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三. セトの章
65. Anax parthenope ギンヤンマ
しおりを挟む「待たせたね」
「……」
リュシアは腕組みをして、僕の前に立っている。
彼は行商人の最期を見ている。じっと、目を逸らさずに。
ミミズの起こした砂嵐と、蝶の羽ばたきによる流砂の竜巻と、蠍から剥がれた鋼鉄の鎧の飛礫が舞って、あっちはもう危険すぎて近付けない。
発芽した核がどのような影響を及ぼしてしまったのか、ここからでは分からない。
だけど三竦み状態で動けなかったはずのグレフらが一斉に攻撃を始めたのだから、保たれていた均衡が崩れてしまった事だけは確かだ。
行商人の断末魔も聴こえなくなった。
もう死んだのか、辺りが煩くて声が届かないのか。
「……何を話していた?」
強風に煽られ、リュシアの長いプラチナブロンドも存分に宙を舞う。これが女装道具のカツラだっていうのだから面白い。
僕よりも頭一つ分小さな彼の肩を抱き寄せ、地毛で作ったらしい髪に指を絡めた。
「別に何も話しちゃいないよ。あの人が命乞いをしたから、今までの事を聴いていただけさ。君の答合わせは百点満点だったよ」
「……」
さっきまで僕がいた場所に、凄い量の砂柱が立ち昇っている。
砂が上へ上へと逆流し、混沌が増している。
さっさと行商人を見捨てて良かったと思う。これに巻き込まれでもしたら、僕だってただでは済まなさそうだったからね。
「早く帰ろうよ。砂を落として、暖かな布団で眠りたいよ。蟲もグレフもいない平和な都市でさ。勿論、君は隣にいるんだよ」
これから《中央》は僕の都市でもある。
いずれ僕が支配する、美しき湖の歓楽都市。女神を祀る神殿の総本山がありながら、ありとあらゆる快楽が集まる堕落した都。両極端な二つが織り成す魅惑と清冽な街は、僕にぴったりである。
この人と一緒に、僕は永遠に幸せに暮らす。淫魔の力で世を統べるなど、赤子の手を捻るよりも簡単だ。
「そうか」
リュシアは興味無さげに呟いて、もう一度だけ行商人のいた辺りを一瞥すると、直ぐに振り返って来た道を戻り始めた。
この人の唐突で無遠慮な行動はもう慣れてしまった。
「つれないね、君は」
だから僕もそれ以上は言わず、彼の後を追いかけるのみである。
リュシアはまだ分厚いローブを纏ったままなのだ。本心を隠す、心のローブを。
真にその中身を暴いた時こそ、この人が完全に僕の物になったという証になろう。
この人には淫魔の術も、おべっかも決まり文句も愛の囁きさえ効きはしない。これぞ攻略のし甲斐があるもの。簡単ではないからこそ、男はムキになれる。真剣に恋愛を仕掛けるからこそ、一度靡けば後は簡単だ。
身も心も僕に絆されて、僕の成す事全てに涎を垂らすまで欲しがらせてあげれば、僕が頼まずともずっと女性の姿でいてくれるに違いない。
本当に悔やまれる。
彼が男であるのが悔やまれる。
リュシアが女ならば、孕ますまでヤりまくって子沢山にしてやるというのに。
結界域の境目は、マナの充満したこちら側と、彼らがマナを浄化したあちら側で明らかに色が違うので分かり易い目印になっていた。
あっち側には心配そうな顔をしたニーナと、壊れた荷馬車に寄りかかって目を閉じているアッシュと、その横で寄り添うようにべったり引っ付いているテルマ嬢がいる。
僕は勇み足を、踏みかけた。
「…なに、これ…」
境目を越える一歩の所で、僕を待つギルドの連中に微笑みかけるのに立ち止まった事で、一生分の運を使い果たしてしまったのかもしれない。
僕は、結界域の外側に出られなかった。
意気揚々と掲げた足は力を失くして地面に落ち、眼前に広がる驚異的なスクリーンを見上げて腰を抜かした。
ジジジジジジジジジジ!!
ブブブブブブブブブ!!
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ!!!!
