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暗殺
しおりを挟むただでさえ面倒な仕事なのに目当ての人物の姿が見当たらないことに苛立ちを覚えた。
俺はその場に居た少女を憂さ晴らしの対象として殺意を込めて睨んだ。
怖気付いて床に尻餅をついた少女はその震える太腿の隙間から刺激臭のある液体を流した。
思わずその匂いに顔を顰めてしまう。
「う‥ぅぅ」
恥辱から涙を流して蹲る少女に質問をするために前髪を雑に鷲掴んで顔を上げさせる。
「なんだお前?なんでここに居る?あの豚は何処だ?早く屠畜場に連れていって捌いてやらないといけない。もしも庇うならお前に代わってもらうことになる」
俺の捲し立てる早口に少女は恐怖を瞳に宿して震える唇をなんとか動かした。
「わかりません。ゴランダさんはいきなり飛び出していって‥どこに行ったかはわたしも‥」
その言葉に苛立ちを覚えた俺は拳を強く握った。
少女は怯えた表情のまま俺の顔色を窺っている。
「あの‥殺さないで‥わたし‥なんでも言うこと聞きますから‥どうか‥」
少女の長い耳が精神に呼応する様に垂れる。
身体的特徴から言ってこの少女は人ではなくエルフだ。
俺は少女の顔を観察する。
翡翠色の瞳が特徴的な端正な顔立ちをしている。
「これは高く売れそうだ」
思わず出てしまった独り言に対して少女は元から白い肌を更に青白くさせた。
「そ‥その‥売るってどこにですか?」
恐々と開いた口から出てきた言葉はひどく掠れた声音だった。
「黙れ」
低い声音で脅すように瞳を覗き込むと目尻に涙を滲ませて少女は恐怖から頬を引き攣らせた。
「ひッ」
その怯えを無視して少女の胴体を脇に抱えむ。
少女の体が強張るのを感じながらゴランダという豚男の追跡を開始することにした。
「おい貴様!止まれ」
ゴランダの私室を出ると奴の私兵が俺の行手を阻む。
苛立っていた俺は加減できずに相手の胴を弾丸の如き速さの拳で撃ち抜いた。
人間だった肉片が辺りに四散して不快な音が耳たぶを打つ。
「うぅ‥酷い‥あんまりです‥こんなの」
少女は残虐な所業に嫌悪感と悲しみを覚えているようだが俺は戦いの高揚感しか感じていない。
「そうか?」
これから少女が売り飛ばされる先の方が余程酷いと思ったが敢えて言う必要もない。
駆けながらゴランダの残り香を追う。
「あの!‥どこに向かってるんですか?」
少女の問いかけには完全な沈黙で返した。
不安から長い耳が動いているのが傍目にもわかる。
「うぅ‥」
少女は沈黙に耐えられないようで小さく唸る。
身体を強化した俺にとってはそんな些細な音でさえ明瞭に聞こえる。
「臭いな」
娼館街の人通りの多い所で匂いの跡が強くなっている。
しかしそこで痕跡は断たれていた。
「ここか」
華美な装飾を施された店を見上げる。
ここに逃げ込んだ可能性が高い。
「おい!」
店内に入った俺は声を張り上げて受付嬢を威圧する。
受付の女は驚きに満ちた表情で硬直していた。
「は、はい」
震える唇から出た言葉は同様に震えていた。
「ここにゴランダって豚が来なかったか?」
俺の言葉に女は焦燥感を表情に浮かべた。
「きたんだな?」
俺の確認の問いかけに女は否定しようと首を横に振ろうとする。
「い、いえ。そのような方は‥」
片手で女の顔面を鷲掴み、低い声でもう一度確認した。
「正直に言え。さもないとこのまま顔面を握りつぶす」
恐怖によって涙まで流し始めた女は悲鳴のような声で言った。
「来ました!ここに逃げてきました!匿ってくれって!だから殺さないでください!」
俺は命乞いの言葉には反応せずに淡々と言った。
「何処だ」
女は指で上の階に繋がる階段を指し示した。
「六号室です!」
即座に手を離して階段を駆け上る。
