とりあえず、夏

浅羽ふゆ

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 高校二年生にもなると『数学』とか言うものは見た事も無い記号や英語と数字が手を組んでいて、最早ただの『謎』になっていた。
 こうなると、一年生の時から碌に勉強していない俺にはお手上げ。挑む事すら烏滸がましいので、早々に白旗を揚げて気怠い教室からガラス越しの世界に逃げ込んだ。
 窓際の一番後ろに座る俺は視線を投げればいつだって意識だけは容易に外へ逃げ出す事が出来る。人間の脳みそは全く良く出来ているもんだ。
 投げた視線に入り込んだ光景は、校庭で行われている体育の授業。同学年の女子が走り高跳びをやっていて、見るからに熱そうな日差しを浴びながらも真面目に取り組んでいる微笑ましいものだった。
 しかし、俺が目の保養にそれを眺めていると体育教師はとんでもない事を高らかに叫びだした。
「次! 1m50cm!」
 その声に答えるように立ち上がった一人の少女。俺は彼女を見て、男子でもろくに飛べないであろうとんでもない高さを体育教師が明らかに期待のこもった声で高らかに叫んだ事に納得してしまった。
 期待してしまうのも無理は無い。恐らく周りの女子も密かに期待を寄せているはずだ。
 何故なら走者は、あの杉川小春さんなのだから。
「か、かわいい……」
 思わず声に出てしまい、慌てて口を塞ぐ。それでも尚、目は離れずジッと杉川さんを捉えていた。
 凛とした表情でスタンバイをとる彼女の姿は、まさしく学年一の座にふさわしい。整った顔立ちでバーを見つめる姿は、まるで清涼飲料水のCMのような絵になっていた。最近、流れているやつよりよっぽど可愛く映っている彼女は都会なんかに生まれていたらきっとすぐにスカウトされていた事であろう。こんな辺鄙な町の学校で人気ナンバーワンを取ったくらいで満足していい器ではない。だから、悔しい。確かにCMの子も清涼感があって可愛い。だが、杉川さんはもっと爽やかで愛らしくて美しいのだ。なので、ここは俺が何とかするしかないのだろう。俺がプロデュースするのだ。
 杉川さんを起用するならやはり、プールサイドが良い。半袖のYシャツをボタン二つ開けて、裾を出し、裸足でローファーを履かせて氷菓子を食べながらプールサイドに座り、ホースの先をつまんでシャワー状の水を水が抜かれたプールに勢いよく放ち、綺麗な虹を作り出す。キャッチはこれ『青春はいつだって炎天下だ』で決定。最後はアイスの棒にハズレと書いてあってはにかむ杉川さんのアップで終わり。
 売れる。絶対に売れる。経済効果は今のやつの倍以上に膨れ上がるだろう。さーて、後はどこに売り込むかだな。

 ————パン!

