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儀式
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お経の唱えられる音が一室へと響いては聞こえていた。
時分は既に夜半を回っており、その声は、嫌に大きく翔太の耳に聞き届けられた。
その部屋は最早翔太が知っている場所では無く、其処には薄暗い延々と続く闇が覆っている様に感じられた。
ただ、住職が祈祷を唱えている所だけが、僅かながらの蝋燭の灯りがあった。
寺への連絡を入れてから、特段時間も経たずに住職はこの家へと訪れた。
住職の男の装いは、恐らく正装だろう。
黒一色に統一された装いは翔太にとっては、不吉に感じられた。
けれどそんな彼の心中とは対称的に、よしえとかんぞうは快く住職を迎え入れた。
そして予め言われた通りの物を準備していた、同所の部屋に皆が全て居合わせて今へ至る。
そんな塩梅の最中で、よしえとかんぞうの間に翔太は挟まれて、ひたすらに無言で目を瞑り、彼は正座をしていた。
ぼんやりとした蝋燭の光が夜闇の中に輝き、照らされたそのほのかな灯りに翔太は魅入られている。
聞こえてくる念仏に翔太は聞き入るとしかし、それにより一層恐怖を煽られた。
焦燥に拍車を掛けて、殊更に嫌悪も増していた。
不意に翔太は、部屋の隅に広がる闇を視界の端に捉え、再びきつく痛い程に瞳を閉じた。
数刻もの間、只々ひたすらに翔太にとって理解出来ない言葉が住職の口から吐き出された。
まるで耳鳴りの様な感覚を得て、既に翔太はそのお経を聞いていなかった。
加えて頭痛も襲い来て、最早感情を乱されて、正気を保つのに精一杯だった。
部屋の端から湧き上がる様な闇が、自らに座る所へと迫る様な感覚に翔太は苛まれた。
蠢く夜闇を照らすのは一本の蝋燭のみで、それが彼にとって心底から恐ろしかった。
自らに纏わりつく様な真っ黒な闇は、執拗に僅かながらに光をも、覆い隠してしまう様だった。
耳鳴りが酷い。
甲高い硝子同士を擦り合わせたかの様な音が、脳裏へと響いている。
留めなく流れる汗が背筋を伝い、けれどそれに相反して、肉体は冷えていく感覚に陥る。
その身に余りある不安は、次第に翔太の情緒を掻き乱し、遂には限界を迎えようとしていた。
彼は最早体勢を崩し、既に正座もままならない様だった。
更には妙に口が渇き、ドロドロとした不快な唾液の存在を殊更鮮明に翔太には感じられた。
そんな堪え難い時間を経て、漸く住職の口とされていた言葉が止まる。
静止した男は、一度中断の旨を宣言して、翔太を真正面に見据えた。
その瞳は焦点を外れて、確かに翔太を映している筈なのに、けれど異なる存在を捉えている様に感じられた。
住職の男は翔太を双眸に視て言った。
「それでは翔太くん。これを」
そうして差し出されたのは皿の上に乗せられた真っ白な塩である。
それを眼下に翔太は予め聞き及んでいた手順通りに教えに則り、それを少しだけ手に取って口へと含む。
ただ、味は特段感じられる事も無く、気休めではあるが、少なからず耳鳴りがおさまった様に思えた。
だがやはり心臓の鼓動は早鐘の如く鳴り響き、焦燥は未だ消えなかった。
依然として胸の内から湧き上がる吐き気はあり、重たい身体は翔太の動きを鈍らせていた。
倦怠感に苛まれて、彼は住職の男から言われている言葉を正確に理解出来ていなかった。
無論住職の男が立ち上がり、何かをしているのは見えたが、それに対して意識を割く余裕すら翔太には無い。
今はただ、耐えている事しか出来ないのだ。
頭上で何かが取り行われ、果たしてそれが終えられたのか、住職の男は再びお経を唱え出した。
そうして続くお経は、一夜の間延々と唱えられた。