登り終えたすぐ正面にその部屋はあった。
「ふッ」
深く息を吸い込んで身体に力を入れてて扉を蹴り破った。
扉は衝撃に耐えきれずにその場で粉々に砕け散った。
「‥化け物」
室内には二人の男女が居た。
男の方はは標的のゴランダだが女の方は知らない顔だ。
女は小柄でナイフを片手に構えていた。
「おい!メリー!わたしを守り通すことができたなら報酬を倍出そう!」
ゴランダの言葉にメリーと呼ばれた女は歓喜するどころか表情を歪めた。
「こんな化け物が相手なんて聞いてない」
メリーは俺を見て悪態を吐いた。
構わず突貫した。
全力の脚力で持ってして相手の懐に入り込む。
メリーは目で此方を捉えることさえできずに驚愕の表情を浮かべていた。
俺はその勢いのまま拳を腹部に叩き込んだ。
「ッハ」
メリーは打撃によって襲い掛かる衝撃によって身体をくの字に曲げたまま受身さえ取ることさえできずに吹き飛んだ。
凄まじい勢いのまま壁に衝突した。
石造の壁が崩壊して破片が宙を舞う。
「ぐッ」
メリーは生きてはいたがもう立つことさえ出来ずに膝をついた。
怯えて頭を抱えるゴランダに悠々と近づいて胸倉を掴んで立ち上がらせた。
「おい!このエルフはどのくらいで売れる!」
エルフの少女を突き出して問いかけた。
ゴランダは恐怖で頬を引き攣らせながら言った。
「貴様は何者だ?メリーをこんな安易と倒すなんて‥」
質問に答えないゴランダに対して俺は首を強く握った。
「ぐッ」
苦しそうに呻くゴランダに俺はもう一度満面の笑みで問いかけた。
「このエルフハいくらだ?」
ゴランダは息を全力で吸い込んで必死で叫んだ。
「金貨一枚だ!だから助けてくれ!」
回答を聞けて満足した俺はそのまま全力で首を握りつぶした。
肉の潰れる感触と骨を粉砕した手応えがあった。
「結構いい金になるな。お前」
笑みを作って称賛してやるとエルフは乾いた笑顔を浮かべた。
その表情に満足した俺は膝をついたまま動かないメリーを蹴飛ばした。
仰向けに倒れたメリーは苦痛を表情に浮かべて此方を睨む。
「うそ‥強すぎる‥こんなの勝てるわけない‥助けて」
うわ言のような言葉に自尊心が満たされていくのを感じた俺はメリーの腹を踏みつける。
「う‥や、やめて。殺さないで‥」
どいつもこいつも同じような命乞いの仕方しかしない。
興が削がれた俺は足裏でグリグリと腹を押しながら問うた。
「助けてほしいか?」
俺の気まぐれの問いにメリーは目を見開いて必死に叫んだ。
「助けて‥お願い‥お願いします」
メリーににとって命乞いとは屈辱であると感じていることがその瞳から感じられた。
しかし死への恐怖には完全には抗えていないようだ。
「どうするかな」
勿体ぶった口調で呟くとメリーは踏みつけた足に取り縋ってきた。
「わたしはお金になる!だから何人でも殺すから‥」
メリーの言葉はこれまでの人生の壮絶さを示している。
その言葉に急激に頭が冷えていくのを感じた。
「‥わかった。もういい‥」
今まで身体に迸っていた力が消失していく。
徐々に薬物の効果が切れていくのが感じられた。
「お前も‥いいや」
担いでいたエルフの拘束を解いてを床に下ろした。
薬物の副作用によって吐き気と頭痛が同時に襲ってくる。
「‥」
無言でその場を後にしようと歩き出そうとしたところでエルフが声を上げた。
「あ、あの?わたしはどうすれば?」
話しかけられることを鬱陶しく感じたため、応じることなく俺は階下への階段を降りる。
「あの‥わたし‥行くところがなくて‥売られるのは嫌なんですけど‥」
後を着いてくるエルフについて考えるのが面倒だった。
此方の様子を伺っている受付嬢にエルフを指で指し示して声をかける。
「こいつのこと頼んだ」
