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三. セトの章
31. 工事現場跡地
しおりを挟む道具すらも放り出された工事現場は静かなものだった。
蠢く虫は近くになく、下水配管を交換する穴が幾つもぽっかりと空いているだけで、それが返って不気味な雰囲気を醸し出している。
「この中で襲われたんでさぁ!」
僕らに同行するよう連れてきた工事現場の作業員が、震える手で一つの穴を指し示す。
彼はあまりの怖さに始めは猛烈に嫌がった。あんなのは懲り懲りだと、布団を被って家からなかなか出てこなかった。いちいち面倒臭くて閉口したものだ。
危険な目には遭わせないと説得して渋々付いてきてはいるものの、弱腰が酷くてはっきり言って役に立ってない。
せっかくわざわざ《中央》から人を寄越しているのに、詳細をニーナに説明するでもなく、そう叫んだ後はずっと頭を抱えて蹲っているものだから情けなくて仕方なかった。
「ぼ、坊ちゃま!これ以上は近付けねぇ!!」
「……はぁ、そう」
聴こえるように吐いた大きな溜息は、僕の従者の耳にきちんと届いただろう。
僕の意思を、敢えて言わずとも汲み取ってくれるだろう。
残念だけど、怖がりなこの男に未来は無い。僕の顔を潰してくれたんだから、それなりに罰は受けて貰わないと。
青髪の利発そうな女性――ニーナは勇敢にも穴に近づき、中を覗き込んでいる。
「暗くて見えないわ…」
「下水配管はかなり下の方だしね。灯りがないと昼間でも真っ暗だよ」
「下はどうなっているの?」
「土の中に配管が通っているだけだよ。古いからちょっと臭うかもしれない」
《中央》でも成し遂げていない最新の下水工事に着手して数か月。上下水処理施設は出来上がっていて、あとは配管を新しいものと繋ぎ合わせれば完了だった。
配管は少しずつ入れ換える。この工事は終盤に差し掛かっていて、期日通りなら後三週間ほどで終わっていた。
工事がストップしただけなら、まだマシだったかもしれない。
だけどこの時、新古の入れ換え作業に一時水道を止めていた。そんな時に起こった惨事は、工事を中途半端な状態で放置する事になる。
要は上下水とも、事件の日から止まったままなのだ。
解除しようにも配管はここで断管しているし、このもっと奥にある処理施設は虫の溜まり場になってしまっていて近付けない。
その結果、砂漠から引いていた新鮮な地下水は町に行き渡らなくなった。
人々は不便な思いをして、毎日町の外の井戸に行列を作っている。
そして、僕らが垂れ流す汚水や排泄物は、各家の便所に溜まりっ放しとなった。
町に農民はいない。
他の町や都市よりも進んだ下水処理は、何年か前までは頼んでいた田舎の汲み取り業者を完全に遠ざけた。
汚水を肥料にする技術も無く、使い勝手もなく、僕らも町は自らの汚物に対処しきれなくなっている。
「本当はもっと綺麗な町なんだよ。こんなに臭いのは、災厄前でも考えられないや」
「《中央》でも上下水道を整えているみたいですよ。この町ほど進んではいないけれど。これだけ整っているのは類を見ない。いつまでも人は不便な生活を甘んじて享受している」
だから慣れっこです、とニーナは笑った。
田舎に行けば行くほど、その生活は原始的だ。
ニーナの故郷は大きな貿易都市の近くにあって、道楽に訪れる貴族たちの避暑地として利用されていたらしいが、それでも上下水は整っているとは言えず、共同便所の汲み取り式に頼っていたのだと彼女は付け加えた。
「ヴァレリはこの世界で最も進んだ町だよ。そんな町が今や糞尿に溢れてる。それもたかだか虫の所為でね。早くこの原因を突き止めて、どうにかしてもらいたいものだよ」
「だからこうして、調べているんです」
平和に浸かり過ぎて自ら働くことをしなくなったこの町の住人は、文句だけは一丁前に叩いて僕らに抗議しに連日やってくる。
その足をちょっと町の外まで運んで汚物を捨ててくれさえすれば、こんなに町は臭くならなくても済んだ。
そういえば思い出したよ。
災厄の日、地震が町を襲ったあの日、瓦礫に圧し潰された死体をも、ここの住民たちは放置していたんだっけ。
日々腐る死体を瓦礫の下に隠すだけで、後は僕ら領主に人任せだった。
甘やかせ過ぎたのだろうか。
何もしなくても勝手にお飯にあり付ける僕らの統治は、ヴァレリの住民を堕落させてしまう原因を作ってしまったのではないか。
しかし、元よりここの住民は、父が若い頃からこんな感じなのだ。
