あの夏の歌を、もう一度

浅羽ふゆ

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 三日間のボイトレの最終チェックは行き詰まる事無く無事に終わった。
 予定通り、そして予想以上の出来で最終日の午前中に全行程を終了した。
「ありがとうございました!」
「こちらこそ。お疲れさまでした」
 少し涙ぐんで灰坂は笑う。僕から見てもよく頑張ったと思う。
 正直、ここまでいくとは思ってなかったし、夏休みを返上して僕がこんな事するなんて今でも信じられない。でも僕自身、成長する灰坂を見て心から喜んでいた気がする。
 予想を超えた成長に僕はつい、作戦決行前に満足してしまいそうなくらいだった。
 ――――だから、大丈夫。必ず上手くいく。
「はい。お弁当」
「おー。ありがとう」
 ボイトレ最終日である今日は灰坂が前々から、またお弁当を作って来ると言っていた。
 テーブルに見覚えのある重箱が置かれる。
「どうぞ。開けて」
 僕は灰坂に促されるまま、蓋を開けた。
「あ。これ」
「そう! おばあちゃんが美味しそうに食べてたから入れてけって」
 中にはキュウリの漬け物と鯵の南蛮漬けが入っていた。他にも煮物や揚げ物や肉も魚も野菜も所狭しと詰まっている。おにぎりは前と同じ色んなふりかけのやつだ。
 僕は蓋を置いて、とりあえずキュウリの漬け物をつまむ。
「うん! おいしい!」
 僕の言葉に灰坂もキュウリをつまむ。
「うん! おいしい! いただきます!」
「あ、いただきます!」
 灰坂に続いて、慌てて手を合わせる。
 おばあちゃんからの嬉しいサプライズについ、つまみ食いをしてまった。
 手を合わせたら、早々とおかずに箸をつけていく。どれを食べても美味しい。おばあちゃんの料理も灰坂の料理も、全部美味しい。
 きっとお祭りが終わったら、また灰坂の家に呼ばれることだろう。
 その時はユキも一緒かな。カズもいそうだ。二人ともこの料理食べたらきっと喜ぶだろうな。
 僕はこの合唱が終わった後の事を色々考えながら、お弁当を口一杯に頬張った。
 そういえば、昔はよく食べるほうだったな。
 向かいに座る女の子を見る。美味しそうにパクパクと食べ進めていた。
 どうやら灰坂もよく食べる方みたいだ。
 僕は何だかそれが嬉しかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 ――――自転車のペダルを強く踏みしめる。
 重たいギアは踏みしめた分、ぐんぐんスピードを上げて走っていく。
 今日、作戦を決行する。主役は僕じゃない、灰坂だ。なのに僕は朝から心臓がおかしくて、予定よりかなり早めに家を出て行く始末。脇役の僕がこうなんだから、主役の灰坂はきっともう心臓が飛び出しそうな勢いなんじゃないかと思う。
 なんだったらユキまで緊張してそうだ。カズは……多分、何も考えてないだろう。
「あれ?」
 自転車置き場に着くと、見慣れた自転車が既に一台止めてあった。僕はその隣に自転車を止めて音楽室へと走る。
「てっきり、一番だと思ったんだけどな」
 音楽室の扉を開けて言うと、ユキが僕に振り向いた。
「ホタル。おはよう。何だか緊張しちゃってさ……ねぇ本当にいいの? 私がやる事ってあれだけで」
「うん。もう十分すぎるくらい。助かるよホントに」
 ユキは微笑んで、力なく頷いた。僕はユキにも作戦を遂行する上で手伝いをお願いしていた。これはユキにしか出来ない事で、僕や灰坂じゃどうにも出来ない事だったから本当に助かった。実は元々、先生に頼もうと思っていたんだけれど、あのとき言われた先生の言葉通りにしてみようと思って、ユキに頼む事にした。なるべくなら子供同士で解決だ。
 時間が経つにつれ、どんどんみんながやって来る。
 スギもタダシも少し気怠そうにやって来た。いや、スギやタダシだけじゃない。みんなどことなく気怠げで、やる気と言うより覇気が無かった。
 揃えば揃う程、まるで全員で夏バテになったみたいに茹だるような空気が音楽室を満たして行く。かすかな居心地の悪さ。話す声は明るいのに、力は無く空っぽに聞こえた。
 煮え切らない空気に気持ちにみんなが捕らわれている感じ。みんなが目を逸らすから何もかもがハッキリしない。正直、集団競技をする上で一番良くない空気だと思う。
 でも、これで良い。
 変わるはずなんだ。いや、変えてやるんだ。僕らの手で。
 集合時間ギリギリになって、灰坂もさりげなく音楽室にやって来た。
 その直ぐ後から、カズが飛び込んで来る。カズはそのまま走って僕の隣に座ると、息を整えながら額の汗を腕で拭った。
「カズにしては珍しいね。遅かったじゃん」
「へへへ! 寝坊しちった!」
 お気楽。カズはやっぱり何も考えてないみたいだ。でも、今日はきっとカズもビックリするはずだ。カズだけじゃない、きっと全員がビックリする。
 僕は、みんなの表情が変わるのを想像していると徐々に緊張がワクワクに変わっていった。
「はーい! みんな! 始めましょうか!」
 時間ピッタリに先生が来て、みんなをいつも通り合唱の立ち位置に並ばせる。
 僕もいつも通りピアノを弾く準備をする。カズは相変わらずの顔とポーズだった。
 みんなが並び終わって、僕の演奏を待つ。みんなの視線が僕に集まっている。
 先生も僕を見ている。灰坂もユキも僕を見ている。
 ――――深呼吸。
 落ち着け。落ち着け。