そして耐え難い時間を過ごして、気が付けば光が一室へと差し込んでいるのを目の当たりとして、漸く日の出を見た。
未だ同所は家内とあって薄暗いが、無事に日付を跨いで今へと至り、満を持して住職の言葉は終わりを迎えた。
「はい。翔太君。これで君は大丈夫だ。安心して後は身体を暖かくして眠りなさい」
もたらされた住職からの宣言は、翔太へと安堵を与えた。
それも一際強力で、緊張を解かれた翔太は姿勢を正座から完全に崩し、一息に胸を撫で下ろした。
そして喉が無性に乾いているのに彼は気が付いた。
自らが強烈に水を求めているのを自覚して、翔太は住職の男へとその旨を伝えた。
「構いません。けれどまだ外には出ないように」
「はい」
そうして忠告を受けた翔太は素直に頷きを返してかんぞうに伴われ共にのぞを潤しに向かった。
依然として家中は薄暗いが、どうやら外は既に明るい様だった。
それを廊下の窓越しに確認しながら横目に景色を見た。
其処には自然があり、何ら不自然な感覚も覚えなかった。
最早先程まで感じていた違和感の様なものも無く、自然と目に映る光景を受け入れる事が出来る。
そして台所でコップ一杯の水を喉へと流し込み、今までの鬱屈とした気分が晴れていく様な感覚を得た。
緊張は既に解け、儀式を終える前の心境と今とでは明らかに相違がある。
それはまるで心の闇が晴れていくかの如き、解き放たれた開放感があった。
「良かったな翔太」
「うん。じいちゃんはへいき?」
するとそんな表情を緩めた己が孫を見てかんぞうは笑顔を浮かべていた。
翔太も釣られて今度こそ曇りのない正真正銘の、満面の笑顔をかんぞうへと向けた。
互いに笑い合い、やり取りを交わした後に、再び先程まで居た一室へと戻るべくして足を運ばせた。
だが、部屋に入ると今し方まで居た住職の姿が其処にはなかった。
一体何処へ行ったのだろうか。
「婆さん、住職さんは?」
「ええ、さっき他の部屋で一人にしてくれと言ったきり、出てこないんですよ」
どうやらよしえが語るには、隣室へと移り、何やら片付けでもしているらしい。
そう判断したかんぞうは特段気を払う訳でも無く、頷いて応じた。
次いで後の段取りを決めるべくして言葉を繋ぐ。
「それなら待っている間に、住職さんも朝食を共にして頂くからには、腕によりを掛けきゃならんな」
「はい。そうですね~」
続くかんぞうの言葉に対してよしえは穏やかなに微笑みを返して立ち上がる。
「と、ちとこの体勢は無理があったみたいだねぇ」
その際に危ういながらも如何にか体勢を整え直して完全に直立した。
「じゃあ、翔太。じいちゃんは朝飯を作ってくる。だから婆さんと二人で、住職さんが来るまでここで待ってるんだぞ」
「わかった」
「それじゃぁ翔太や。一緒に花札でもしようかねぇ」
するとかんぞうはそう翔太へと穏やか表情で言い聞かせて踵を返し、部屋を出ていった。
次いで何処からか小箱を手に持って来たよしえは、翔太を机の前へと連れて、卓上へとそれを置いた。
そうして約束していた花札を共にする運びとなり、翔太はもう既に儀式を終えた後であるからか、心置き無くそれを楽しめた。
そして心底からよしえとの花札を楽しんている所に、暫くの時間を経て先程に台所へと向かったかんぞうが姿を現した。
彼は料理の盛り付けられ皿が乗せられた盆を手にしていて、それを卓上へと置いた。
どうやら朝食の用意を終えた様だ。
綺麗に料理されて、盛り付けられた食材からは大いに食欲を刺激するだけの香りがした。
だがかんぞうは視線を部屋へと巡らせて疑問を投げ掛けた。
「出来たぞ。‥しかしまだ住職さんは見られないのか」
「ええそうなんですよ。流石に何かあっては不味いですからあまり遅い様でしたら、様子を見に行きましょう」