「あ」
 俺がCMで彗星の如く表れた杉川さんの今後の展開を考えている間に、体育教師がスタートの合図で手を叩いた。その合図と同時に杉川さんは勢いよくスタートを切り、バーの手前でリズミカルに足を踏み切る。
 瞬間、体は高く空中へと預けられ、その体は綺麗な弧を描いてバーを躱す様に飛び越えた。
 素人でもわかる見事な背面飛びだった。
 俺はその数秒の間、時が止まったような錯覚に陥る。まるで彼女以外、時が止まっているような感覚。さっきまで膨れ上がっていた杉川さん芸能人化計画の妄想は跡形も無く消え去っていた。
 彼女がマットに身を落とすと、途端に時が刻み始める。押し寄せる波のように現実が戻ってきて、全てが一斉に動き出した。沸き上がる歓声。体育座りで見ていた女子たちが勢い良くマットに駆け寄る。これでもかと騒ぐ女子の輪の中心で、杉川さんは照れくさそうに笑っていた。
「じゃあ、この問題。椎名、解いてみろ」
「え?」
「え? じゃない! 早くしろ!」
 不意打ち。一気に現実が戻ってくる。そうだ。俺は意識しか逃げ出せないのだ。体は悲しいかな教室から逃げ出せずにずっとここにあったのだ。数学教師、岡本からのいきなりの攻撃はとっても悪意に満ちていた。いや、性格に言えば怒気か。とにかく俺は裏返りかけた情けない返事で立ち上がり、黒板の問題と向き合う。と、同時に
「わかりません!」
 まるで西部劇の早撃ちのように即答。こんなもの答えるのに一秒もかけてたまるか。その問題、さっき早々に白旗を揚げたやつだぜ。
 俺のあまりの即答っぷりに教室中がどっと笑いに包まれる。とりあえず愛想をふりまくように会釈を放っておいた。そんな俺やクラスメイトに呆れたのか岡本は深い溜め息をつき「もういい」と吐き捨て、手をシッシッと振った。いつもなら立たされたまま糾弾されるような状況なのにラッキーだ。岡本も夏バテ気味なのかも知れないな。ここ数日の猛暑に感謝せねば。
 俺はホッと安堵して席に座り、性懲りも無くまた窓の外を見る。杉川さんはまだ輪の中心に居て、まるでヒーローのように見えた。強面の体育教師ですら見た事も無い笑顔で杉川に拍手を送っている。
 俺は思う。現実なんてこんなもんだ。
 窓の向こうは別世界。
 スポーツ万能、頭脳明晰、容姿端麗の三拍子。ずば抜けた素質を持ち、何より、その性格の良さから男女問わず学年で一番の人気を誇る女子「杉川小春」さん。
 かたや、球技全般苦手、勉強下の中、中肉中背の三拍子。杉川小春さんを好きな『その他大勢』の男子の一人「椎名健一」くん。
 一学年五クラスもあるこの高校。もちろん彼女は俺の名前を知る分けもないし、喋った事だって一度もない。しかし、俺ぐらいの立ち位置の男子にとっては、こうやってたまに遠目から見ていられるだけで幸せなのだ。それが分相応というものだ。と思い込ませる日々を送らざるを得ない。クラス替えは二年になる際の一回のみ。つまり、俺にはもう同じクラスになるチャンスは無い。彼女も俺も部活をやってはいない。つまり接点を作れないのだ。だからどうする事も出来ず、その他大勢としてこうした日々を遵守している。こうして改めて考えると我ながら情けない。

 ようやく授業が終わると、教室内は少しだけ動き出す。めいめいに席を立ち教室を出たり、仲が良い奴らで固まり談笑したり。そんないくばくかの喧騒に紛れながら、俺はトイレに行こうと教室を出て廊下を右へと進んだ。すると、階段の踊り場前に人だかりが出来ている事に気付く。どうやらこの前やった中間テスト上位五十名の結果が壁に張り出されているらしい。きっとこの集団は成績にそれなりの自信がある奴らなのだろう。みんなその順位表に釘付けになっている。しかし、こんなに自信がある奴がいるのかと思うと流石の俺も危機感を感じずにはいられない。高校二年生からそんなに勉強したら三年になってからする事が無くなってしまうんじゃないかと思っている俺はもしかしたら大きな間違いを犯しているのかも。
 自分の順位に一喜一憂する奴らを見て辟易しながら少しだけ不安を覚える。ただ、今の俺はそれよりも大事な事を閃いてしまったので、ほとんど関係ないのにその集団の中をかき分けて貼り紙の左端まで進んでやった。
「おぉ……!」
 予想通り。一位の欄には当たり前のように「杉川小春」の名前が鎮座してらっしゃった。
 うーん。もはや名前から後光が射している。果たして彼女は同じ人間なのだろうか?
 住む世界の違い……いや、次元の違いを感じてしまう。手が届かないとはきっとこういう事を言うのだろう。
 しばし、そこに立ちつくし憧れの名前に見蕩れていると、いつの間にか周りを四、五人の女子に囲まれている事に気づいた。
「すごーい! 小春また一位じゃん!」
「やっぱり適わないわ!」
「いつもいつも頑張ってるもんね! あの子!」
 女子グループは俺を囲っているくせに、まるで俺なんかここに存在していないかの様に無視して勝手に盛り上がり始める。恐らく本当に気にしていないだけなのだろうが、こういった仕打ちは俺のような下位にいる生徒の心を深く抉る。彼女達のような俗に言うイケているグループの奴らは奔放で明るく、物怖じしない。故に俺達の領域にも気付かずに平然と立ち入り、そこに居るはずの俺達が戻れずに居場所を無くしているなんて状態もしばしば見受けられた。悪気が無いのは結構だが、もう少し気配りが欲しい所だ。
 そう。君たちは今、俺の道を完璧に塞いでいる事に気付いていない。ほんの少し、ほんの少しで良いから隙間を空けてくれれば俺は直ぐさま立ち去り、君たちも扇状に広がらずに済むのだ。身長も俺の方が高いし、多分結構邪魔なんだろう。あぁ、どいてやりたい……しかし、残念ながら逃げ場は無い。
 だから叫んだ。
(おい! 俺以上に気配がないお前らなんざ敵うわけねーだろ! とっとと道空けろ! もしくは会話に入れて下さい!)
 しかし、心の叫びは届くはずも無く、彼女らはそれから一頻り盛り上がった後、やがて何事も無く去っていった。ともあれ、あれこれと無駄に精神を削ったが、結果、無傷で解放された俺は分かっている事だったが一応、張り紙の右端まで移動しながら確認してみた。
 ……やはりない。俺の名前は上位五十名に載っていなかった。何で確認しちゃったんだろ。わかっているのに、自分で現実を見に行ってしまう。変な希望がいつだって一筋差しているのだ。あれだ。この感じ、バレンタインに似ている。俺ら男子はいつだって奇跡に賭けて生きている。握った拳の中にはどんな事があっても捨てない一抹の希望があるんだ。何度だって消されてきたよ。クリスマス前もお正月の年賀状の時だって。でも何故だか三日後にはまた手の中に復活しているんだよね。
 ……ホント、始末に負えないよね。
「……夢見るなよ椎名」
 呟く。声に出して自分に言い聞かす。
 いらない事をしたと、一応この場は反省。そして仕切り直し。
「っしゃ!」
 俺は暑さと恥ずかしさで流れる汗を拭って、振り切る様にトイレへ走った。