受付嬢は目を白黒させながらも恐怖によって引き攣らせた声で壊れた玩具のように首を縦に振った。
「は、はい!」
その声を最後に娼館を後にした。
*
暗殺が成功したため任務完了の報告をしに向かった。
そこは人相の悪い男達が酒を飲んで賭け事や情報共有を交わしている薄暗い酒場。
ここに来るといつだって二日酔いの時よりも気分が最低になる。
「報告にきた」
立っているのもままならない身体で受付カウンターに寄り掛かり義務を果たす。
「お疲れ様でした。任務完遂は確認されました」
鋭利で鋭い瞳で此方を見据える女。
娼館の受付嬢のような愛想など皆無の感情の籠らない無機質で事務的な対応からは人を殺した者に対しての恐れは一切感じることができなかった。
「報酬は?」
早く家に帰って休みたかった俺は急かすように手を差し出した。
女は無表情で硬貨の入った皮袋を取り出した。
しかし渡すことなく口を開いた。
「マスターがあなたに話があるのでこの後応接室にお越しください」
女の言い放った内容に頭痛が酷くなった俺は無言で皮袋をひったくった。
「無理だ」
俺の拒絶に対して女は眉を痙攣させて不快感を表情に浮かべた。
「何故でしょうか?何か用事があったとしてもそれはマスターを無下にするほどの事柄ではないはずです」
その言葉は正論であり事実でもあったが図星を突かれたことによって苛立ちが頂点に達した。
「あるさ。俺は疲れてるんだ早く帰って休みたい」
丁寧に予定を教えてやると女の此方を見る瞳が徐々に冷たくなっていくのがわかる。
「あなたの都合より、此方を優先してください」
その口調はお願いというより命令だった。
冷淡な表情は何の感情の色も窺わせない有無を言わせぬ毅然とした態度であった。
「‥何でそちらの都合に合わせなきゃならない?」
静かに弾薬帯に入れてある瓶を手で触れた。
この酒場の人気者であることに調子に乗っているこの女をこの場で叩きのめしてやりたくなった。
しかしその考えは横から掛けられた声によって阻まれることになった。
「おいおいユウ!なにナリヤさんに迷惑かけてやがんだよ」
この酒場にそぐわない明るい快活な声は存外によく響いた。
ガラの悪い男達の注目が此方に集まる。
「クソッ‥なんだよ‥うるさいな」
注目されていることに思わず悪態を吐く。
ナリヤはその助け舟に乗って事情を話す。
「リガードさん‥ユウさんがマスターの呼び出しにどうしても応じないと言うので」
リガードは深く頷いて相槌を打った。
そして此方をまっすぐ見据えて説得にかかった。
「ナリヤさんがここまで言ってんだからそれくらい聞いてやれよ。なあお前ら!」
リガードは周りに居た男達にも同意を求めるように声をかけた。
男達はリガードはの言葉に頷いて此方を見た。
「‥わかったよ」
人徳がある奴に対して逆らうのは得策ではない。
変に逆らって恨みを買ったらどのような対応を取られるかわからない。
「おう。あんまりナリヤさんに迷惑かけんなよ」
ナリヤを気遣う言葉を残してリガードは去っていった。
リガードはこのナリヤという愛想の悪い女に夢中のようだが俺はこの女の性格の悪さを知っている。
今もその鉄面皮は崩れていないが、感情によって変化する鼓動の音は誤魔化せていない。
俺に演技や嘘は通用しない。
故にこのナリヤという性悪女のことが大嫌いだった。
「それで?すぐ行けばいいのかな?」
殺意を込めて聞いてやるとナリヤの鼓動の音は恐怖によって早まった。
「はい。ついてきてください」
そんな様子を全く表に出すことなくナリヤは先導するように歩き出した。
「どうした?怖いのか?」
心中を見透かすことのできる俺にとってそんな虚栄心は意味をなさない。
「‥それはどのような意味でしょうか?」
何事もないように振る舞うナリヤだがまた心臓が刻む音が速くなったのがわかった。