問いに受け答えたのは当然ながらよしえだ。
彼女とてまた同様かんぞうに倣い、孫との遊びに興じながらも、一方では未だ住職がこの場に訪れないその事を、不思議に思っていたらしい。
だが嫌な予感を抱いてまた暫くの時を経た。
翔太を含めた三人が談笑を交わしていたのも束の間。
同所へと居合わせている誰もが違和感を覚えた。
片付けを行うにしても流石に時間を要し過ぎている。
そう、何故ならば住職が隣室へと姿を消してから既に半刻は経っている。
どれだけ待てど住職はこの場に姿を現さなかったのだ。
であれば自然と行き着く結論は、住職の身に良く無い何かがあったのだとしか思えない。
それ程住職の男はよしえとかんぞうと同様年配な為、恐らくは杞憂であれど、心配からその身の安全を確認するに越した事はない。
住職の体調を案じたよしえとかんぞうの二人は、まさか彼が部屋で一人倒れているのではあるまいかとも疑った。
或いは何かしら声が出せない状況にあり、苦しくとも助けを求める事が出来ないのか。
次第にその疑念は高まり、かんぞうはこの場へと残り、よしえが様子を窺いに行く運びとなった。
まさかとも考えたが、やはり何か住職の身にあったのだと踏んだらしい。
そう判断を下したよしえは隣室へ様子を確認しに向かった。
「これはッ」
そして数秒と掛からずおかしな事に、間髪入れず小さな悲鳴染みた声色がこの場へと響いては聞こえてきた。
もたらさえたその声の主は無論よしえだ。
唐突に予期しないそのよしえの反応にすぐさまかんぞうは動き出していた。
「翔太はここで待っていろ」
「う、うん」
そう言い残して即座に立ち上がった彼は、その年齢に見合わぬ動きで隣室へと足早に向かった。
そうして一人、同所へと取り残された翔太ははたと気付く。
先程までは自分が以外にも側によしえかかんぞうが付いていてくれたからこそ、不安もまた抱かなかった事に。
だが今では異なり、今し方まで翔太の隣へと穏やかな笑顔を浮かべて座っていたよしえとかんぞうは、隣室へと向かっていた。
故に翔太の傍らには早朝であれど薄暗い闇が依然として存在しているのみであり、正真正銘の一人だった。
やはりそうなると否が応にも孤独に苛まれ、自ずと翔太の胸の内からは焦燥が湧き上がる。
加えて昨日は一睡もしてない手前、寝不足も相まって殊更に翔太の心身を苛む。
その様な塩梅の最中、翔太は視界の端に違和感を捉えた。
否、気配と称していいかもしれない。
だから思いがけずして不意に感じたその感覚に委ねて窓の外へと視線を向ける。
思わず覗いてしまった窓枠のその先の向こう側には、硝子越しであれど鮮明な程に白い衣服が見えた。
それも至極近くにそれはあり、恐らくは腰の辺りだろうか。
下半身の肉体の豊満な起伏が薄い生地の服に包まれて其処にはあった。
途端、これを目の当たりとした翔太の脳裏へとあの畦道で経験した体験が過ぎる。
その身に刻まれた光景が再び彼の情緒をかき乱しに襲い来る。
窓枠越しに見えるのはワンピースに包まれた巨大な女の足だ。
確かに柔らかそうな太腿は女性特有の丸みは帯びてはいるものの、凡そ人間とはかけ離れている程、あまりにそれは大きく現実味を薄れさせて、強烈な違和感が翔太の元へともたらされた。
更には、その人間の太腿に酷似していると思える部位が正面にあり、恐らくは腰だろうと見えるモノが天井程にくると言う事は、一体どれだけの体長があるのか。
無論、その女の顔は屋根に見切れていて其処から上の様子は判然としない。
窓枠の向こう側にある、硝子一枚を隔てたその女の様子は微動だにする事は無い。
だが、翔太はそれでも今眼前にある得体の知れない存在が心底から恐ろしい。
ヒトの形をしているのに、それにも関わらず酷い違和感を拭いきれない、ナニカが其処には居た。
