楽園崩壊症候群

戦場鮮青

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女王

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 己は忌み子であると。物心つく前から、なんとはなしに気が付いていた。
 私は父に憎まれている。家中の者に疎まれている。村の人々に畏れられている。
 目。眼。瞳。私を藐視する数多の穴。
 それは、私の誕生によって母が命を落とした故。私の瞳が、人とは違う色を、血の色をしていたからに他ならない。
 私はずっと、己を赦せなかった。母を殺して生まれた悪を、周りを不幸にしてまで生きる罪を。そして、この醜い瞳の色を。
 父は、村の者は、皆私の瞳を鬼や血や地獄の色に喩えた。けれど兄様だけは違った。兄様は私の目を、椿のようだと言った。
 凍てつく冬の大気の中、凛と咲く赤色。私は花の色をした己の目に、希望を抱いた。
そして私は自らの生に罪悪を感じるときはいつも、椿の咲く海岸へ赴くようになった。
 海風、波の音。思い出す。母の胎内。私は母を殺してまで生に縋り、生まれてきた。
椿に救いを乞う。生きろと言ってほしい。生きてよいと言ってほしい。
 ただそこに咲いているだけで構わぬから。私の生を、祝福してほしい。

   ★

 丹哭の戦死を聞かされたのは、野戦病院で目覚めた直後であった。
 黒溝台の雪嵐には、最早近づくことが叶わなかった。ゆえに彼女の遺体は吹雪に攫われ、骨ひとつ残っていないという。
 骨がない。ないのだ、死の証が。
 だから私は。あれから六年が過ぎた今でも未だ、彼女の死を実感できない。彼女は私の救出の為に死んだというのに、私は彼女の為に悲しむことができずにいる。

 宿部屋の前で折り重なっていた部下の遺体を、ツバキが言詞の炎で火葬した。そこに遺された骨を布に包みながら、私はようやく彼らの死を実感する。
 暗い天井を仰ぐ。灯篭が河を漂うが如くツバキが飛ばした火球が宙を流れていく。私はそれを美しいと思った。
「貴様。言詞配列が乱れているぞ」ツバキが私を横目にやって言う。「弔いのつもりだったが、気に入らなかったか」
「……いえ。仲間が命を落としたというのに、美しいという感情を抱くことは罪悪であるか、と。そう考えていたのです」
「美しい? これが?」ツバキが天井を仰ぐ。赤い瞳が、宙を漂う炎に照らされる。
「分かっています。浅ましい感情であると」
「貴様を非難したつもりはないよ。ただ分からないだけだ。美しいとは、なんなのか」
 私が彼の言葉の意味を測りかねていると、彼は話を続けた。
「俺の目には、すべてが言詞配列の連なりにしか見えぬ。世界は数字の塊に過ぎない」
 私は思い出す。伽音が、この教会の美しさを理解していなかったことを。
 それは、彼女が教会の風景を見慣れているからであると思っていたが──もしかしたら言詞への干渉を可能とする者は皆、世界をそのように見ているのかもしれない。
「……ありがとう、ツバキ殿。貴方は私の仲間を、美しく見送ってくれた」
 弔いの儀式を美しいと思うことは罪悪だろうか。だが、この光景を見せてくれた彼に感謝の念を抱くことは、間違いではないはずだ。
「ツバキでいい。呼び捨てにせよ」
 彼はそれだけ言うと、踵を返して歩き出した。

 塔の内側──最下層に咲く巨大な花。そこに落ちた有楽を助けるという目的は、ツバキの道すがらに叶うことであると彼は言っていた。しかし彼は上層を目指して進んでいく。
 なぜ花のある下層へ向かわぬのかと尋ねても、面倒くさがって答えてくれない。というよりも彼は機嫌を損ねて、口を閉ざしていた。上層へ続く昇降機がすべて壊されていたため、徒歩で進まざるを得なくなったことに憤っているのである。
 私は沈黙のツバキの後を付いていく。森林のように草木の生い茂る空間。足元の浅い清流を蹴りながら進む。窓の外には、白光を帯びた濃紺の空が広がっている。暁は近い。
