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『生物研究部』活動記録 参
魔性の笑顔
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なにやら、向こうのテーブルを囲んだ師匠らがこちらを頻りに見ている気がする。あまり良い気分ではない。
「さ、佐々田くん? あの……座ってもいいからね? 立ってるの大変だろうし……。」
部長のすぐ隣でデッサンを描いている姿を観察していた俺に、彼は椅子を差し出してきた。
「ありがとうございます。」とひと言礼を言い、俺はお言葉に甘えることにした。
「さ、|佐々田くんはっ、その……え、絵に興味があったりするの?」
緊張気味に、振り絞るように部長は訊いてくる。そんなに無理して話すこともないのに。後輩へわざわざ話を振るところや、描く手を止めて顔をこちらに向けて話をする姿勢など、所作の端々から彼の律儀さというか、人に対する誠実さを感じる。
「あ、全然、描きながら話してもらって大丈夫ですんで。」と前置きをして、俺は続ける。部長は律儀に「ごめんねっ。」と返して、キャンバスに向かいながら聞いてくれた。
「まあ、そうですね。嫌いじゃないです。でも、美術史とかはあんまり詳しくないですね。描くのが楽しい、ってカンジです。」
「あはは……、僕も同じかも。こうやって、デッサン描いてるのも、受験に必要だからっていうだけじゃなくて、描くのが楽しいからなんだろうね。」
「部長さんは、美大志望なんですね。」
「う、うん。いちおうね。佐々田くんは、進学とか考えてる? ……って、まだ高校生になったばっかりなのにこんな話したくないよね、ご、ごめんね。」
「……いえ、3年生になるのなんてすぐでしょうし、いずれ考えなきゃいけないことですから。」
「そ、そっか。」
「俺も進学を考えてます。美大の可能性も無くはないですね。」
「そうなんだ……! が、がんばってね!」
「はは、まだ部長さんに心配される時期じゃないですよ。」
「あはは、僕が心配できる立場じゃなかったね……!」
部長は、柔らかく握った手で、口もとを隠すように笑うのが癖らしい。彼の仕草の一つひとつに、その謙虚さも相まって、上品ささえ感じる。
「……この美術部にはさ、男子が僕しかいないから、少し肩身が狭かったんだ。」
談笑に花が咲き、ひとしきり経つと、部長は描く手を止めてこちらに向き直りつつ、そう切り出した。
「僕が1、2年生の時は、上級生に男の先輩もいたんだけどね。」
「それは……仕方ないことかもしれないですね。でも、女子の部員さんたちと話したりもするんですよね?」
「う、うん……そうなんだけど……。」
部長は口ごもりながら視線を徐々に下げていく。なにか、踏み込んではいけない質問をしてしまったのだろうか。
「あの……無理して話さなくてもいいですよ。」
「あ……ううん、大丈夫。ごめんね。えっとね、他の部員の人とはちゃんと話すよ。ただ、なんか異性として接されてないというか、なんというか……。」
……なるほど。たしかに、彼のこの容姿や振る舞いからは、あまり雄々しさは感じられない。
しかし、『男らしさ』や『女らしさ』なんて括りは時代錯誤も甚だしい。
彼の纏う雰囲気については、『男らしくない』と見るのではなく、彼個人の持ち味として見るべきなのだ。
ただ、俺のこの考えを、見ず知らずの女子部員に共有しようとするのも、そして共有した結果それが受け入れられるかどうかも、まったく困難な話である。だから、
「それは……難儀ですね……。」
と、返すしかできなかった。
「だ、だからねっ!」
くわっ、と表情を一変させ、改めて俺に視線を送ってきた。力強く、勇ましい瞳だった。
「佐々田くん……僕に『男』を教えてくれないかな!?」
俺は思わず周りに注意を配った。俺と部長が教室の隅で話していたことと、他方、教室の真ん中では師匠らが騒いでいたことが幸いして、俺たちのやり取りが周囲に気づかれることは無かった。
しかしまあ、かなり大胆なことをあまりに無垢な瞳で訴えかけていた。おそらく、というか絶対に他意は無い。彼は、己のコンプレックスを克服しようとしている、健気な男なのだ。
「……えぇと、詳しくお願いします。誤解の無いように。」
「う、うん! その……佐々田くんって、背も高くて、顔もシュッとしてるからさ……!」
「そう……なんですかね。自分じゃ分かんないですけど。背も、特段高いわけじゃないですし。」
「ぼ、僕は背も低くて、細身だから……佐々田くんが羨ましいよ……。」
「……まあ、身長とかは難しいかもしれませんけど、身体づくりとかは協力できるかもしれません。」
「ほ、本当に!?」
中学の頃から、美術部といえど特に規則もなく、ほぼ帰宅部みたいなものだったので、俺は筋トレにも手を出すくらいに暇だった。と言っても、健康維持程度の軽いものだったが。
そんなモチベーションの俺が、『自分の身体を変えたい』という尊い志で臨む彼に協力するのも、少し気が引ける。
が、しかし。
「あ、ありがとうねっ! よろしくおねがいします!」
俺の左手を大事そうに両手で握りながら、こちらにまっすぐ視線を合わせて、協力を訴えてくる部長を、俺は断る気になれなかった。
「あ、あのさ、佐々田くん。」
手を握ったまま、改めて俺を呼ぶ部長は、こころなしか気恥ずかしそうだ。
「は、はい?」
「これからは、な、夏瑪くん……って呼んでもいいかな……?」
うぐっ。
なんなんだこの生き物は……!?