その存在は何をする訳でも無く、ただ窓越しに翔太の方向へと身体を向けて佇んでいた。
だがそれからもたらされるのは強烈な焦燥と共に身に余る恐怖である。
故にその感じたあまりの怖気からか、翔太はすぐさま衝動的に立ち上がり後ろへと後ずさっていた。
ただ、一歩退けばもう其処からは流れる様に翔太は隣室のよしえとかんぞうの所へと駆けていた。
無論屋内とあって、当然ながらそれ程時間は必要としなかった。
以前ヒトでは無いナニカから逃げた時分よりも遥かにそれは近く、最早距離など無きに等しい。
次の瞬間には同所を後として一室を出た翔太は、あっという間に家の中を走り抜けて、すぐさま自らを庇護してくれるであろう者達の元へと辿り着いた。
そしてよしえとかんぞう二人の姿を目にした彼は安堵からか思わず確認の為に背後を振り返る。
だがやはり遠目に窺う窓枠の向こう側には、翔太の方向へと身体を向けた存在の姿が、依然として其処にはある。
未だその白くて見上げる程に巨大な女は、翔太を捉えていた。
だから彼はそれを目の当たりとして恐怖と嫌悪、そして強烈なまでの焦燥からもたらされる吐き気に支配された。
しかしそれに如何にか抗い、酷く重たい足取りでかんぞうとよしえ二人の元へと向かった。
次いで隣り合う彼等の傍らに翔太も並び立つ。
そして如何してか、隣室に一歩たりとて踏み入れない隣に佇む、そんなかんぞうを翔太は疑問に思い見上げた。
するとかんぞうの表情は今までに翔太が見た事が無い程に険しく強張っている。
それを不自然に思い、翔太は顔を前方へと向けて未だ薄暗い室内へと視線を凝らそうした所で─
「見るな翔太っ!」
そう大声で言われて咄嗟に目を塞がれた。
かんぞうの手のひらで顔を覆われた翔太は疑問を呈す。
「どうしたの?」
「‥見ちゃいかん」
するとよしえも、まるで腹の底に響く様な同様に低くしゃがれた声色で翔太へと有無を言わせぬ強い物言いをした。
故に翔太はその言葉通り自らの瞳を瞑る。
そして次の瞬間には、更により一層険しいかんぞうの一声が同所へと響く。
「婆さん」
「‥はい。翔太、こっちに来ぃ」
そのよしえの平素では聞くことの無い強い口調を耳として、翔太はよしえに腕を取られて、目を瞑ったまま、この場を後とした。
今までに聞いたことの無いそんなよしえからもたらされた恐怖を押し殺した様な声により翔太は、隣室に今広がる光景だけは、己が決して見てはいけない事だけをただ漠然とその身に理解させられた。
そして何もわからないままに同所から立ち去った翔太は、この部屋への立ち入りを固く禁止された。
加えて、儀式は既に済んだというのに、外出することすらもままならず翔太には、外に一歩たりとて出るのさえ許されなかった。
それからというもの、別室で過ごした彼は、再びあの存在を見た事をよしえとかんぞうに切り出せなかった。
それ程までに彼等は酷く慌ただしく動き、切羽詰まっていたのだ。
そして後日、住職の死亡が確認され訃報が出回り、それが翔太の元にも自然と人伝にもたらされていた。
けれど完全な密室であった為、それ故に他殺の線は完全に失われた。
更には、住職の男が他者から特段恨みを買っていたという事も警察の捜査の結果では皆無である様だった。
それは無論、この地へと住まう村人等も平素から穏やかな振る舞いを心掛けている住職に限ってはあり得ないし、十分に納得出来る話であった。
当然ながら住職の遺体の第一発見者である、よしえとかんぞうも、それを身近に知り及んでいたし、寺との交流があった為に、充分に理解していた。
その為出た結論は、住職という務める役職が重積となり耐えかねて、心労から精神的な外傷を発症したが故の、ストレスからなる末路という内容だ。
果たして、一体どの様な因果か、死に誘われてしまったのだろうか。