 陽を見ると、頭が眩んだ。昨夜から、色んなことがありすぎた。脳が休養を求めている……少し、状況を整理しなければ。
 繰り返される、第八師団東方蜂巣部隊の信徒たちの失踪。《消失病》と呼ばれるこの現象を調査するため、私は兄上の命を受けてこの教会を訪れた。
 しかし原因の究明もままならぬ間に、私と部下は信徒たちの襲撃を受けた。女王親衛隊である伽音や卯那の話によれば、女王は最初から私たちを殺すつもりであったらしい。
 それがなぜかは分からない。だが今は、一度私に手を貸してくれたこのツバキという謎の男を頼って進む他はない。消失病の解決──それから、有楽の救出を目指して。
「静かだな」ツバキが機嫌の悪い視線をこちらに向ける。「つまらん面を下げとらんで何か会話せよ、湊」
 理不尽だ。喋るのを面倒がっていたのは、そちらの方ではないか……が、会話が許されるのなら情報収集の好機だ。
「消失病の原因を教えてほし……」
「──お。あれは?」ツバキが前方に何かを見つけて目を丸くする。彼はまるで私の話を聞いていない。
 彼が見つけたものは、私が卯那と交戦した階段で落とした四十式拳銃であった。階段を転げ落ちて、ここに辿り着いていたらしい。
──それにしても。卯那や伽音はあの後どうなったのか……
 そう考えていると。突如、銃声が鳴り響いた。ツバキが頭上の木枝に向かって引き金を引いていた。真っ赤な林檎がひとつ、落ちてくる。彼はそれを受け止めると、こちらを見て満足気に口角を持ち上げた。
「賞賛せよ、湊。銃を使うのは初めてだが撃ち抜いてやったぞ。やはり俺は完璧だ」
 ああ……と私は曖昧に返事をする。弾が勿体ないからやめてくれとは言えなかった。
「安心せよ。貴様の分も採ってやる」
 私は再び発砲しようとした彼を止め、銃を取り上げる。
 得物が戻ってきたことは幸運であった。信徒の亡骸から拝借した刀を持っているが左手ではうまく振るえる自信がない。拳銃ならば、刀よりはまともに扱えるであろう。
「話を戻していいだろうか。消失病の原因について尋ねたい」
 私は再び歩き出した彼の背に問う。彼は「ああ」とぼやいて私に林檎を投げ渡した。
「そいつの皮むきをせよ。そうしたら教えてやる」
……仕方がない。私は林檎のヘタを咥えて持ち、軍靴に仕込んだナイフを取り出した。それから林檎を心臓の辺りに当てて支え、なんとか刃をあてがう。左手だけでは、果実の皮をむくことさえままならない。己の無力さを、嫌というほどに思い知らされる。
「消失病の発端はな、《言詞炉》に汚染が発生したことだよ」
「言詞炉?」
「うん。女王が命より大切にする宝物だ」彼は面倒臭そうに説明を続ける。「あれは文字通り言詞を貯蔵する炉でね。女王の研究対象である言詞の標本だが……それだけじゃない。信徒たちは常にあれに接続し、言詞の過不足を補っている」
「……言詞の過不足とは?」
「言詞演算を行う際に、足りない言詞を炉から引き出す。またその場に余った言詞を、炉へと送信する」
「つまり──言詞炉がなければ、言詞演算が行えないということか」
「理解がよろしい。褒めて遣わす」彼は私がむいた林檎の皮を奪い、口に入れる。
「物から人へ、人から人へ──言詞汚染とは、病のように感染するものだ。だから汚染された言詞炉に接続している信徒もまた、侵されることがある。そして女王は、汚染された信徒を殺害する。病人を殺すことで、感染を防ぐのと同じようにな」
「それが……消失病の正体ということか」
 うん、とツバキが頷く。
「言詞炉を除染する術はないのか」
「女王はその方法を血眼になって探しているよ。言詞炉の汚染が確認されてから六年間、ずっとね。でも未だ見つかっていない」
 六年──言詞炉に汚染が発生したのは、戦時中ということか。
「だから、殺すしかない。何もしないより、殺すほうがマシだからね」
 林檎の皮をむく手が止まる……惨い話だと思った。