「そのままの意味だ。お前は俺恐れいるんだろう?」
ナリヤは応接室の前で立ち止まった。
図星を突かれて動揺によって身動きが取れないようだ。
「何を‥」
反応は顕著だった。
顔が青白くなり、呼吸が若干乱れている。
「お前はリガード達の影に隠れてないと何も言えない臆病者だって言ってんだよ」
鬱憤を晴らすためにナリヤの瞳を睨むように覗き込み、凄んでみせた。
「くッ、あなただってリガードさん達に怯えていたくせに!」
臆病者という単語に強く反応している。
荒く息を吐いて威嚇するように此方を睨みつけてくるが全く恐怖を感じない。
「本気でそう思うのか?リガード達が俺と戦って勝てるとでも?」
戦えば不利益が生じるが、勝てないわけではない。
単独で全滅させる自信がある。
そうしないのは単純に意味がないからだ。
「うッ、で、でもマスターならあなただって!」
マスターと呼ばれる男の名はセグル。
絵に描いたような優男である。
しかし剣鬼の異名を持つ化け物でもある。
だが近接戦闘なら奴であっても容易に殺せる確信があった。
「あいつは確か剣術ができるらしいが所詮その程度だ。それとも俺に剣が当てられるとでも?」
ナリヤは悔しさを表情に浮かべて唇を噛んだ。
俺の戦闘能力についてナリヤはある程度知っている。
セグルでは相性の問題で俺には絶対に勝てないということを改めて理解できたことだろう。
「‥この捻くれ者!」
ナリヤは糾弾する様に此方を罵倒するがそれは褒め言葉でしかない。
更に挑発しようと口を開きかけた。
しかし応接室の扉の向こうから声が聞こえた。
「入りなさい」
有無を言わせぬ威圧感のある声にナリヤは肩を震わせて恐る恐る扉を開けて入室する。
俺も仕方なく後に続く。
「よくきてくれた」
豪奢な作りの椅子に腰掛けるのは端正な顔立ちをした青年だった。
「いえ、遅くなって申し訳ありません」
ナリヤが深く頭を下げる。
その姿を横目で見ながら、俺は腕を組んでセグルを見た。
こいつはこの若さで高い地位まで上り詰めた曲者だ。
貼り付けた笑顔に歪みはなく完璧なように思える。
だがそれは演技であることを俺は知っている。
こいつは一度たりとも心音も呼吸も乱さずに生活している。
人間なら普通は感情が動けば鼓動の音が変化する。
しかしこのセグルという男はそれがない。
つまりそれはこいつの精神は既に常識から逸脱したものになっているということを意味する。
「大丈夫だよ。頼みを聞いてくれてありがとうね」
優しい声音でナリヤを気遣うセグルだが俺からしたらその言葉は白々しく聞こえた。
「いえ、そんな‥」
ナリヤは恐縮してしまい強張った表情で戸惑っている。
「それはいいからさっさと用向きを言ってくれないか?」
ナリヤに構わず俺は自身の都合を優先させた。
セグルは胡散臭い微笑を受かべ、観察する様に此方を見た。
「ああ、すまないユウ君。君はゴランダを殺してくれたそうだね。ありがとう」
セグルは真摯な態度で感謝の意を示した。
逆にそれを不快に感じた俺は自分でも顔が引き攣るのがわかった。
「‥それはいいから用件を言え」
急かす俺の言葉にナリヤは咎める様な表情をしたものの何も言わなかった。
それは先程の言い合いで俺には何を言おうが意味がないということを理解したからだろう。
「わかった‥今回君がゴランダから助け出したあのエミリーというエルフの少女の護衛についてほしいんだ」
エミリーというのは先程売り払おうと思っていた少女のことだというのはわかるが何故護衛をしなくてはならないのか疑問だ。
「お偉いさんの娘なのか?」
俺の質問にセグルは苦笑して答えた。
それはある種の諦観にも似た表情だった。
「ああ、そうなんだ彼女にはエルフの高貴な血が流れている。それも相当に地位の高い立場にある」