そして公的機関の検死から出たその結果は、持病の発作や突然の心臓麻痺、或いは脳疾患などでは無いとの事である。
曰くその死因は、自殺だったのだという。
時分は既に夜半を回っており、その声は、嫌に大きく翔太の耳に聞き届けられた。
その部屋は最早翔太が知っている場所では無く、其処には薄暗い延々と続く闇が覆っている様に感じられた。
ただ、住職が祈祷を唱えている所だけが、僅かながらの蝋燭の灯りがあった。
寺への連絡を入れてから、特段時間も経たずに住職はこの家へと訪れた。
住職の男の装いは、恐らく正装だろう。
黒一色に統一された装いは翔太にとっては、不吉に感じられた。
けれどそんな彼の心中とは対称的に、よしえとかんぞうは快く住職を迎え入れた。
そして予め言われた通りの物を準備していた、同所の部屋に皆が全て居合わせて今へ至る。
そんな塩梅の最中で、よしえとかんぞうの間に翔太は挟まれて、ひたすらに無言で目を瞑り、彼は正座をしていた。
ぼんやりとした蝋燭の光が夜闇の中に輝き、照らされたそのほのかな灯りに翔太は魅入られている。
聞こえてくる念仏に翔太は聞き入るとしかし、それにより一層恐怖を煽られた。
焦燥に拍車を掛けて、殊更に嫌悪も増していた。
不意に翔太は、部屋の隅に広がる闇を視界の端に捉え、再びきつく痛い程に瞳を閉じた。
数刻もの間、只々ひたすらに翔太にとって理解出来ない言葉が住職の口から吐き出された。
まるで耳鳴りの様な感覚を得て、既に翔太はそのお経を聞いていなかった。
加えて頭痛も襲い来て、最早感情を乱されて、正気を保つのに精一杯だった。
部屋の端から湧き上がる様な闇が、自らに座る所へと迫る様な感覚に翔太は苛まれた。
蠢く夜闇を照らすのは一本の蝋燭のみで、それが彼にとって心底から恐ろしかった。
自らに纏わりつく様な真っ黒な闇は、執拗に僅かながらに光をも、覆い隠してしまう様だった。
耳鳴りが酷い。
甲高い硝子同士を擦り合わせたかの様な音が、脳裏へと響いている。
留めなく流れる汗が背筋を伝い、けれどそれに相反して、肉体は冷えていく感覚に陥る。
その身に余りある不安は、次第に翔太の情緒を掻き乱し、遂には限界を迎えようとしていた。
彼は最早体勢を崩し、既に正座もままならない様だった。
更には妙に口が渇き、ドロドロとした不快な唾液の存在を殊更鮮明に翔太には感じられた。
そんな堪え難い時間を経て、漸く住職の口とされていた言葉が止まる。
静止した男は、一度中断の旨を宣言して、翔太を真正面に見据えた。
その瞳は焦点を外れて、確かに翔太を映している筈なのに、けれど異なる存在を捉えている様に感じられた。
住職の男は翔太を双眸に視て言った。
「それでは翔太くん。これを」
そうして差し出されたのは皿の上に乗せられた真っ白な塩である。
それを眼下に翔太は予め聞き及んでいた手順通りに教えに則り、それを少しだけ手に取って口へと含む。
ただ、味は特段感じられる事も無く、気休めではあるが、少なからず耳鳴りがおさまった様に思えた。
だがやはり心臓の鼓動は早鐘の如く鳴り響き、焦燥は未だ消えなかった。
依然として胸の内から湧き上がる吐き気はあり、重たい身体は翔太の動きを鈍らせていた。
倦怠感に苛まれて、彼は住職の男から言われている言葉を正確に理解出来ていなかった。
無論住職の男が立ち上がり、何かをしているのは見えたが、それに対して意識を割く余裕すら翔太には無い。
今はただ、耐えている事しか出来ないのだ。
頭上で何かが取り行われ、果たしてそれが終えられたのか、住職の男は再びお経を唱え出した。
そうして続くお経は、一夜の間延々と唱えられた。
そして耐え難い時間を過ごして、気が付けば光が一室へと差し込んでいるのを目の当たりとして、漸く日の出を見た。