数百年も住み続けた歴史ある住民らではない。砂漠に住む父らが奪った町だからなのか、足りないものは誰かが与えてくれると思い込んでいる節がある。
決して僕らだけが原因ではない。彼らのもって生まれた気質がそうさせているのだ。
「虫が現れ始めたのは、今から4日前ですよね?」
「うん、そうだよ。4日前、ここで虫が最初に危害を加えた。でもその前から報告は受けていたんだよ。町のあちこちに、虫が意味もなく大量発生しているとね」
作業員は震えている。僕の護衛でもある従者らも、一様に硬い顔をしている。
出来る事ならばこんな所に居たくない。そんな態度がミエミエだ。
「それまで何か前兆のようなものはなかったですか?もしくは異常気象があったとか」
「う~ん、記憶にないなぁ」
「この工事で虫の住処を侵したとか、そういうのはどう?」
答えられなくて従者達を見た。
彼らは首を振っている。そんな事、気にもしなかったという顔だ。
嘘を言っても仕方ないので、それを正直にニーナに告げる。すると彼女は鉛筆の先をチロチロと舐めながら考え込んでしまった。
事あるごとに書き込みをしていたバインダーを何度も見返して、首を捻っている。
「どうしたのかな?」
「やっぱり、見えない…」
「見えない?」
「虫が大量発生して人を襲う理由が見えないの。虫は自然物の一つ。ちょっとした変化でも、虫にとっては大きな影響よ」
「つまり、虫は理由なく現れ、理由なく人を殺した。君はそう言っているのかい?」
コクリと頷く。短い彼女の青髪が、サラリと頬を滑った。
「それに、こんなに多くの種類が同時発生して、その活動範囲を凄いスピードで広げている事も理に適わない」
「その原因は分からないの?」
「ごめんなさい、分からないわ。この調査で何か掴めるかと思ったけど、余りにも本や図鑑と生態が違い過ぎて答えが出ないの。私の仕事は調査だから、後はリュシアさんの判断にお任せするしかないわ」
あの占い師、か。
上等な薄絹の黒衣を身に纏い、僕や父に見向きもせず無言を貫く不遜な女の姿を思い出す。
お高く留まった態度が気に障る。フレデリク将軍の情婦の分際で、偉そうなあの女。
怪しさ満点だが、あの占い師に何がどうこう出来るとは思えない。
有能さから云えば、このニーナの方が勝っているように見えるのだ。
そもそも魔法使いなんて胡散臭いだけの存在なんだけど、あの占い師はそれに拍車をかけている。
「ねぇ、占い師サンはどうやって解決に導くのかな。変な呪文を唱えて水晶玉を覗くだけで虫はいなくなるっていうの?」
「ふふ、セトは少し勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「占い師…とは、あの騎士団長が勝手につけたあの人のイメージなんですよ」
「は?」
「あんな恰好をしているから間違えちゃうのも無理はありませんけどね。ふふ、リュシアさんは何も占いません。勿論、水晶玉をかざしたりも。だって職業的な『占い師』ではないのですから」
「じゃあ、あの人は何が出来るの。フレデリク将軍はあの占い師サンの事を、名を馳せた凄物――と言っていたから期待していたんだけど?」
水晶玉にアブラカタブラと呪文を唱えたら、未知なる魔法の力が飛び出して虫をことごとく退治する。そんなファンタジーな解決法とは思わなかったけれど、少なくとも「占い」はするんだと思っていた。
気の流れを読むとか、邪悪な気配を察知するとか。そんな超能力をいかにも持っていそうな雰囲気じゃないか。
そう言うとニーナは微笑んだ。
「セト、私たちは魔法使いですよ?超常現象じゃなくて、摂理に基づいて魔法を発動します。安心してください。リュシアさんの魔法力は私やアッシュを軽く凌ぎます。それに半分は当たっているんですよ。あの人はマナの流れを可視化できるんです」
「マナの流れ?君の妹御もそんな事言ってたよね。マナを視るとかどうとか」
「よく覚えてますね。妹はちょっと特殊なの。テルマとリュシアさんの力はちょっと似てるけど、テルマは視えるだけで自らの意思で動く事はないの。誰かが指示して始めてテルマは動ける。リュシアさんは一応自発的ですが」
「幾つか知らないけど、まだほんの子供だ。誰かの言う通りにするって当たり前だと思うけど?」
ニーナは答えなかった。
少しだけ目を伏せ、足元の土を見つめている。
変な事を言っただろうか。
しかしすぐに顔を上げ、何事も無かったかのように彼女は笑った。