僕の接近に歓喜した結界の銀幕が、一斉にその翅を鳴らした。
「うっ…!な、なんだ!!??」
煩いどころの話ではない。鼓膜を突き破る爆音だ。
ニーナは耳を塞いでいる。テルマ嬢が何か喚いているがこっちまで聴こえない。アッシュはこれだけの騒音にも関わらず、背を荷馬車に預けて僅かに目を開いただけだった。
「どうして…!どうしてここに、なんでここに…」
ズズズズズズズ!
ズリズリズリズリズリズリ――!!
「砂漠にどうして、蟲がいるんだ!!!」
蟲が――――いた。
ヴァレリの町を襲い、何もかもを呑み尽くしたあの蟲の大群が、びっしりと結界の壁に張り付いていたのである。
砂の中から夥しい数の蟲が這い出してくる。
マナの結界域が透明な壁となり、マナそのものに阻まれて結界内に立ち入る事が出来ないでいる。
けれども手ぐすねを引いて待ち望んでいる。数万の蟲が気色悪い蟲の裏側を僕に見せて、寒気すらする羽音を一斉に鳴らして、僕が外界に出てくるのを今か今かと待っている。
僕を、食うために。
「リ、リュシア!!これは、一体…!」
「蟲」
「それは見たら分かるよ!なんでこんなところにいるのかって訊いてるんだけど!」
「お前に還ろうとしているからさ」
「え?えーっと、何だっけ。僕の核から分裂したとかなんとか…」
ヴァレリに現われた蟲の正体は、人類最悪の敵である怒れる神だった。正確には、僕が行商人に貰った核を町の皆にばら撒いて、それがマナを食って発芽してグレフ化して分裂したものだ。民がその身にグレフを飼っている事を知らぬまま分裂した核は、壁の素材に擬態して地震で壊れた町の修繕に使われたのである。
果たして10年が丸っと過ぎた時、貸与されていただけの核は『大地の粛清』という聖書の物語に準えて回収された。
壁の素材に擬態していたグレフが蟲へと再擬態し、僕らが心臓に保持する核の中に還ろうとした。人の身体を貪り喰い、残酷に殺す事を目的とする為に。
盛大に殺戮のパーティを盛り上げたい為だけに、着々と準備し続けていた核は云わば時限爆弾。11年の一日目に蟲が体内に還る事は予め決定していて、それを覆す方法は今のところ無い。
僕が生きている限り、蟲は追ってくる。核へ戻ろうとするついでに外側の邪魔な人間部分を破壊しているだけで、蟲そのものに意思はない。
蟲を殺す手段がない僕が生き残るには、蟲の還る場所を根本的に失くしてしまえばいい。マナを隠して蟲を一時的に撹乱させれば、僕は死なずに済む。
核を隠す――すなわち、真霊力で保護する事。
リュシアと身体を繋げる事で僕の体内の核に干渉し、マナの保護壁を張ればいいのである。
「べ、別に問題ないよね。君がいるんだから」
圧巻の蟲の量に気圧されているのを悟られまいと、声だけは平静を装う。
そう、問題ない。全くもって問題ない。
また、リュシアに核を護って貰えばいいだけの話なんだから。
「すごい景色だよね…いや~、僕一人にこんだけの蟲が分裂してたなんてね」
うごうごと蟲で蠢くマナの結界壁を見上げる。
「これに一生付き纏われるのは災難だよね」
だから僕は《中央》で保護されるのだ。
魔法使いがマナの結界を張る安全地帯にいなければ、蟲はどこまでもどこまでも執拗に追いかけてくる。
蟲自体に悪気がないのがまた困る。帰巣本能に駆られているだけなのだから。
「僕の核に干渉するには、体内に入らないといけないんだったよね」
「……」
昨夜、リュシアが女装までして僕と性交したのは、淫魔の本能を曝け出して核を剥き出しにし、身体を繋げた箇所からマナを送り込んで保護したいが故の行動だった。
今思えば凄い行動力だ。その為に見ず知らずの同性に抱かれるなんて、僕には出来っこない所業だから。
「いやはや、僕を助ける為とはいえ、自ら身体を張ってご苦労な事だ。今から君を抱くけど、それも僕が生きる為なんだから仕方ないよね。是非、ご協力頼むよ」
