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第一章

はじめての家出

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 自由に外出できない鬱屈した気分が、突然にはじけた。

 明朝の日曜日、小如シャオルーは家出することを決意した。
 とはいえ、一日だけの日帰り家出のつもりだが。

 行き先は美南メイナン市の隣にある大都市、打狗ダカオで開催されている花園ファーレン露天市である。
 第一の目的は、最近花園露天市で人気が出ているという雑技団の演舞を見に行くこと。
 第二に、露天市の名物と言われている冬瓜飴とうがんあめを食べること。
 
 たったそれだけのことでも、小如には人生を賭けるような一大事だ。
 養母は小如が通学以外で外出することを厳しく禁じていたし、許嫁いいなずけ呉候賢ウーホウシャンも、あまりいい顔をしない。ましてや、たったひとりで美南メイナン市を出て打狗まで行くなんて、実際にやったとしたら、それはもう呉家ではありえない珍事となるだろう。

 それでも小如は、どうしても外の世界を見たかった。
 家と学校の周りしか知らない自分の殻を破りたかった。
 健康な天然足てんねんそくを持ち、どこにでも歩いていける男子が自由でうらやましかった。

 小如はほとんど発作的に、衝動に突き動かされるように、家出の準備をはじめた。家出を実行するには、乗り越えねばならない難題がいくつもあった。
 
 まず打狗へ行くには、汽車に乗らねばならない。汽車賃が必要だ。美南駅から打狗駅までは一時間の道のりだが、日本円で三銭かかる。
 ところが小如は、自分の自由になる金など一銭も持っていない。
 
 小如は通学カバンから筆箱を取り出すと、その中から一枚の紙切れを取り出した。
 それは鉛筆の芯でだいぶ薄汚れたきっぷであった。
 学校の友達、美慧メイフェイの父親が鉄道員であり、美南と打狗間の好きなところで乗り降りできる自由乗車きっぷを彼女から一枚もらっていたのだ。

 小如の日常で、きっぷなど使う機会はない。だがいつかこんな日が来るかもしれないと、どこかでは思っていた。大事にとっておいて良かったと小如は思った。
 
 だがきっぷは一枚、片道ぶんだけである。
 帰りは一体どうするのかと気づいて小如は愕然としたが、悩んだ末に、それは今考えないことにした。
 まず行くことが何よりも彼女にとって重要だった。

 次に、また路銀ろぎんの問題である。
 雑技団を見るのにも、冬瓜飴を食べるのにもきっと金がいるだろう。一体いくらかかるのか、金を自分で使ったことのない小如には想像もつかなかったし、情報もまったくなかった。
 美慧は花園露天市に家族で出かけて、冬瓜飴を食べたと言っていたので、味だけじゃなくて値段も聞いておけば良かった、と小如は後悔した。しかし値段を聞いたところで、金がないのには変わりない。

 迷った末に、小如は家族で使っている箪笥から、木箱にしまってあった自分の纏足靴を一足取り出した。
 紺色の地に、銀の糸で草花模様の刺繍がされている。養母が学校の式典用にと買ってくれたもので、紺色のセーラー服と合い、小如もとても可愛いと思っている靴だったが、足の形が合わなかったので全くと言っていいほど履いていなかった。

 これを露天市で売ってお金にしよう、と小如は考えた。
 養母が買ってくれたものを売ることに罪悪感はあったが、どうせ履いていないものなのだから、他の必要としている誰かに使ってもらったほうがいい、と自分を納得させ、通学カバンの中にそれを入れた。
 十センチほどしかない小さな纏足靴は、すっぽりとカバンの中に収まった。

 あとは、日曜日に家を出るための言い訳である。
 家を出た後のことは考えないようにした。
 はるばる打狗にまで行くのだから、どんな策を練ったところで、いずれ美南にいないことはバレてしまうのだ。
 あの心配性の養母のことだ、たとえば朝から美慧の家に行く、夜まで戻らないと嘘をついたって、きっと昼過ぎには様子を見に来てしまうだろう。
 