「とりあえず、調査を終わらせましょうか。ぐずぐずしてると陽も落ちます。虫は夜行性が多いし、凶暴性も増す。せめて夜になる前までには郊外を抜けないと危険だと思うから」
その言葉に従者たちが震え上がった。
この臆病者どもめ。次期領主たる僕が自ら現場に出張っているのに立場も弁えず腹が立つ。
だからちょっと意地悪をしてみようと思った。
僕らの町で甘い汁を吸ってのうのうと生きているにも関わらず、ちっとも役に立たない愚民に身の程を分からせようとしたんだ。
「中に君がわざわざ入る必要はないよ。こういうのは、適した者がするべきだ」
「セト?」
パチン!と指を鳴らす。
「ぼぼぼぼ、っちゃ!!」
使えない作業員の両脇を、屈強な従者らが取り押さえた。
もがき逃れようとする男をズルズルと穴に引っ張っていく。流石に自分がこれから何をされるのか、よほどの馬鹿じゃなければ気付くだろう。
「どどどどうか!それだけはっ!!」
「セト、何をするつもりなの!」
「穴の様子が知りたいんだろう?君がわざわざ汚れる必要はない。彼はここの作業員だ。穴は彼らが開け、彼らが管理している。こういうのは専門部署に任せておくのが一番だと言ったんだよ」
顎をクイと上げ、合図する。
お助けとか、勘弁してとか、怖いとか。唾と涙を垂らして叫ぶ汚い作業員の男の耳元まで僕は寄り、
「ちょっと中の様子を見てくればいいだけだよ。穴に何も無ければそれでよし。虫がいたら今のように醜く叫ぶんだよ。すぐに縄を垂らして引っ張り上げてあげるから」
そう囁き、目をひん剥いて穴を凝視するその男の背を押して、穴に落とした。
「ひぃぃぃいああああぁぁ!!!」
「セト!!あなたは!」
穴の深さは4メートルほどだと聞いている。打ち所が悪ければ怪我はするだろうけど、死ぬ高さじゃない。これも運が悪ければ死んでしまうかもしれないが、それも運だ。
僕を非難するように蔑んだ視線を向けるニーナにゾクゾクしながら、僕はそう説明した。
「だからって、嫌がる人を落とすなんて!」
ニーナは穴の縁に手を付き、懸命に中を覗き込んでいる。
蒼白な顔が綺麗だ。
人は切羽詰まった時、本当の素顔を曝け出す。
キツ目の細い眉が八の字に曲がり、鼻の穴をヒクヒク広げて強張る顔は、女の絶頂のせつない時と似ている。
この女はベッドの上でもそんな顔をするだろうか。
田舎臭い女だ。男を知らない生娘の匂いがするから、僕が最初に乱れさせてやるのも面白い。
「あわわわわわわ!」
真っ暗な穴の中からは、怯えた作業員の悲鳴が断続的に聴こえている。
「はわわわわわわ!!」
男の土を蹴る音と、近くの排水管を叩く金属のカンという音もする。どうやら中でウロウロしているようだ。
「大丈夫ですかーーー!!」
ニーナが穴に向かって叫ぶ。
「暗くて何も見えねぇでさ!!ぼぼぼぼっちゃん、早く助けてください!!」
作業員の声が地下に反響して聴こえる。
せっかく身体を張って穴に落ちてくれたのに、喚くばかりでやっぱり役に立たない。
ここまでくれば腹を括って、中を少しでも調べるなりすれば僕の覚えも良くなるというのに。
「灯りを落としてやって」
「セト様、奴はまともに死体を見てしまったのです。虫に食い殺される同僚の死体を。自らも這々の体で逃げ出して、それからずっと怯えていたのですぞ」
「そりゃ災難だったね。命があるだけ儲けものでしょ?彼は災厄から逃れてきた難民だ。実質、二度も命が助かって今更何を乞う必要があるの」
従者から火の点いた松明を受け取る。
その松明を穴の中に投げ入れようとした時、ニーナの鋭い声が飛んだ。
「だ、だめよ、セト!」
「なに?」
しかし時すでに遅し。
松明は彼女の頭上をすり抜けて、炎の軌跡を描きながら穴の底へ落ちていく。
それから直ぐに地面に辿り着き、穴からは淡い光が届き始めた。
作業員の男は神の助けと云わんばかりの勢いで炎に縋り付いた。闇は不安な気持ちを底上げする。僕たちからは男の頭がぼんやりと見えるだけだ。
「セト、あなたは何て事を!」
「だから何が駄目なの」
「あなたは虫の生態が良く分かっていない。今すぐロープを用意して。あの人を引き上げないと」
その時だった。
ザワリ――――と、地面が揺れた。
「なんだ?」
地面が振動している。
細かい地鳴りは、足元から全身を刺激して三半規管を狂わせる。
気持ちが悪い。
「―――っ…、……!!」
穴の底。作業員の声にならない悲鳴が聴こえたような気がした。
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