ニヤニヤと、下卑た笑いが隠せない。
大義名分共に、リュシアと愛を交わす理由がここにある。僕を生かして《中央》に連れて行くには蟲が邪魔だ。蟲を引き連れて帰還する訳にもいくまい。
ならば今ここで、リュシアと致す必要がある。
「…お前は本当に、自分しか見ていないんだな」
「僕と君以外の世界に、一体何があるというの」
「人がいる。多くの人が、懸命に生きている世界がある。お前は領主だった父の背を見てきたんじゃなかったのか」
「庶民は田畑を耕して年貢を納め、子どもを作って死んでいく。文化が無いから後世に残る事もない。豚に歴史などないのに、何を見る必要があるんだい。僕らが代わりに、歴史を紡いでいけばいいのさ」
「お前にとって他人は家畜も同然か…」
「君だって、ギルドを束ねる立場なんだから分かるでしょ。いちいち庶民なんかに構っていられないって。上が幸せなら、その支配下にいる人だって幸せなんだよ」
リュシアの手を取り、さっき僕が行商人にしたように掌の甲をペロリと舐めて指に噛みつく。
酷く噛んだりはしない。甘噛みは愛欲の証だ。
毛わだって肌触りも最悪だった行商人とは比べ物にならない。しっとりと吸い付く白い肌は陶器のようで、同じ男である事すら忘れさせる。
「ニーナ達の前でやるのは気が殺がれるかな?じゃあ、あの岩陰に行こうよ。君は突っ立って僕にお尻を突き出していればいいさ。後ろからガンガン掘ってあげるから」
リュシアの手に触れただけで、淫魔が鎌首をもたげるのが分かる。
もう僕の股間は張り詰めんばかりに反応していて、今すぐにでも彼の中に挿入りたかった。
窮屈だけど淫らな内部は暖かくてぬるぬるとしてきゅうきゅうと締まって、とんでもなく気持ちのいい場所だったから。
「でもちゃんと女性の姿でいるようにね。いくら君でも、男の姿は萎えてしまうよ。僕の核に直接干渉したいんだったら、淫魔を悦ばせないと」
魔法で性別が替えられるのなら、ずっと女でいればいいと思う。子宮がないとか、子どもが産めないとか、そんなの些細な問題である。
リュシアが女性型で僕の傍に在るってのが大事なのさ。
岩陰に身を移そうと性急に彼の手を引くが、リュシアはその場から動かなかった。
僕を見上げ、可愛らしい視線を送ってくれるのに、頑として動かない。
「もしかして…君って見られて興奮するタイプ?僕はどっちでもいいんだけど、ニーナ達にあられもない情けない姿を見せても構わないの?」
するとリュシアは、恥ずかしげに俯いたのだ。
シンプルなズボンの中に手を入れて、まるで自慰をするかのような緩慢な動きで股間を弄る。ズボンの上から僕と同じ男の象徴が、くっきりと主張し始める。
もう片方の空いてる手は僕のシャツの裾をイジイジと持って、肌に触れるか触れないかの瀬戸際の所を爪で刺激してくる。
そしてゆっくりとその身体を預けてきた。
「可愛いよ、リュシア」
「……」
何が性欲が無い、だ。この淫乱め。
男の誘い方をよく知っているじゃないか。その手腕は素人筋じゃない。娼婦顔負けの手練れのものだ。
あんな顔してこんな仕草を取られたら、男なんて単純な生き物だからもうイチコロである。
僕は勃起した下半身をリュシアに擦り付けた。
ニーナらが見守る目の前で、僕を食おうと集る蟲の前で、混沌が渦巻く砂漠のど真ん中で、リュシアを掻き抱く。
「―――!!!」
ニーナのあの顔を見てみなよ、傑作じゃないか。
自分の心底惚れている想い人が男に組み敷かれる図なんて悪夢以外の何物でもない。
アッシュの諦めた顔を見るだけで吠えたくなってくるよ。彼もリュシアを大事に思う一人だけれど、最後に勝つのは僕だ。僕の愛撫でメロメロに絆される姿を見せつけてやるよ。
テルマ嬢はどうでもいいか。僕以上にニヤニヤ笑っているのは、目の前で破廉恥な行為をおっぱじめた人間の本能の性が面白いからなんだろうね。
そしてリュシアは―――。