 東方蜂巣の信徒たちは、言詞を神の言葉として信仰するという。故に、どれほどの命が犠牲になろうとも、言詞炉を汚染から守りたいのであろう。
 だが──あのとき私の目の前に現れた、女王の粛清から逃れようとした信徒。助けてと囁いた瀕死の声。彼女たちにも、己の命に縋る心はあるのだ。
「安心せよ、湊」ツバキが言う。「俺はこれから言詞炉を破壊しにいく。そうすれば、もう女王は信徒を殺したりしないよ。消失病は解決する」
「いや……しかし……」私はここまでの話を整理して問う。「言詞炉を壊せば、言詞演算を使うことができなくなるのでは」
「左様だ」彼は当然と言うように頷いたが、それでは困る。
「言詞炉を壊したとて──新たな言詞炉をつくる方法はあるのか?」
「ない。言詞炉は永い時をかけて、自然に芽生えるもの。全能と謳われる女王の手をもってしても、人工的につくることはできないよ」
 私はこの男に付いていくことに対して、嫌な予感を覚える。
「では、言詞炉は破壊するべきでない。我が国から言詞演算の力が失われては、国防が務まらなくなるだろう」
「観念せよ。俺は言詞炉を破壊する。これは絶対だよ」ツバキは淡々とした声音で言う。「別に俺は国防だの消失病だの、そんなものはどうでもいいのだ。ただ気に食わぬから破壊する。それだけ」
 彼が何を考えているのかは知らないが、そんな子供じみた理由で国防の生命線を切られてはたまったものではない。
「嫌ならついてこなくてもいいよ」
 彼の玲瓏な視線がこちらに向けられる。それは私程度の言葉で止められる顔ではなかった。そもそも今の私には、彼に付いていく以外の選択肢はないのだ。そうでなければ──私ひとりでは、有楽の元に行くことはできないのだから。
「寂しがり屋。結局、俺についてくるのか」
 私が黙って彼に付いて歩いていると、彼が意地悪そうに目を細める。
──必ず、彼を止める機会を見つけなければ。私と共に行動していた男が言詞炉を壊したとあっては、兄上をどれほど絶望させることか分からない。
「俺を止めるつもりなら甘いよ、湊。果実の皮ひとつむけぬか弱い男は、大人しく俺に守られておればよいのだ」
 ツバキは私の考えを見透かしたように言った。無力だという自覚はある。私は彼の言葉を否定できない。それから彼は私の手から、むきかけの林檎を奪い取った。茶色く濁った、不細工な凸凹の実を。
「……それで。その言詞炉はどこにある」
 彼は林檎を頬張りながら、窓の外を指さした──塔の内側の最下層。巨大な花を。
「貴様の仲間が落ちた場所と同じだよ。あそこは《王台》といって、女王の棲み処だ」
 なるほど。彼の道すがらに私の目的も叶うというのは、そういうことか。
「ならば、下層へ向かうべきでは?」
 先刻も彼に言ったが、私たちは今上層へ向かっている。
「王台に通ずる転移装置は、教会の屋上にしかない。だから上る」
「ここから硝子を割って、飛び降りたほうが早いのでは?」
 ツバキの身体能力なら、それも可能であろう。
「大胆すぎるぞ、貴様」彼が眉を顰める。「花の周囲には、触れた者に言詞汚染を引き起こす結界が仕掛けられている。転移装置を使わずに侵入するのは愚策だ」
 言詞汚染──人は言詞配列を著しく乱されると、発狂して廃人に成り果てる。戦時中、言詞安定剤の過剰摂取でそうなった人間を何度も見た。
──ならば。あそこに落ちた有楽はたとえ肉体が無事であったとしても……
「しっかりせよ」とん、とツバキが私の心臓を人差し指で突く。「仲間だろう。一度決めたからには、必ず迎えにいけ」
 彼の言うとおりであった。こんなところで俯いている場合ではない。
 それからしばらく、森林のような道を進んでいく。朝の木洩れ陽の下で、薄紅に咲き誇る花々が光っている。妖精の国を思わせるような、美しい場所であった。
 不意に、鐘の音が聞こえた。広大な塔中に響き渡る、神聖な音色。だが、どこか肌がざわつく気配を覚える音であった。
「《女王指令》の合図だよ」とツバキが言う。
 女王指令? 私が聞き返すと、彼は私の額に人差し指を当てた。