未だ同所は家内とあって薄暗いが、無事に日付を跨いで今へと至り、満を持して住職の言葉は終わりを迎えた。
「はい。翔太君。これで君は大丈夫だ。安心して後は身体を暖かくして眠りなさい」
もたらされた住職からの宣言は、翔太へと安堵を与えた。
それも一際強力で、緊張を解かれた翔太は姿勢を正座から完全に崩し、一息に胸を撫で下ろした。
そして喉が無性に乾いているのに彼は気が付いた。
自らが強烈に水を求めているのを自覚して、翔太は住職の男へとその旨を伝えた。
「構いません。けれどまだ外には出ないように」
「はい」
そうして忠告を受けた翔太は素直に頷きを返してかんぞうに伴われ共にのぞを潤しに向かった。
依然として家中は薄暗いが、どうやら外は既に明るい様だった。
それを廊下の窓越しに確認しながら横目に景色を見た。
其処には自然があり、何ら不自然な感覚も覚えなかった。
最早先程まで感じていた違和感の様なものも無く、自然と目に映る光景を受け入れる事が出来る。
そして台所でコップ一杯の水を喉へと流し込み、今までの鬱屈とした気分が晴れていく様な感覚を得た。
緊張は既に解け、儀式を終える前の心境と今とでは明らかに相違がある。
それはまるで心の闇が晴れていくかの如き、解き放たれた開放感があった。
「良かったな翔太」
「うん。じいちゃんはへいき?」
するとそんな表情を緩めた己が孫を見てかんぞうは笑顔を浮かべていた。
翔太も釣られて今度こそ曇りのない正真正銘の、満面の笑顔をかんぞうへと向けた。
互いに笑い合い、やり取りを交わした後に、再び先程まで居た一室へと戻るべくして足を運ばせた。
だが、部屋に入ると今し方まで居た住職の姿が其処にはなかった。
一体何処へ行ったのだろうか。
「婆さん、住職さんは?」
「ええ、さっき他の部屋で一人にしてくれと言ったきり、出てこないんですよ」
どうやらよしえが語るには、隣室へと移り、何やら片付けでもしているらしい。
そう判断したかんぞうは特段気を払う訳でも無く、頷いて応じた。
次いで後の段取りを決めるべくして言葉を繋ぐ。
「それなら待っている間に、住職さんも朝食を共にして頂くからには、腕によりを掛けきゃならんな」
「はい。そうですね~」
続くかんぞうの言葉に対してよしえは穏やかなに微笑みを返して立ち上がる。
「と、ちとこの体勢は無理があったみたいだねぇ」
その際に危ういながらも如何にか体勢を整え直して完全に直立した。
「じゃあ、翔太。じいちゃんは朝飯を作ってくる。だから婆さんと二人で、住職さんが来るまでここで待ってるんだぞ」
「わかった」
「それじゃぁ翔太や。一緒に花札でもしようかねぇ」
するとかんぞうはそう翔太へと穏やか表情で言い聞かせて踵を返し、部屋を出ていった。
次いで何処からか小箱を手に持って来たよしえは、翔太を机の前へと連れて、卓上へとそれを置いた。
そうして約束していた花札を共にする運びとなり、翔太はもう既に儀式を終えた後であるからか、心置き無くそれを楽しめた。
そして心底からよしえとの花札を楽しんている所に、暫くの時間を経て先程に台所へと向かったかんぞうが姿を現した。
彼は料理の盛り付けられ皿が乗せられた盆を手にしていて、それを卓上へと置いた。
どうやら朝食の用意を終えた様だ。
綺麗に料理されて、盛り付けられた食材からは大いに食欲を刺激するだけの香りがした。
だがかんぞうは視線を部屋へと巡らせて疑問を投げ掛けた。
「出来たぞ。‥しかしまだ住職さんは見られないのか」
「ええそうなんですよ。流石に何かあっては不味いですからあまり遅い様でしたら、様子を見に行きましょう」
問いに受け答えたのは当然ながらよしえだ。
彼女とてまた同様かんぞうに倣い、孫との遊びに興じながらも、一方では未だ住職がこの場に訪れないその事を、不思議に思っていたらしい。