そのような特権階級を持つ者が絡む話を聞くと胃が痛くなる。
吐き気を殺すために歯を強く噛み合わせた。
「‥そうか‥ということは狙われているんだな?」
ただの護衛だけなら俺を雇わなくてもリガード達のような三流でもなんとかなるだろう。
だが俺みたいな扱い辛いやつを指名したのにはなんらかの理由があるはずだった。
「そうだ‥彼女は後継者争いに巻き込まれて命を狙われている。だから凄腕の君に頼みたいんだ」
俺は後継者争いという言葉を聞いた途端ことの重大さを理解した。
つまりあのエミリーとかいうエルフの王族だということだ。
「‥随分と大役を任されたものだな」
俺の皮肉にセグルは気づいた様子もなく淡々と頷いた。
「そうだね。でも君にはできるよ僕は確信しているよ。だって君は僕よりも力があるからね」
それは言外に俺の方が自分よりも強いと認める言葉だった。
そしてそれは事実だ。
俺はこの剣鬼の異名を持つ超人に対して確殺できるような手札を持っている。
「ふん‥いいだろう。受けてやるよその依頼。だが報酬は弾んでもらうぞ」
どうせ断ることなどできない。
断れば仕事を回してもらえなくなる可能性があった。
そうなれば俺はこの酒場の奴らを意趣返しとして皆殺しにしなくてはいけなくなってしまう。
それはあまりに非生産的で面倒臭いことだ。
セグルは俺の言葉に素直に頷いて皮袋を取り出した。
机に置かれた袋の中身を見てみると金貨が数えきれないほど詰まっていた。
「ッこれは!おい‥おいおい」
興奮から思わず叫んでしまう。
この大量の金貨が有れば人生を遊んで暮らせるほどだった。
セグルは意味ありげに微笑んで更にもう一つ皮袋を取り出した。
それは最初のよりも数倍の大きさがあった。
「今君が手にしているのは前金だ。そしてこの依頼を成功させたあかつきにはこれも君のものだ」
自分でも唾を飲み込むのがわかった。
もうこの仕事を受けない手はない。
「俺にはお前が女神様に思えてきたよ」
普段なら絶対関わり合いになりたくない男だが今は性別の垣根を超えてキスしてやりたい気持ちになった。
「あはは、君にそう言ってもらえるなんて光栄だね。じゃあ受けてもらえるってことでいいんだね?」
セグルの念押しに俺は深く頷いた。
こんなに美味しい仕事は今逃せば一生ないだろう。
「ああ、是非とも任せてほしい」
俺は自分でも気分が有頂天になっているのがわかった。
しかしそれも無理はない。
ただの護衛でここまで破格の報酬を得られるのは貴族令嬢の護衛以来だ。
「嬉しいよこれからもいい付き合いをしようじゃないか、ユウ君」
気持ちの悪いセグルの言葉に普段なら一蹴するところだが今回は差し出されたその手を素直に握ってやることにした。
「ああ、この依頼が終わったらここともお前ともおさらばだ」
俺の酷すぎる言葉にセグルは苦笑を浮かべただけで怒りの表情さえ見せなかった。
事実心音も変化なし。
本当に君の悪い男だ。
「酷いな‥僕は君とは仲良くしたいのにいつも片思いだよ」
その言葉に嘘の色はなくて本当に気持ちが悪かったので俺は咄嗟に腕を引っ込めた。
「‥お前のは冗談なのか本気なのかわからないんだよ」
全てが嘘なのか全てが本心なのかどちらなのか本当に見当もつかない。
「僕はいつも本気さ」
さも心外そうに傷ついた表情を浮かべてセグルは言った。
その内心を押し測ることができるのは俺で駄目ならならあとは神様だけだろう。
「はいはい。わかったわかった。じゃあ俺はこれで帰っていいか?今日はこの金で豪勢な夜にしたいんだ」
俺がそう言うとセグルは悲しそうな表情を浮かべて言った。
「そうか‥残念だ。前祝いにこれから三人で飲もうと思っていたのに」
あまりにもゾッとしないことを言ってセグルは酒瓶を取り出した。