「九載八百一十三正七千六百九十一澗九千二百九溝七千一百八十二穰七千六百九十??五千四百七十八垓七千五百六十五京三千四百二十四兆四千四百七十一億六千六百六十一万九千二百六十五。加して七百二十九穰五千七百七十八??七千九百八十九垓一千二百五十六京五千五百六十二兆三千四百一十八億六千九百万一百一十二……」
 彼が言詞演算式を口にすると共に、私の中に記憶の奔流が押し寄せた。記憶──視たことのないはずの記憶が、まるで活動写真のような現実感を伴って浮かび上がる。
──窓硝子の外、降りしきる雪。白い石畳の礼拝室。秩序正しく並ぶ、数多の白衣の信徒たち。眩いほどの、一面の純白。
 鐘が鳴る。彼らは一斉に短刀を手に持ち、己の腕に十字架を刻みつけた。真白の部屋の至るところに、赤い染みが広がっていく。
 ただひとり、自傷を躊躇う幼い少女がいた。彼女は短刀を手にしたまま怯え、震えている。そのとき、首が飛んだ。幼い彼女の首が、白い石畳に赤い弧を描いて転がった。血で濁った眼が、虚空を見つめている……
「これが女王指令だ」ツバキの声で私は現実に引き戻される。「女王は気まぐれに、信徒たちの忠誠心を試す。その内容が何であっても、信徒たちは従わなければならない」
「命令に背けば……殺されるのか。あんなに幼い子を……どうして」
 声が震えた。骨の髄まで、熱くなるような衝動に駆られる。
「信徒に女王への忠誠心を植え付け、意思を奪うためだ。人の言詞は、意思を持つほどに汚染される……だが、信徒の言詞は潔癖でなけれなならぬ」
「貴方は……これを、何とも思わないのか」
 私が言うと同時。ツバキが抜刀した。そしてこちらに向かって刀を投げつける──それは私の頬のすぐ横をすり抜けて、飛んだ。
 私は背後を振り返る。そこに佇んでいた少年の肩に、刀が刺さっていた。彼は妖しい笑みを浮かべながら刀を抜くと、宙を斬って血を振り払う。
 春の曇天を思わせる銀色の髪。硝子の如く透き通った肌。銀糸で編まれた袴の上に身の丈よりも長い真白の羽織をまとっている。まるで、美しい人形のような少年であった。
「やれ。愛のない挨拶ですこと」
 薄く微笑んだ少年の唇から、掠れた声が漏れる。
「後退せよ、湊」ツバキが私の前に出て、目の前の少年を睨みつける。「彼の者こそこの教会の支配者──女王、喑李(あんり)だ」
 女王? だがこの者は確かに、少年であった。女王という言葉から想像する姿からは、かけ離れた姿をしている。
「ツバキよ……」女王──喑李が、揶揄うように言った。「友人は選んだほうがいい。女王様はそう思いますけどね?」 
「霧島湊は悪い人じゃない。だから殺さないでね」
 ツバキがそう言うと、喑李の昏い瞳が私の姿を捕らえた。彼は私を見定めるように見つめ──ふ、とその顔が蒼褪めていく。そして胸を掻き抑え、その場に伏して嘔吐した。
「汚いな。あっちに行け」ツバキの顔が歪む。
「ごめんね。あまりにも醜い言詞配列を見てしまったものですから」喑李は指で口元をぬぐい、私を見上げて嗤った。「海堂にしても湊にしても……本当に歪んだ兄弟ですこと」
「……兄上を愚弄するその言葉。見過ごすわけにはいかぬ」
 私は腿のホルダーから拳銃を抜き、彼に向けた。愚行であるとは分かっている。だが、この衝動を抑えることはできなかった。
 なぜ。私を……部下の命を狙うようなことをしたのか。そして、何より──
「答えろ。何故、兄上……霧島少将との約束を反故にした」
 兄上が派遣した私たちを手にかけるということは、兄上を愚弄したも同然だ。
「記憶せよ、霧島湊」喑李はそう言って、指を銃の形にして私に向ける。「僕は偶像を盾に正義を振りかざす、利己的な人間を憎悪する」
 彼の薬指で、琥珀の指輪が光った。指先から言詞光の弾丸が飛ぶ。ツバキが展開した言詞壁がそれを弾く。私の周囲一帯に、鳥籠のような形状の言詞壁が張り巡らされていた。
「喑李、君に湊は殺せない。俺を殺さぬ限りね」
「ツバキ……花の怪物よ。お前ごときが僕に勝てる?」