だが嫌な予感を抱いてまた暫くの時を経た。
翔太を含めた三人が談笑を交わしていたのも束の間。
同所へと居合わせている誰もが違和感を覚えた。
片付けを行うにしても流石に時間を要し過ぎている。
そう、何故ならば住職が隣室へと姿を消してから既に半刻は経っている。
どれだけ待てど住職はこの場に姿を現さなかったのだ。
であれば自然と行き着く結論は、住職の身に良く無い何かがあったのだとしか思えない。
それ程住職の男はよしえとかんぞうと同様年配な為、恐らくは杞憂であれど、心配からその身の安全を確認するに越した事はない。
住職の体調を案じたよしえとかんぞうの二人は、まさか彼が部屋で一人倒れているのではあるまいかとも疑った。
或いは何かしら声が出せない状況にあり、苦しくとも助けを求める事が出来ないのか。
次第にその疑念は高まり、かんぞうはこの場へと残り、よしえが様子を窺いに行く運びとなった。
まさかとも考えたが、やはり何か住職の身にあったのだと踏んだらしい。
そう判断を下したよしえは隣室へ様子を確認しに向かった。
「これはッ」
そして数秒と掛からずおかしな事に、間髪入れず小さな悲鳴染みた声色がこの場へと響いては聞こえてきた。
もたらさえたその声の主は無論よしえだ。
唐突に予期しないそのよしえの反応にすぐさまかんぞうは動き出していた。
「翔太はここで待っていろ」
「う、うん」
そう言い残して即座に立ち上がった彼は、その年齢に見合わぬ動きで隣室へと足早に向かった。
そうして一人、同所へと取り残された翔太ははたと気付く。
先程までは自分が以外にも側によしえかかんぞうが付いていてくれたからこそ、不安もまた抱かなかった事に。
だが今では異なり、今し方まで翔太の隣へと穏やかな笑顔を浮かべて座っていたよしえとかんぞうは、隣室へと向かっていた。
故に翔太の傍らには早朝であれど薄暗い闇が依然として存在しているのみであり、正真正銘の一人だった。
やはりそうなると否が応にも孤独に苛まれ、自ずと翔太の胸の内からは焦燥が湧き上がる。
加えて昨日は一睡もしてない手前、寝不足も相まって殊更に翔太の心身を苛む。
その様な塩梅の最中、翔太は視界の端に違和感を捉えた。
否、気配と称していいかもしれない。
だから思いがけずして不意に感じたその感覚に委ねて窓の外へと視線を向ける。
思わず覗いてしまった窓枠のその先の向こう側には、硝子越しであれど鮮明な程に白い衣服が見えた。
それも至極近くにそれはあり、恐らくは腰の辺りだろうか。
下半身の肉体の豊満な起伏が薄い生地の服に包まれて其処にはあった。
途端、これを目の当たりとした翔太の脳裏へとあの畦道で経験した体験が過ぎる。
その身に刻まれた光景が再び彼の情緒をかき乱しに襲い来る。
窓枠越しに見えるのはワンピースに包まれた巨大な女の足だ。
確かに柔らかそうな太腿は女性特有の丸みは帯びてはいるものの、凡そ人間とはかけ離れている程、あまりにそれは大きく現実味を薄れさせて、強烈な違和感が翔太の元へともたらされた。
更には、その人間の太腿に酷似していると思える部位が正面にあり、恐らくは腰だろうと見えるモノが天井程にくると言う事は、一体どれだけの体長があるのか。
無論、その女の顔は屋根に見切れていて其処から上の様子は判然としない。
窓枠の向こう側にある、硝子一枚を隔てたその女の様子は微動だにする事は無い。
だが、翔太はそれでも今眼前にある得体の知れない存在が心底から恐ろしい。
ヒトの形をしているのに、それにも関わらず酷い違和感を拭いきれない、ナニカが其処には居た。
その存在は何をする訳でも無く、ただ窓越しに翔太の方向へと身体を向けて佇んでいた。
だがそれからもたらされるのは強烈な焦燥と共に身に余る恐怖である。