「…な……がはっ…!」
徐に、大量の血を吐いた。
口中に鉄の味が広がって、喉を逆流する生暖かい液体そのものに吐き気を催して、胃液を吐いてしまいたいのに血がとめどなく溢れてくるから息さえできなくなる。
真っ赤な鮮血が、ボタボタと容赦なく砂に堕ちていく。
僕の広げた両足の真ん中に、小さな血の池が泡を作る。
なにが、起きたのだ。
なにが。
一体、なにが。
「お前は本当に救いようのないクズだな」
「リュ…シ…?」
胸が熱い。
燃えるように熱い。
灼熱の太陽の炎に焼かれているような、ジワジワと熱いのではなく、急激にカっと高温に曝された熱さである。
リュシアの心底呆れた声が熱さの向こう側から聴こえる。
彼とびったりくっ付いて、隙間もないほど密着しているというのに、その声がとても遠い。
足の間を伝う血の不快感がやけに鮮明だ。
なのに目眩がして、ふわふわと足元が定まらない。
リュシアは笑っている。弧を描く唇に触れると、あんなに綺麗だった彼の顔を赤色の絵の具で汚してしまった。
それが勿体なくて拭おうとしたけれど、指先が震えてうまくいかない。
その指さえも真っ赤で、赤に襲われた僕は赤に酔う。
彼は僕の血に汚染されるのも構わずに、力なく頬に添えられた手に頬擦りをして、一度目を閉じた。
それから再び蒼淵の瞳が開かれた時、その視線は冷たく僕を見下ろしていた。
価値のない虫けらを見るような、蔑んだ瞳だった。
その彼の瞳に映る僕は、無様な姿で歪んでいた。
彼の瞳の中に、光るものが見えた。
そこで僕はようやく視線を落とす。
灼熱の炎のように燃え滾る場所、僕の心臓を。
「あ…か、は……」
鈍く光るそれはナイフの煌めき。
リュシアは細くて小さなナイフを手に持っていた。
そのナイフが、深々と僕に突き刺さっていたのだ。
「確かに核に干渉するには体内に入る必要があるが、セックスだけが方法とは限らない。もっと簡単なやり方がある事を知っているか?」
ズボンの中に潜ませていたのだろうか。てっきり自慰行為で己自信を昂ぶらせているかと思ったけれど、あの膨らみはどうやらナイフの柄だったようだ。
勘違いが過ぎてしまった。
それに刺しただけではあんなに血はでない。
どうしてかと浮かんだ疑問は直ぐに解決してくれた。リュシアがナイフを刺した状態で、グリグリと柄を回していたのをこの目で見てしまったからね。
胸に空いた穴から血が噴き出し、呼吸を忘れた肺からは血が洪水のように溢れ出る。
なぜ、どうして。
わからないわからないわからない。
あついあついあついあついあついあつい。
分からない。
言葉が出てこない。行商人の醜い死に様を笑って見ていた僕のように、リュシアも同じ顔をしている。
とても美麗な顔で、つまらなさそうに笑っている。
「がはっ―――!!」
血の塊を吐いた。
痛みは最初からない。とにかく熱いだけだ。余りの熱さに朦朧とするだけ。
グジュ
肉の潰れる音がした。
「あ、あ…ああ……あ…」
リュシアはナイフで開けた穴に手を突っ込んで、無遠慮に体内を搔き回した。
どす黒い血が、ぬっとりとリュシアの手に纏わりつく。
「このように、直接心臓の核に触れればいい事だ。その場合、命の保証が出来ないのが欠点だな。でもいちいち面倒な行為をせずに済むから楽だと思わんか?」
「ぁ……」
意識が途切れ途切れになってきた。本格的にヤバいと思ったがもう遅い。命の危機を通り越して、か弱き灯火は潰えようとしている。
恐怖も後悔も畏れもない。あるのは漠然とした死への旅立ち。浮遊感に苛まされているだけだ。
フレデリク騎士団長の依頼を反故にするつもりなのかと彼に問いたかった。依頼は僕を生きたまま、無事に《中央》へ連れて行く事ではなかったのかと。
このままでは遅かれ早かれ死ぬ。心臓を握り潰されては、グレフの核と云えど死ぬ。
「お前はつくづく甘い男だよ」
「……ヒュ…」
