものに聞こえた。
「…もういい」
前触れなく男の手が離されずるりとグリファートの腕が落ちる。
まさかまたその言葉を向けられるとは思わず、嫌な記憶と共に汗が吹き出た。
「アンタはここにいるべきじゃない」
「……っ役立たずの、余所者は出てけ、って…?」
「親切で言ってるんだがな」
男はそう言うとグリファートを押し除け少年の前で腰を下ろした。
「この子供はもう助からない」
はっきりとした物言いにグリファートの肩が揺れる。目の前の聖職者が役に立たないとわかったからとはいえ、それはあまりに残酷な言葉だった。
グリファートにではなく、この少年にとって。
ぐわんぐわんと揺れる視界の中、男が徐ろに少年に手を伸ばす。それを見たグリファートの背中にぞわりとしたものが走った。
「待っ、たッ…!!」
グリファートは殆ど無意識で男の腕を掴んだ。男のような体躯は持ち合わせていないので掴むというより縋るに近いものだったが。
男はちらりと視線を向けてくる。自ら動きを止めただけでグリファートの手によって制されているわけではなさそうだった。
「親切だって言わなかったか」
「なに、が」
喉が灼けたように熱くて痛い。できればこれ以上この男の言葉に刺されたくはないのだが、生憎と耳を覆うための手は塞がってしまっている。
「手を差し伸べる事を許されるのは、そいつを救ってやれるやつだけだ聖職者様」
男の腕を掴んでいるのはグリファートの方である筈なのに、身体の芯が握り潰されたかのようにぎしりと軋む。
「どれだけ祈っても意味はない。そんな生き地獄を味わせるくらいなら──」
楽にしてあげた方がいい、そう言外に含んでいる。
瘴気が噴出してからこの一週間の間で、男の心を粉々に砕くようなことがきっと想像できないほどにたくさんあったのだろう。助けが来ると期待してずっと待っていたのかもしれない。そうして待ち続けた末に漸く来た聖職者が、こんな無能な男だったのだ。
どれだけ祈っても意味はない。祈っても祈っても、グリファートの掌からは雀の涙程度の魔力しか絞り出せない。
また何もできずに棺を見送るのか───?
そう思った時、小さなうめき声が耳を掠める。見れば少年が「あ、う…」と小さく踠いている。そしてはくはく、と何かを告げる口の動きにグリファートは目を見開いた。
「おい」
脇から少年に手を翳すグリファートを見て男が咎めるような声を出す。
子供の命を悪戯に引き伸ばして苦しめるつもりか、と言いたげだった。救えるのかと問われて答える事もできなかったグリファートでは何の説得力もないかもしれないが、そんなつもりは断じてない。
翳した手が震える。今ここでグリファートが救ってやらねば男の手によって子供は死ぬのだ。冗談でも何でもなく、この男は本当にやってのけるだろう。そう思うと、腹の底から嫌なものが込み上げてきそうだった。
グリファートの魔力放出量でどこまで奇跡を起こせるかは正直なところわからなかった。こんな瘴霧に覆われた場所では下手をしたら一生を費やしたところで治せないまである。
それでもやるしかないのだと、魔力を掌に溜めるように集中し目を瞑って祈りを捧げた。時間がかかるならそれこそ死ぬまで、死んででも。
何故なら少年はグリファートに向かって言ったのだ。
───たすけて、と。
翳した掌が今までになく熱くなったと思えば、周りの瘴気が渦を巻くようにグリファートを取り囲む。ずぶずぶと身体の中に瘴気が満ちてきて窒息してしまいそうだった。
内側から喰われていくような感覚に気を失いかけながら、それでも歯を食いしばり限界まで掌に集中させる。
そうして出し得る限りの魔力を一気に放出した。
ぶわりと足元から風が巻き上がる。
その瞬間、それまでの重苦しさが嘘のように身が軽くなった。
「嘘だろ…」
呆然と呟く男の声と共に閉じていた瞼を僅かに押し上げれば、ぼろぼろだった筈の少年が穏やかな顔でそこに眠っていた。酷い水ぶくれ状態になっていた肌も窪んだ目元も、子ども特有の瑞々しさと柔らかさを取り戻している。これであれば灰色だった瞳もきっと元に戻っている事だろう。
グリファートの身体がぐらりと傾く。
力が入らない。
落ちていく意識の中、最後に見えたのはグリファートを支える誰かの腕と、崩れかけた屋根の隙間から覗く、そこにある筈のない澄んだ空だった。
瘴気を吸い込んだせいもあって視界が酷く不明瞭だが、男の体躯と雰囲気からして護衛士か何かなのだろう。グリファートよりも若そうな見た目と裏腹に、何の光も通さない深く暗い水底のような瞳が印象的だった。
「ッ、……治癒、を…しに、来たんだよ」
額に脂汗を浮かべながら何とか口を開くも、男の手が腕から離れる気配はない。寧ろさらに力を込められてしまい、本当に折る気ではとグリファートは焦った。その体躯からくる握力でもってすればグリファートの腕など枯れ枝を折るようなものだろう。
「…何だ。今さら寄越したんだな」
たったこれだけの反応で、グリファートはこの男によく思われていないのだと理解出来た。
村にいた頃、自身に向けられる視線や言葉には嫌というほど刺されてきたので好意と悪意の区別は容易にできてしまうのだ。好意でない場合は、特に。