 喑李がツバキに切っ先を向ける。 
「泣かせることくらいはできるかもね」
 ツバキが不敵に笑むと同時。辺りに咲き誇っていた花々が変異する。急速に成長した蔓が、喑李の手から太刀を奪う。ツバキは地を蹴り蔓から刀を受けとると、いっきに喑李へと間合いを詰めた。
 喑李が言詞壁を展開する。花が咲くが如く広がったそれはツバキの接近を許さない。
「やれ。本当に、愛を知らぬ怪物ですこと」
 喑李が手を中空にかざす。四つの炎の剣が宙に出現した。それは意のままに軌道を変える砲弾のように、ツバキを追いかけた。
 ツバキは攻撃から逃れるため、駆け抜ける。彼の足跡から蔓が伸びていく。そこから咲いた巨大な花が、炎の剣を捕食するかのように花弁を閉じ開きして迎撃した。剣と花が衝突する。明滅する閃光。花火のように、火の粉が舞い踊る。衝撃で、辺りの木々が激しく葉を散らした。
「遊びは終わり。覚悟しなさいな、ツバキ」涼やかに佇む喑李の口の端が持ち上がる。
「四澗二千九百一溝二十九穰八千七百六十一??二垓三千一十二京三千四百四十一兆二千九億八千三百九十八万五千五百九」
 炎の剣が増える。五つ、六つ、七つ……
「加して四澗二千九百一溝二十九穰八千七百六十一??二垓三千一十二京三千四百四十一兆二千九億八千三百九十八万五千五百九」
 次々と増える剣が、天井を覆い尽くす。それらはまるで流星群が如く降り注ぎ、一帯を焦土へと変えた。炎と黒煙で何も見えない。ツバキがどうなったのかも分からない。だが私を覆っていた言詞壁が光の粒子となって消えた。つまり、彼は──
「命を懸けて守ってくれる人がいる。君は幸せ者だね、霧島湊」
 黒煙の中から華奢な少年の影が──喑李が現れる。彼は私の太刀を手に持っていた。
 一歩二歩と、たおやかな足取りで彼が近寄ってくる。私は身体から力が抜けていくのを感じていた。まるで上から肩を強く押されているかのように──もう、立っていられない。私はその場に崩れ落ちて、頭を垂れた。喑李が太刀の切っ先で、私の顎を持ち上げる。
「ツバキの献身に免じて、君の命は助けてあげましょう」ただし、と彼は微笑んだ。「私の足を舐めなさいな、霧島湊」
 踵の高い彼の長靴(ブーツ)が、私の前に差し出される。私はそれに舌を押し当てた。何か強い引力が働くかのように、身体が勝手に動いたのだ。
「情けない男ですこと。それでも帝国陸軍の士官?」
 喑李は目を弓なりにし、楽しそうに笑った。そして、ふと冷たい面持ちに戻る。彼は私の首筋に、刃を突きつけた。肌に潜り込まんとする冷たい金属に、殺気を感じる。
 刹那。彼の心臓から巨大な赤い突起が飛び出した。
 それは蕾──椿の花の、蕾であった。
 喑李が短く呻き、体勢を崩す。握っていた刀が地に落ちた。彼の目、口、肌のあらゆる場所から蔓が、茎が、花が芽生えはじめる。その身体は、植物に浸食されていた。
 喑李は苦痛に喘ぎ声をあげながら崩れ落ちる。彼の心臓を突き破った蕾がゆっくりと開いていく。その内側から人の腕が這い出して、彼の首を絞めた。広がる花弁。花の中にいた、血に塗れた裸体の男が露わになる。言詞の炎に焼かれたはずのツバキであった。
「不死身の体でも、焼かれたら痛ぇんだよ。このクソボケ野郎が」
 その血濡れの赤い瞳が、阿修羅の如き怒りに歪んでいる。
「やれ。愛のない言葉で……」
「愛せよ、喑李」ツバキが喑李の首を絞める手に力が入る。迸る殺意。骨の砕ける音が鳴り響いた。「そんなに愛されたいのなら、まずは俺を愛してみせよ」
 喑李はもう動かなかった。彼の身体が、光の粒子となって消えていく。
「死んだ……のか?」
「違う……あれ……は、言詞配列を複製した、影武者、にすぎない」
 ツバキが虫の息で花の中から這い出して来る。全身が血に染まっていた。傷があるのか否かも見えぬほどに。大丈夫か、と私は彼の元に駆け寄る。
「大丈夫……だ。もう傷は癒えている」そう言いつつ、彼は私に縋りついた。痛みに耐える彼の爪が、私の腕に食い込む。「ただ……痛い、だけだ。その、うち……治る」