「いやーっ暑いなぁ! 最近どうよ椎名!」
 来た。こいつは何故か嫌なタイミングで現れる。特にこうして小便器に向かって用を足している時は必ずと言っていい程表れた。隣のクラスの悪友、山根だ。
「何だ。お前か」
 振り向きもせずに俺が言うと山根は俺の背中をバシッと叩いて横に並んだ。
「ははは! 相変わらずひどいリアクションだな!」
 溜め息をつく俺の隣で山根はケタケタと笑う。こいつはいつも笑っている気がする。
 その後、特に会話も無く俺は先に用を足し終えて洗面台へと向かった。早々に退散しないとどうでもいい会話に付き合わされかねない。しかし、手を洗いながら何気なく窓の外に目を投げた俺は本当に何気なく自ら会話を始めてしまった。
「なぁ。夏ってさ。どこ行っても窓開いてるよな……」
「どうした急に? まぁうちの学校はクーラーねーからなぁ!」
 山根はカッカッカと笑いながら俺に近寄り、贅沢は敵だぜ? とまだ洗ってない手を肩に乗っけてきやがった。ここでようやく俺は会話を始めた事を後悔する。もちろん、窓の話もそういう意味で言った訳ではない。ただ、説明するのも面倒臭いので、早く手洗え。と肩に乗った手を払って、もう一度入念に手を洗い直してから教室に戻った。山根はまだ笑っていた。
 もうすぐ夏休みだ。
 来年は高校三年生になる。そしたら受験勉強で夏休みなんて簡単に潰れてしまうのだろう。そう考えると高校二年生の夏休みと言うのは実質、高校生活で最後の遊べる夏休みだ。そう思うと、何かしたくてたまらなくなる。漠然とした衝動が心をかき混ぜる。でも、実際は何もできないし、何も浮かばないものだ。中学の時だって似たような物だった。何かやってやろうと思うのに何にもやる気が起きない。夏の魔物にいいように遊ばれるだけ。結局何事も無く夏を終えていつの間にか進級している。きっと今年もそうなるに違いない。
 そう考えると深い溜め息が出てしまう。今年もやっぱり……いつも通り。なんだろうな。
 夏はもう目の前に来ているというのに。
 空の青さに腹が立つ。
 もしかして青春ってそんなに青くないのかも。

 なんてわけわかんない事考えだす自分が一番青臭い。クサくて笑ってしまう。だめだこりゃ。

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