男は腕を握ったまま、グリファートを上から下まで凝視していた。
余所者であるグリファートの事を信用していないのか、その視線には隙のない壁のようなものを感じる。
「アンタなら救えるのか?」
そんな男からの問いにグリファートの身体が無意識に強張った。
もしもこれがグリファートではない他の聖職者であったなら、愚問だと男に言い返す事ができただろう。だがこの男はグリファートに対して、治癒を施せるかどうかではなく少年を生かすことができるのかと問うているのだ。
よりにもよって、治癒はできるが救える保証のない今のグリファート相手に、である。
「救えるのかと聞いてる」
そんなもの、グリファートが知りたいくらいだった。
閉口したままのグリファートを見て男の顔が険しくなる。はあ、と吐き出された溜息が嫌に大きなものに聞こえた。
「…もういい」
前触れなく男の手が離されずるりとグリファートの腕が落ちる。
まさかまたその言葉を向けられるとは思わず、嫌な記憶と共に汗が吹き出た。
「アンタはここにいるべきじゃない」
「……っ役立たずの、余所者は出てけ、って…?」
「親切で言ってるんだがな」
男はそう言うとグリファートを押し除け少年の前で腰を下ろした。
「この子供はもう助からない」
はっきりとした物言いにグリファートの肩が揺れる。目の前の聖職者が役に立たないとわかったからとはいえ、それはあまりに残酷な言葉だった。
グリファートにではなく、この少年にとって。
ぐわんぐわんと揺れる視界の中、男が徐ろに少年に手を伸ばす。それを見たグリファートの背中にぞわりとしたものが走った。
「待っ、たッ…!!」
グリファートは殆ど無意識で男の腕を掴んだ。男のような体躯は持ち合わせていないので掴むというより縋るに近いものだったが。
男はちらりと視線を向けてくる。自ら動きを止めただけでグリファートの手によって制されているわけではなさそうだった。
「親切だって言わなかったか」
「なに、が」
喉が灼けたように熱くて痛い。できればこれ以上この男の言葉に刺されたくはないのだが、生憎と耳を覆うための手は塞がってしまっている。
「手を差し伸べる事を許されるのは、そいつを救ってやれるやつだけだ聖職者様」
男の腕を掴んでいるのはグリファートの方である筈なのに、身体の芯が握り潰されたかのようにぎしりと軋む。
「どれだけ祈っても意味はない。そんな生き地獄を味わせるくらいなら──」
楽にしてあげた方がいい、そう言外に含んでいる。
瘴気が噴出してからこの一週間の間で、男の心を粉々に砕くようなことがきっと想像できないほどにたくさんあったのだろう。助けが来ると期待してずっと待っていたのかもしれない。そうして待ち続けた末に漸く来た聖職者が、こんな無能な男だったのだ。
どれだけ祈っても意味はない。祈っても祈っても、グリファートの掌からは雀の涙程度の魔力しか絞り出せない。
また何もできずに棺を見送るのか───?
そう思った時、小さなうめき声が耳を掠める。見れば少年が「あ、う…」と小さく踠いている。そしてはくはく、と何かを告げる口の動きにグリファートは目を見開いた。
「おい」
脇から少年に手を翳すグリファートを見て男が咎めるような声を出す。
子供の命を悪戯に引き伸ばして苦しめるつもりか、と言いたげだった。救えるのかと問われて答える事もできなかったグリファートでは何の説得力もないかもしれないが、そんなつもりは断じてない。
翳した手が震える。今ここでグリファートが救ってやらねば男の手によって子供は死ぬのだ。冗談でも何でもなく、この男は本当にやってのけるだろう。そう思うと、腹の底から嫌なものが込み上げてきそうだった。
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それでもやるしかないのだと、魔力を掌に溜めるように集中し目を瞑って祈りを捧げた。時間がかかるならそれこそ死ぬまで、死んででも。
何故なら少年はグリファートに向かって言ったのだ。
───たすけて、と。
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内側から喰われていくような感覚に気を失いかけながら、それでも歯を食いしばり限界まで掌に集中させる。
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その瞬間、それまでの重苦しさが嘘のように身が軽くなった。
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呆然と呟く男の声と共に閉じていた瞼を僅かに押し上げれば、ぼろぼろだった筈の少年が穏やかな顔でそこに眠っていた。酷い水ぶくれ状態になっていた肌も窪んだ目元も、子ども特有の瑞々しさと柔らかさを取り戻している。これであれば灰色だった瞳もきっと元に戻っている事だろう。
グリファートの身体がぐらりと傾く。
力が入らない。
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