 私を外套を脱ぎ、彼の裸体にかけた。死ぬな、と思う。私を守った者が死ぬのは見たくない。丹哭のような結末にはならないでほしい。
「そん……な顔をする、必要はない。俺の身体は、不死身だ」
──まさか。この男は本当に不死身なのか……いや。そんなことを考えるのは後だ。
私は彼を横抱きにして立ち上がった。女王と交戦した場にいたままでは、すぐに追手に襲撃されるであろう。早く、ここから立ち去らねば。
──否。そんなことをしても、無駄か。
 この教会そのものが、女王の手のひらの中にあるも同然だ。逃げることなどできるはずもない……そう思い知らされる。目の前に迫る、親衛隊の影を見て。
「平生通りにせよ、湊」
 ツバキが私の腕から降りる。彼は覚束ない足取りで、刀を抜いた。
「しかし、その身体では……」
「大人しくせよ……貴様はただ……俺に守られていればよいのだ」
 私の周囲に言詞壁が展開される。
──何故。
 いかほど血に塗れても尚、凛と佇むその背。
──何故。この者は、そうまでして戦うのか。
 目に焼き付くほどの、愚直な意思。
──何故……私などを守ろうとするのか。
 ツバキが地を蹴る。親衛隊員たちと彼が互いに肉薄せんとした、そのとき。
「待て!」
 よく通る、幼いながらも威厳のある声が響き渡った。双方、寸でのところで武器を降ろす。親衛隊が揃った動作で、道を開けた。
 彼らの背後より、長い薄紅色の髪をもった少女が踵を鳴らして歩いてくる。彼女の跡を、濡羽色の着物の女性が付き従っていた。
 私は薄紅色の髪の彼女に、見覚えがあった。荷物検査を受けているときに、衝立の後ろから覗いてきた──蝶の影絵で遊んでいた少女だ。だが今は、あのときに感じた柔らかな雰囲気はどこにもない。
 少女は機敏な仕草で中空に手を伸ばし、玲瓏な声で親衛隊に命ずる。
「花の怪物、及び霧島湊を傷つけるな。これは継承者命令である」
「しかし」と親衛隊のひとりがたじろぐ。「喑李様は、この者共を始末しろと……」
「即位宣言はすでに通達された」黒衣の女が言った。「じきに王台は蜜留様の手に渡る」
 親衛隊は戸惑いながらも、退却を開始した。少女は彼女らが去ったのを確認すると私に向かってたおやかな足取りで歩み寄ってくる。
「命拾いしたな。客人よ」
「貴方は……」
「先ほども名乗った通りだ。私こそが、女王の継承者で──」ずごっという音と共に、少女の身体が傾ぐ。彼女は──何もない場所で躓いていた。「わ、あ、あ、あ、あ!」 
 私はとっさに彼女を受け止めようとする──が。勢い余って、体勢を崩した。そうして私は彼女に馬乗りになられて、気が付く。この……当たっているものの感覚……この子は少女ではなく、少年であると。
「ふふん。僕……じゃなくて。私こそがじょ、女王の継承者、蜜留であるぞ?」
 彼女……否、彼は私に馬乗りになったまま言う。転んだことが照れ臭いのか、耳まで真っ赤になっていた。黒衣の従者が、白けた目でこちらを見つめている。
「そこの継承者……と倫理委員よ」ツバキが枯れた声で言う。彼の額に汗が滲んでいた。「俺を治療せよ」
「うわ。何このおじさん。血だらけだし、ほぼ全裸なんですけど?」
 少年──蜜留が顔を歪めてツバキを蔑む。
「俺はおじさんではないだろう」
「ね、おじさん。僕と取引しようよ」
「どう見てもおじさんではなく美青年だ」
「分かってるよ。じゃ、怪物くんとでも呼べばいい?」
「ツバキ、だ。喑李は俺をそう呼んでいた」
「はいはい……ま。知ってますけどね、と」
 蜜留は気だるげに、長い髪の先を弄びながら言う。
「僕に力を貸してよ、ツバキ。そしたら君を助けてあげてもいい」
「……説明せよ。何が望みだ?」
「喑李様を……王台から引き下ろす。そして、僕が女王になる。その手伝いを」
 そう言って蜜留は不敵に笑んだ。私の腰の上に、跨ったまま。
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