おそらく相当の年代もののワインであることがその高級感あふれる包装からうかがえる。
「そ、そうなのか‥ちなみにそのワインってどれくらい美味いんだ?」
俺の問いかけにセグルは意味深に笑みを浮かべて何処からかグラスを取り出して、そこにワインの中身を注いだ。
「試しに飲んでみるかい?」
毒の可能性を考慮したがセグルに俺を殺すメリットがない。
今は俺に利用価値があるから殺す必要性がないのだ。
「じゃ、じゃあ一口だけもらおうかな」
誘惑に屈した俺に冷たい視線を向けるナリヤを横目に見ながらグラスに口をつける。
舌に感じる極上の美味さに俺は思わず歓声をあげそうになった。
「これは‥美味いな」
賞賛の言葉にセグルはもう一本瓶を取り出して言った。
「まだまだあるんだ。これ以外にも君の気にいりそうなものを厳選してきたからね」
俺は合理的な思考で今の状況を把握することに努めた。
瞬間的に俺は結論を導き出した。
「それはご相伴に預かりたいな」
セグルは嫌いだが酒に罪はない。
隣のナリヤが呆れるようにため息を吐いたのがわかった。
「‥俗物ですね」
今の一言は俺の心を大いに傷つける侮辱だったがワインを飲めばそれすらも面白く感じた。
「俗物ですね‥俗物ですねだって‥くッはははははは!」
今は将来への不安や普段から命を狙われている現実が忘れられた。
俺の様子を見てナリヤはうんざりとした表情でセグルに言った。
「どうするんですかこれ。ユウさんはこうなると話が通じなくなってしまうんですけど」
セグルは心底楽しそうな笑顔で返した。
「いいんだよこれで。僕はこう言う雰囲気が好きなんだ。だからナリヤ君も飲んでくれ」
セグルはワインを注いだグラスをナリヤに渡した。
ナリヤは諦観の表情を浮かべて口をグラスにつけた。
「あ、これすごく美味しいいですね。飲みやすいですし」
ナリヤもどうやらこのワインが口にあったようだ。
趣味が似ていることに意外性を感じた俺はナリヤの肩を叩く。
「だよな!美味しいよなこれ!今まで飲んだ中でも一番だぜこれ!」
あまりにも美味しいので水でも飲むかのように飲めるワインだ。
なんだか頭の中が熱くなってきやがった。
「‥ユウさんと同意見なのは癪ですけど‥そうですねこれはすごいです。マスター‥これっていくらだったんですか?」
ナリヤの問いにセグルは躊躇することなく自然体で答えた。
「これ一本で家が建つね」
ナリヤが驚愕に目を見開いてワインを見た。
その言葉に嘘はないだろうことはこのワインの味が証明していた。
「そ、そうなんですか?どうりで美味しいわけですね‥」
根が小心者のナリヤの手は若干震えていた。
揶揄うように俺は言った。
「なんだよびびってんのか?確かにこんな美味い酒お前の人生じゃもう一生飲めないかもな」
ナリヤは額に青筋を受けベ、挑むように此方を見据えた。
「なんですって?私はこの程度のものいくらでも奢ってもらったことがあります。あなたこそ安定した収入も得ることができない癖に何を偉そうに‥」
ナリヤは早口で言い切ると一気にワインを飲み干した。
あまりに勿体無い飲み方に俺は愕然とした。
「おいおい、飲み方もわからねぇのか。まだまだお子様だな」
俺の挑発に答えたのはナリヤではなくセグルだった。
「大丈夫さ。まだまだ夜は長い。それにいくらでも酒ならあるから好きなだけやってくれればいい。僕はそれで満足だ」
何に満足するのかわからないが、こいつは何故飲まないのか気になった俺は問いかけた。
「せっかく大金出して買ったのにその本人は飲まないのか?」
俺の問いに悲しそうな表情でセグルは言った。
「僕はお酒が飲めないんだ。でも気にしないでいいよ。僕にはこれがあるから」
そう言って掲げたグラスの中には白い液体が注がれていた。