 ……よし! 作戦決行!

「みんな! ちょっといいかな!」
 僕は立ち上がり、みんなに向かい合う。
「あのさ、合唱始める前に聞いて欲しい事があるんだ」
 みんなが僕に怪訝な顔を向ける。少し足が震えた。微かなどよめきが聞こえてくる中、僕は拳をギュッと握りしめて話を続けた。
「みんな。特に女子のみんなはさ、きっと灰坂の事気にしてるよね? いまだに歌っていないこと。実はあれ、歌わないんじゃなくて歌えなかったんだ」
 どよめきが大きくなる。みんなの怪訝な顔は更に深くなった。少しでも弱気になれば負けてしまいそうな空気に僕はどんどん踏み込んでいく。
「歌えなかったのは昔のトラウマが原因なんだ。詳しくは言えないけど。でもね、灰坂は隠れて一人で必死にソプラノパートを練習してたんだよ。みんな知ってた? 僕は知らなかった。たまたまそこに出くわすまではね。灰坂は自分が原因でみんながバラバラになっちゃった事をずっと気にしてるんだ。それは、みんなも同じでしょ? 正直、今のみんなの合唱はあんまり良くない。僕はピアノを弾きながらずっと聞いてるからわかるんだ。あの喧嘩が起きるまでと起きてからじゃ雲泥の差だ。でも、きっと今なら間に合う。最高の合唱に出来る。お祭りを成功させられる。だから、灰坂!」
 僕が灰坂の名前を呼ぶと、視線が一気に灰坂へと向かう。
 その中で灰坂は僕に頷き、列を離れてピアノと列の間に立った。
「灰坂からみんなに聞いて欲しい事があるんだ」
 僕が言うと、灰坂はそれを合図にみんなに向かって顔を上げた。
 みんながざわつき始める。
 一体何? どうしたの? ホタルと灰坂さん何かあったの?
 色んな言葉が飛び交う。みんなが動揺するのも無理は無い。今まで腫れ物の様に扱ってきた灰坂が突然、行動を起こしたんだから。
 僕はユキと視線を交わらせる。ユキは小さく頷いた。
「みんな静かにしよう! 灰坂さんの言葉をちゃんと聞こうよ! これじゃ灰坂さんいつまでたっても話せないよ!」
 ユキの言葉にざわつきが止まる。みんなは素直に従い、口を閉じてくれた。
 クラスの人望が厚いユキにしか出来ない事はこれだ。これで状況は整った。
 ユキは灰坂を見て力強く頷いた。
「灰坂」
 僕は灰坂の背中に声をかける。僕が背中を押せるのはここまで。後は灰坂次第だ。
 灰坂はすうっと息を吸って、勢いよく頭を下げる。