故にその感じたあまりの怖気からか、翔太はすぐさま衝動的に立ち上がり後ろへと後ずさっていた。
ただ、一歩退けばもう其処からは流れる様に翔太は隣室のよしえとかんぞうの所へと駆けていた。
無論屋内とあって、当然ながらそれ程時間は必要としなかった。
以前ヒトでは無いナニカから逃げた時分よりも遥かにそれは近く、最早距離など無きに等しい。
次の瞬間には同所を後として一室を出た翔太は、あっという間に家の中を走り抜けて、すぐさま自らを庇護してくれるであろう者達の元へと辿り着いた。
そしてよしえとかんぞう二人の姿を目にした彼は安堵からか思わず確認の為に背後を振り返る。
だがやはり遠目に窺う窓枠の向こう側には、翔太の方向へと身体を向けた存在の姿が、依然として其処にはある。
未だその白くて見上げる程に巨大な女は、翔太を捉えていた。
だから彼はそれを目の当たりとして恐怖と嫌悪、そして強烈なまでの焦燥からもたらされる吐き気に支配された。
しかしそれに如何にか抗い、酷く重たい足取りでかんぞうとよしえ二人の元へと向かった。
次いで隣り合う彼等の傍らに翔太も並び立つ。
そして如何してか、隣室に一歩たりとて踏み入れない隣に佇む、そんなかんぞうを翔太は疑問に思い見上げた。
するとかんぞうの表情は今までに翔太が見た事が無い程に険しく強張っている。
それを不自然に思い、翔太は顔を前方へと向けて未だ薄暗い室内へと視線を凝らそうした所で─
「見るな翔太っ!」
そう大声で言われて咄嗟に目を塞がれた。
かんぞうの手のひらで顔を覆われた翔太は疑問を呈す。
「どうしたの?」
「‥見ちゃいかん」
するとよしえも、まるで腹の底に響く様な同様に低くしゃがれた声色で翔太へと有無を言わせぬ強い物言いをした。
故に翔太はその言葉通り自らの瞳を瞑る。
そして次の瞬間には、更により一層険しいかんぞうの一声が同所へと響く。
「婆さん」
「‥はい。翔太、こっちに来ぃ」
そのよしえの平素では聞くことの無い強い口調を耳として、翔太はよしえに腕を取られて、目を瞑ったまま、この場を後とした。
今までに聞いたことの無いそんなよしえからもたらされた恐怖を押し殺した様な声により翔太は、隣室に今広がる光景だけは、己が決して見てはいけない事だけをただ漠然とその身に理解させられた。
そして何もわからないままに同所から立ち去った翔太は、この部屋への立ち入りを固く禁止された。
加えて、儀式は既に済んだというのに、外出することすらもままならず翔太には、外に一歩たりとて出るのさえ許されなかった。
それからというもの、別室で過ごした彼は、再びあの存在を見た事をよしえとかんぞうに切り出せなかった。
それ程までに彼等は酷く慌ただしく動き、切羽詰まっていたのだ。
そして後日、住職の死亡が確認され訃報が出回り、それが翔太の元にも自然と人伝にもたらされていた。
けれど完全な密室であった為、それ故に他殺の線は完全に失われた。
更には、住職の男が他者から特段恨みを買っていたという事も警察の捜査の結果では皆無である様だった。
それは無論、この地へと住まう村人等も平素から穏やかな振る舞いを心掛けている住職に限ってはあり得ないし、十分に納得出来る話であった。
当然ながら住職の遺体の第一発見者である、よしえとかんぞうも、それを身近に知り及んでいたし、寺との交流があった為に、充分に理解していた。
その為出た結論は、住職という務める役職が重積となり耐えかねて、心労から精神的な外傷を発症したが故の、ストレスからなる末路という内容だ。
果たして、一体どの様な因果か、死に誘われてしまったのだろうか。
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