甘い匂いが漂うそれはミルクだということがわかる。
「‥本当のお子様はお前だったんだな‥」
剣鬼の異名を持つこの男が酒の代わりにミルクを飲んでいるなど流石に驚きを隠せない。
「あはは、耳が痛いね。でもミルクもいいよ。美味しいし体にも良い。そして何より二日酔いもないからね」
ナリヤは苦笑を浮かべてグラスを傾けるセグルの様子を眺めていた。
「ユウさんにもマスターを見習ってほしいですね」
ナリヤは横目で此方を見ながら不満そうに肩をすくめた。
その普段なら苛立ってしまいそうな仕草にも今の俺はいくらでも寛大になれる。
「確かに酒が飲めないなんて安上がりでいいな」
俺の言葉にナリヤは我が意を得たりとでも言うかのように深く頷いた。
その表情からは普段見せることのない強い感情の色が窺えた。
「そうなんです。ここの人たちはお金使いが荒い人たちばかりです。でも‥マスターだけは違います。しっかり倹約して生活していていて‥」
ナリヤの言葉は事実で、このセグルという男は煙草も酒も賭け事を好まない。
娼館などに一度たりとも行ったところを見たことがない。
一体何を生き甲斐にして生きていると言うのだろうか。
知れば知るほど謎めいた男だ。
「いや、僕は単にそういうのは肌に合わないというだけで、それなりにお金は使っているさ。現にこのワインもそうさ」
柔和な笑みからは自慢や皮肉の感情は読み取ることはできない。
本心からそう思っているのだとしたら極度のお人好しか変人だろう。
「ワインって‥お前は飲んでないだろうが」
俺が茶々を入れるとセグルは困ったように片眉を下げて言った。
「これは君にそれ程期待していると言うことだよ。これはいわば投資さ。君には万全の状態でこの依頼に挑んでほしいからね」
その言葉だけはセグルの本心であることが俺には確信できた。
「万全と言っておきながら酒か‥」
俺の呟きにセグルは苦笑して言った。
「これでは駄目だったかい?でもユウ君はワインが好きって話だったけど」
その情報は一体何処から仕入れたいのか気になるところだ。
その薄気味悪さに背筋に悪寒が走る。
「‥ああ‥その通りだが‥」
しかし今はその事を問い詰める気にはならない。
久々の上等なワインを一気に呷る。
「任務成功を願って」
セグルはグラスを持って正面に掲げた。
その中身がミルクであっても気品が滲み出ているのは流石だった。
お互いに掲げあって口に含んだ。
セグルは爽やかな満面の笑みで俺を見つめている。
その視線に気まずくなって目を逸らした。
横目でナリヤを見た。
酒が回っているのか瞳は潤んで頬がほんのりと赤く紅潮している。
「ユウさんは物事に対して斜に構えすぎなんです」
突然挑むような眼差しで此方に捲し立てるナリヤに思わず言葉を失った。
酔いが回りすぎて普段の毅然とした態度はなりを潜めている。
「いきなりだな‥」
何を言っていいか分からず上手い言葉が出てこない。
「いいですか‥権力者と見れば突っかかっていくのはいい加減大人なんだから治した方がいいです」
腰に手を置いてそう言い放つナリヤに俺はうんざりして耳を手の平で塞ぐ。
「セグル‥こいつをどうにかしてくれ」
セグルは苦笑を浮かべて肩をすくめる。
「こうなってしまった彼女は僕でも手に余るんだ」
ため息を吐いてナリヤ未だ説教を続けているナリヤを見た。
「あー、ちゃんと聞いてください。いいですか。ユウさんはもっと落ち着いた方がいいんです」
上から目線で語るナリヤは得意げな表情で俺を見た。
「落ち着いてるだろ俺は」
俺のせめてもの反論が気に障ったのかナリヤは眦を吊り上げて威嚇するように此方を睨む。
「それは労働意欲がないだけです。本当に落ち着いた大人の男性はマスターみたいに‥」
俺は続く言葉を中断させるためセグルに向き直った。