 帰ってきたときに厳しく叱られるのは必定だった。最悪の場合、学校への通学すら禁止されてしまうかもしれないことも、覚悟するしかないと小如は思った。
 
 家出する理由に、友達を使うのは迷惑をかけるのでやめた。
 結局、「日曜だけど学校へ自習に行く」という嘘をつくことにした。

 さいわいにも候賢が、日曜にも関わらず事務仕事があるらしく、あす早朝から公学校に行くのである。候賢が家を出たあとに、後から追いかけるふりをして、美南駅に行ってしまえばいいだろう。
 養母も、小如と候賢が一緒に学校にいると思い込んでいれば、夕方までは気づかないでいてくれそうだった。

 小如はすべての準備を終えると、畳敷きの居間に敷かれた寝わらの上に座り、纏足の包帯を解いていった。
 彼女が養家として暮らしている呉家の家屋は、候賢と同じく学校の教師であった亡き候賢の父が、大枚をはたいて建てた日本式家屋である。美麗人であるが、日本を愛してやまなかった彼がこの家を建てるとき、居間を畳で作ることにもっともこだわったという。

 小如に自分の部屋はなく、ふだんはこの居間で過ごす。勉強も裸電球のもと、居間でする。寝るときは夕食後にちゃぶ台をどかして寝具を敷くという日本式である。ただし日本の布団は高級品で小如のぶんまでは買ってもらえず、寝わらを敷いて寝ていた。

 幸いといっていいのか、養母と候賢はそれぞれ部屋を持っていて別に寝ているため、さほどの窮屈は感じていなかった。
 こうして一日の終わりに包帯を解き、しめつけられていた足を解放感で満たすのが小如の日課だった。

 やがて十センチにも満たない小さな足の裏があらわになった。親指以外のすべての指が、足底側に折りたたまれており、小指の付け根の骨が、土踏まずの下にくるほどまでにいびつに曲げられている。
 指は平らな纏足靴の底の形のままに、平たくつぶれていた。

 最後の問題が、この纏足された足がどれくらい長旅に耐えられるか、ということであった。
 呉家は美南市の西門町にしかどちょうにあり、美南駅まで大人の足で十五分ほどの距離にあったが、小如の足ではその倍はかかる。
 連続して歩けるのは三十分が限度で、それ以上は痛みのあまり進めないということは小如自身がよく知っていたから、出発の駅に行くだけで、すでにぎりぎりの勝負である。
 
 打狗駅についてからも、花園露天市に行くまで長く歩くのかもしれないと思うと、小如は気が遠くなる思いだった。
 驚いたことに、この娘は花園露天市が打狗のどこにあるのかも知らずに行こうとしているのである。
 
 小如は素肌をさらした足の裏を、明日の強行軍に備えてよくよく揉みはじめた。

「足が痛いのかい? 小如」

 いつの間にか候賢が居間に入ってきていた。小如は内心驚いたが、何でもない風を装って、ううん、大丈夫と答えた。

「寝わらで寝てると休まらないだろう。たまには布団で寝るか?」

 候賢の思わぬ発言に、小如は胸がきゅっときつく締まるのを感じた。
 
 それって、一緒に寝るってこと?
 
 七、八歳の頃はそうしたこともあったが、今はとてもそんなことはできない。まるで兄妹のようであっても、一応は血の繋がらない養子であり、候賢との結婚を約束した新婦仔シンプアなのだ。結婚前にそんなことをするのは、十三歳となった今では、妙にふしだらな匂いがした。

「い、いいよ、そんなの」

「何で? 遠慮するなよ」

「え、だって、さすがに、だめ……でしょ?」

 もじもじする小如に、候賢はなんだろうと首をかしげながら続ける。

「寝わらと俺の布団を交換するだけだぞ? 何がだめなんだ?」

「あっ? そ、そういう意……あ、そうだよね? う、うん……」

 何だ、びっくりさせないで!

 勝手に一人で舞い上がっていた小如は、顔中に血が昇ってきて熱くなるのを感じた。

「変な奴だな。今持ってくるから待ってな」

 自分の部屋に戻っていった候賢の後ろ姿を見送りなから、小如は大きなため息をついた。やはり、あの兄に黙って打狗に出かけるということは、小如の罪の意識をゆさぶった。
 だが兄の同伴なしに、見知らぬ土地へと一人で冒険したいという願いのほうが、今は大きい。
 ずっと思うだけでかなわなかったことを、やるんだ。

 そのとき土間で野菜を漬けている養母から、小如、まだ起きてるの、早く寝なさい、と声がかかった。
 小如はもう寝る、と大声で返したのち、決意を固めるかのように、ぐっと強く足を揉んだ。
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