「――――ご、ごめんなさい!」

 みんなの目が途端に丸くなる。灰坂は頭を下げたまま続けた。
「私、こっちに転校する前……前の学校で……イジメにあってて。それでこっちに転校して来たんだけど、もう何だか友達とか信じられなくなっちゃって……みんな優しくて一生懸命話しかけてくれたのに私、前の学校の人たちと同じに見ちゃって……全然違うのに。前の学校の人たちじゃないのに。ひどい素振りしちゃって……なんとかしたいって、みんなと仲良くなりたいって思ってもどうしたらいいのかわからなくて……時間がどんどん経っちゃって。そしたらどんどんみんなに話しかけづらくなっちゃって。私が原因でクラスが喧嘩になっちゃって……」
 灰坂は顔を上げた。
 両手でスカートを握って小さく震えながら、それでもしっかりと前を向いていた。
「本当にごめんなさい! もう、遅いかも知れない。でも、私みんなと友達になりたいです! だから今度は私から話しかけます。無視されても、わたしがみんなにしたような素振りをされても、みんなが私にしてくれたように話しかけます! 嬉しかったから。こんな私にもずっと話しかけてくれたの嬉しかったから! だから、もし許してもいいって思えた時は私と話して下さい! 私はずっと話しかけるから! ずっとずっと話しかけるから!」
 もう一度頭を下げた灰坂にユキが拍手を送る。
 先生も僕も拍手をする。
 カズも拍手をし始める。スギもタダシも続いてく。
 拍手の連鎖が始まる。どんどん拍手が大きくなる。

 ――――最後はみんなの拍手が灰坂を包んだ。

「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい! ありがとう! ありがとう!」
 灰坂は泣きながら、みんなに何度も頭を下げた。みんなに。僕に。先生に。カズに。
 やがて拍手が鳴り止むと、僕はみんなに向き直った。
「みんなありがとう。でも、まだあるんだ。今まで歌わなかった灰坂だけど。今日から、歌い始めるよ。ずっと練習して来たんだ。でもさ、灰坂はまだちゃんとテストを受けてないでしょ? だからみんな今から灰坂をテストしてくれないかな。灰坂がソプラノパートで良いかどうかさ……どうかな?」
「いいよ! ケジメってやつだな! かっこいいじゃん!」
 スギが笑ってピースサインを灰坂に向けた。
「緊張するけど。頑張って」
 タダシも笑う。
「ユーコ! 頑張れ!」
 ユキも笑った。女子も男子もみんな、笑って頷いてくれた。
 灰坂も顔を上げた。これで準備は万端だ。僕は気を引き締め直して椅子に座った。
「よし。みんなありがとう。いくよ、灰坂」
 灰坂は横顔を向けて僕に頷いた。第二の本番開始。みんなの度肝を抜いてやる。そして合唱に一番大事な物を伝えるんだ。お祭り成功のために。僕らのこれからをもっと楽しくする為に。
 握った手を開いて、前奏を弾き始める。灰坂の微かな足の震えに気づいた。
 頑張れ、灰坂。頑張れ。頑張れ。
 僕は心の中で呟く。
 灰坂の背中に何度も何度も言葉をぶつける。
 自然と指先が動いて行く。まるで自分で弾いていないみたいだった。
 誘われるように前奏が終わる。
 少し肩を上げた灰坂が肩を下ろした瞬間、音楽室に灰坂の歌声が通り抜けた。

 ――――みんなの顔が一瞬で変わった。

 動揺と感動が混ざった空気が音楽室に広がっていく。
 灰坂は空気の変化に惑わされる事無く、歌い続けた。
 言葉を丁寧にメロディーに乗せて、リズミカルに流れる様に澄んだ歌声を響き渡らせる。
 歌は徐々に盛り上がっていく。
 空気もどんどん張りつめていく。

 ――――よし! ここで解放だ!

 ピアノに合わせて、どこまでも広がる灰坂の歌声がみんなを包んだ。
 どんどん伸びる高音。まるで限界を知らない様にどこまでも飛んでいく。
 僕と灰坂は特訓で得たものを惜しみなく全て出した。
 灰坂が囁く様に歌う時は僕がピアノを優しく鳴らし、逆に盛り上がる時は思いっきり弾いて灰坂の澄んだ高音を引き立てる。このダイナミクスと一体感が僕らの秘策だ。
 合唱に、音楽に、大事なもの。
『ダイナミクス』
『一体感』
 僕と灰坂は練習通り、完璧だった。いや、今までで一番の出来だ。
 灰坂も胸のつかえがとれたのか、少し声は震えても伸び伸びと歌っている。
 やっぱり気持ちが一番大事だ。
 そこに技術が加わるのが理想。これも母さんの受け売りだけど。
 僕がピアノの最後の一音を弾き終えて、みんなに視線を上げる。

 パチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

 弾けるような拍手がまるで雨のように降り注いだ。僕は脱力して、笑った。
 心の中に心地よい何かが溢れ出してくる。押さえ切れない感情が体中を駆け巡っていく。
 灰坂はやり切ったんだ。みんなの心を動かしたんだ。
「すごい! めっちゃ良い声!」
「嘘でしょ! ホントすごい!」
「やだ! なんか涙でてきた!」
「――――ユーコ!」
 鳴り止まない拍手と感嘆の言葉が飛び交う中、ユキが列から飛び出して灰坂に抱きついた。
「ユキ!」
 二人はみんなの目もはばからず、涙を流しながら抱き合った。
 その光景がとても劇的で、まるでドラマみたいだった。その空気はみんなにも伝わったみたいで、女子達が、そして男子までもが、みんな灰坂の元へ集まる。
「ごめんね」
「ありがとう」
 繰り返される言葉は灰坂とみんなのわだかまりを一つずつ壊していった。
「はーい! それでテストの結果はどうだったの?」
 ピアノの前に固まっているみんなに、先生が手をパンと叩いて問いかける。
 みんなは頷き合って、声を揃えて答えた。



「――――合格!」



 よろしい! と言って笑う先生は、興奮冷めやらぬみんなをまた列に並ばせた。
「よし。じゃあ合唱始めるわよ! 時間はあんまり残されて無いんだから!」
 先生はそう言うと、カズに手を挙げて合図した。
「……え?」
 事態を飲み込めない僕をよそに、カズはみんなの前に立って指揮棒を高々と上げる。
 みんなも口を開けて言葉を失っていた。
「先生からもサプライズ。朝丘君もみんなも指揮にしっかり合わせなさいよ!」
 訳も分からず、急いでピアノに向き直ると、カズが指揮棒を振り下ろして四拍とった。
 僕は慌てて前奏を弾き始める。みんなもカズから目が離せない。もちろん僕も。
 きっとこの衝撃は僕だけじゃなくみんなが感じていただろう。

 ……なんだこのちゃんとした指揮は。

 それにダイナミクスをちゃんと表現しているどころか、少しアレンジを加えている。
 僕はカズの指揮に誘われる様にピアノを弾いた。
 みんなの歌もカズの指揮に誘われる。
 振りの大小に歌も伴奏も合わさって、今までに無い一体感を生み出している。
 これは指揮者だった。ただ合わせて腕を振っているだけじゃない。完全に曲を引っ張っている。そして、このダイナミクスのアレンジが曲の良さを更に引き出していた。


 曲が終わり、みんなも驚きを隠せず絶句している。そんな空気を全て予想していたかのようにカズが僕にいつものニヤニヤ顔を向けて、指揮棒をペシペシとしていた。
「先生。今のは……」
 僕がみんなの言葉を代弁する。本当にこの状況が理解出来ない。これは夢か。
 みんなの唾を飲み込む音が聞こえてきそうなくらいの静寂に、先生はあっけらかんと言い放った。
「大変だったわよー。野本君に一から指揮を仕込むの。まぁ素直だから飲み込みも早かったし何よりかなり頑張ってくれたからね!」
 ね? 野本君。と先生が満足そうに笑うと、一斉にみんなから歓声と拍手が巻き起こった。
『奇跡が起こった!』
 みんなの心の中はきっとこの一言に尽きただろう。テンションが一気に上がっている。
 中でもユキが思いっきり拍手をしているのを見つけたらしく、カズはデレデレとした顔で丸刈り頭を指揮棒で掻いた。
 笑い声や歓声が拍手と共に止まらない中、先生は僕に耳打ちする。
「……先生も一枚噛むって言ったでしょ?」
「あれって、そういうことだったんですね……」
 やられた。と僕は色んな意味で溜め息をついた。
 先生も僕と全く同じ事をカズでやろうとしていたんだ。そして先生の予想通り、カズの見事なまでの指揮に僕もみんなも思わずつられてしまった。
 あのアレンジもカズが音楽を知らない分、体当たりで仕込んだのだろう。多分、カズは今でも楽譜を読めない。けれど、この中で誰よりもこの曲を知っている生徒だ。
 ……完敗だ。
「朝丘君。やっぱり教師向いてるわよ」
 そう言ってカズの元へ行く先生を見て僕は再度、溜め息をついた。
 そう言う事か。考えてる事が一緒って意味だったんだな。
 僕はやっぱり先生の思い通りに進んだ結末に改めて納得した。


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