「おまえのところの受付嬢は教育がなってない」
俺の的確な意見に対してセグルは全く悪びれもしない笑みで答えた。
「それはすまない。しかし、なら君が彼女を教育してくれないかな?」
セグルの冗談をそのままの意味で受け取ったナリヤが声高に叫ぶ。
「逆ですよマスター!わたしがユウさんを教育するんです!こんな精神年齢が低い人に教えられることなんてないです!」
セグルは無言の笑みを崩さずにひたすら頷いている。
「あははは‥ナリヤ君はこう言っているけどユウ君はどう思う?」
問われたので正直な思いを口に出す。
「こんな女と一緒にいるぐらいなら娼婦の方がまだ有意義な時間を過ごせるだろう」
俺の侮辱の言葉にナリヤは恥辱に表情を歪めて此方へと急激に距離を詰める。
「なんですかそれ‥どういう意味ですか!」
ナリヤは怒りを露わにして俺の襟首を掴みにかかる。
俺は後ろに後退して軽々と余裕をもって交わす。
「待ちなさい!」
それでも諦めた様子はない。
更に怒気を強くして襲い掛かってきた。
しかしそんな単調な動きにつかまるような愚は犯さない。
俺は避けることなくにナリヤの懐に踏み込んで額を指でこづく。
「きゃッ」
普段は絶対に発しない可愛らしい悲鳴をあげて床に尻餅をついた。
呆然とした表情で此方を見上げていたナリヤは次第に眦に涙を滲ませて大声で泣き始めた。
「う‥ううう」
涙まで流し始めるナリヤ。
その姿は多分に男の庇護欲を誘う。
思わず謝罪しようと一歩足を歩ませた。
するとどういうわけかナリヤは突然俺の胸倉を掴んで自分の側へと引き寄せた。
完全な不意打ちに俺はされるがままだった。
「ひっかかりましたね」
眼前にあるナリヤの口の端が意地悪く吊り上がる。
先程の涙が演技だった事を悟った時には遅かった。
腕を組まれて身動きが取れない。
ナリヤの心臓の音は酔いが回りすぎて聞き取れない。
そして急激に身体を襲う虚脱感。
「うッ‥今更副作用が‥」
アルコールの酔いと副作用の二乗効果で目眩がする。
「もう‥大丈夫ですか?」
ナリヤは先程とは一転気遣う様子を見せてきた。
セグルは立ち上がって俺の顔を此方を覗き込んでくる。
「今日はもう此処で寝た方が良さそうだね」
一言呟いて俺の身体を抱き上げようと手を伸ばした。
俺は咄嗟に身を引いた。
「おいおい‥流石に野郎に抱かれる趣味はないぞ」
怠い身体を床に這わせてなんとか備え付けのソファーに横たわる。
「おっとこれは残念‥でも流石に休養をとった方がいいのかな。どうする今回の依頼はやめておくかい?」
眦を垂れて此方を心配そうな表情で伺うセグルに俺は自分でもわかるほどの強がりを言った。
「これぐらい全然平気だ」
身体は薬の恩恵を消失させて酷使した肉体を痛みが蝕んでいるが明日には多少は軽減されるだろうことに予想をつける。
「そうか‥それは良かった‥。どうする?僕たちはここから退場した方がいいかな?」
ナリヤを一瞥してセグルは言った。
しかし、ナリヤの表情は不本意であるという感情を露わにしていた。
「マスター‥ユウさんをのままにするには不味くないですか?」
ナリヤの言葉にセグルは愉快そうに笑みを浮かべて揶揄うようにナリヤに答える。
「おや、君がそのようなことを言うとは珍しいね。いいともではナリヤ君が彼の面倒を見てあげるといい」
言ってセグル優雅な足取りで部屋を出て行こうとする。
ナリヤは慌てて言い繕った。
「いえ、わたしはユウさんがあまりにも具合が悪そうでしたから‥」
セグルは歩みを止めずに笑みを零して言った。
「君がそれでいいならそういうことにしてあげよう。では僕はこの後ちょっとした用事があるから失礼させてもらうよ」
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