「俺が張った結界内で、俺が知らない事があると思うか?何もかも見透しているに決まっているだろう。それに何故気付かない」
「…ぁ……」
リュシアのマナで充満した砂漠での一部始終は、彼に監視されて筒抜けだった。
そんなの知らない。僕をまた騙し、泳がせていたのか。信用して最後まで任せてくれるはずだったんじゃないのか。
でも指摘されて気付く。仮にも倒すべきグレフがいるんだから、監視してて当たり前じゃないかと。
「お前の野望とやらも拙いな。お前は本気で数々の修羅場を潜ってきた“ギルド”を―――俺を出し抜くつもりだったのか?」
心臓が握り潰される。
原型を忘れてしまった臓器は、ただの赤黒い役立たずの塊に過ぎない。
「――――」
僕はもう話せない。
たらりと流れた血に窒息してしまった。
ぐしゃりと潰れた心臓が鼓動を放棄してしまった。
枯れた瞳から乾いた涙が溢れる。血に水分を使い過ぎてすっからかんだから、もう涙なんて出てこない。だから僕が泣いている事を、誰も気づいてくれない。
「人間を甘く見る癖は核の影響だろうが、お前自身の性格がそれを増長させている。大概人を馬鹿にするのもいい加減にするんだな」
浅はかだった?
僕は、一体何処で間違えた。
だからこの人を甘く見ない方がいいって言ったのに。そう忠告してくれたテルマ嬢のしたり顔が目に浮かぶようである。
本当にそうだったよ。
この人に人間の常識が通じない事を失念していた。何を仕出かすか分からないし、やると決めたら大胆な行動を起こしていたのは、この3日間で見てきた事じゃないか。
躊躇なくなんでもやる人だ。セックスも殺人も、飯を食うのと変わらずに平気な顔でやってのける美しき冷酷者。
視界が真っ暗になった。
有頂天なのは僕だった。決して行商人を馬鹿に出来なかった。
愚かな人類の敵である僕は、情けを掛けて貰っていた事にさえ気づこうとしなかった無能な道化師だ。
「それともう一つ。俺はお前の所有物じゃない。当然のように嫁の位置に俺を据えているが、お前とセックスなんて金輪際ごめんだ。こっちから願い下げだよ、この下手くそめ」
立っているのか崩れ落ちているのか、それすらも分からない。
心臓の鼓動は止まった。あんなにぐちゃぐちゃにされて、それでも僕を生かそうと必死に動いていた他の臓器も、そろそろ役目を終える頃。
「身体はくれてやるとは言ったがな、俺にも好みというものはあるんだよ」
そして最期の言葉を僕はただただ受け入れる。
「お前は俺の趣味じゃない。お前に興味も惹かれない。人間なんてみんな大嫌いだ」
一番聴きたくなかった言葉を、この人はどんな表情で言っているんだろう。
突如訪れた死に抗えず、僕は事切れる。
人の五感の内、聴覚は最後まで機能しているという。
幾度も訪れたフェードアウトの最中に聴こえた声が、今は全くしない。
今度ばかりは奇跡も起こらない。女神は僕を見捨てた。
なにも見えず。
なにも聴こえず。
なにも匂わず。
なにも感じず。
無味の死を――――待つ。
何がリュシアの逆鱗に触れてしまったのか。
僕に考えが足りなかったのか、彼を一目置かなかった事なのか、甘く見過ぎていたからなのか。
それともまだ僕は、王と名乗りを挙げてはいけなかったのか。
考える行為すら手放して。
僕は死んだ。
「俺を砂漠まで連れてきた腹いせの八つ当たりにしては、少々罰が軽かったかな。でもお前は運が良い。あの時子供のお前が賊に攫われていたら、こんな未来は訪れなかった。死にたくても死ねない地獄を考えたら、今の方がずっとマシだ。お前の所為で俺はここで死ねなかったんだから、ちょっとくらい痛い目見せるくらいはいいと思ったんだけど…俺にもまだこんな感情が残ってたなんて驚きですよ、―――さん」
昇華の途中で、幻を聴いたような気がした。
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