やばいぞ……俺の中で別の扉が開きかけているッ!?
「ど、どうぞご自由に……。」
瞬間、部長の顔はぱあっと明るくなった。かわいい。……いやいや、なにを俺は。
「よ、よろしくね! 夏瑪くんっ!」
ぐはっ。笑顔が眩しすぎる。
あまりに眩しいものだから、俺は思わず天を仰いで目を固く瞑った。
俺の手を握って離さない部長は、さらに続ける。
「あ、あのさっ! 僕のことも薫って呼んでいいよ……?」
この人、距離の詰め方が尋常ではない。しかし、満更ではない俺も、心の中に、確かにいた。
「部長さん、下の名前で呼ばれるのは嫌だったんじゃないんですか?」
「そうだけど……そうなんだけど、夏瑪くんになら……良いよ……?」
そう言いながら、至って無垢な瞳を、上目遣いで向けてくる。
もう、俺はダメかもしれない。
「……じゃあ、か……薫、先輩……と呼ばせてもらいます……。」
「うんっ!」
向けられた笑顔は、どこか先ほどのものよりも熱っぽく見えた。俺にとっては、それはまさしく、魔性の笑顔というやつだった。
俺は、これ以上はなにかとマズいと察知し、まずは彼の両手の中にある左手の脱出を試みた。
さも自然に、咳払いを一回、その後、椅子に座り直すような動作のために、左手に引く力を込める。すると、人の機微に聡い部長は、俺の行為を邪魔しないように、両手をパッと解いた。
「お熱いねー、そこの二人。」
俺があくせくしていると、背後から師匠の声がした。『助かった』と表現しておこう、今は。
「仲良くなったか? ん?」と、師匠は不気味なほどの笑みを携えて、こちらに訊ねる。分からないが、きっとなにか企んでいるに違いない。
「う、うん。仲良くなった……よね?」
また、この手の選択肢のあるようで無い質問だ。
だが、回答を口にするのが不思議と面倒に感じないのは、それが意味のあることだと、内心で気づいているからなのだろう。
「そうですね。薫先輩とは、すっかり仲良しです。」
意味がある。そう、薫先輩の笑顔が見れる。
……はっ!? いま俺はなにを……!?
「ほーん。薫先輩ねぇ……。良かったじゃねぇの、薫チャンよ。初めての男後輩兼友達じゃん。」
「さ、さすがに初めてじゃないよ!?」
「まあ、いいわ。佐々田ぁ、今日はもう帰っていいぞ。かんなもな。」
「へ?」
「はい! お疲れ様でした!」
「ほら、早く来い。入り口まで送ってやるから。」
踵を返して美術室の扉へと向かう師匠と煤牛。
俺は、「またね。」と言った薫先輩に短く礼をし、彼女らの追った。
美術室の入り口を出てすぐのところで、「おい、佐々田。」と師匠が言うと、俺は歩みを止めた。ついでに隣の煤牛も、止まった。
「薫チャンさ、結構ナイーブだったろ?」
「……まあ、そうですね。」
「だからよ、アレとダチんなったんなら、頼むわ。」
いつになく真剣なトーンと表情で、彼女はそう言った。
部長に過去、なにがあったのかは定かでは無いが、あの純真さゆえに、傷ついたことも多くあったのだろう。
「はい。」と、決意を込めて俺は返した。
「おう。いつでもコッチに来て、部長と話してくれて構わねーからな。」
「じゃあ、たまにお邪魔しますね。」
「ああ。いつ来ても良いからな。マジで。部長がいる時に。」
「はい。」
「いや、マジでな。ホント、部長マジ寂しがり屋チャンだから。ホントに。」
「わ、分かりましたって。」
ものすごい念押しした挙句に、俺の返事を聞いて安心したのか、師匠はにっこりと微笑んだ。表に出さないにせよ、師匠は薫先輩を相当心配しているようだ。
「じゃ、またな。」
あ、『入り口まで送る』って美術室のか。生物室まで付いてくるのかと思った。それにしても、にっこりとしている。依然として。
「お邪魔しました。」
「ありがとうございました! また来週、漫画……
煤牛の言葉を遮るように「かんなぁ!!」と師匠が扉から顔を出して叫んだ。
俺と煤牛はその咆哮に固まった。
師匠は、先ほどまでの笑顔から一変して、鬼の形相で、唇に人差し指の橋を渡しながら「シィーーーー……。」と深く長い声を、合わせられた歯の隙間から漏らしていた。
煤牛はそれを見てなにかを理解したのか、驚いた表情をキッと正して、それはそれは見事な敬礼を師匠に向けた。なんなんだ、この人たち。
「行ってよし。」
師匠は、扉の間から出した顔を再び笑顔に切り替えて言った。
あの悪魔のような形相を見た後では、たとえ先ほどまでの笑顔と同じでも、めちゃくちゃ不気味に映る。これもまた、魔性の笑顔か。
あまりに作られた笑顔、そして煤牛とのやりとり。やはり、なにか裏を感じるのは気のせいだろうか……。
しかし、俺と薫先輩の仲を取り持つことになにか意味があるとは思えない。では一体、師匠はなにを……?
……と、こんなことを考えたとて、なにをどうすることもない。
そんなことよりも今日は、友人が一人増えたという喜ばしい事実を祝おう。
俺は、わだかまりを奥に追いやって、清々しい気持ちで生物室に帰る足を進めるのだった。
「さ、佐々田くん? あの……座ってもいいからね? 立ってるの大変だろうし……。」
部長のすぐ隣でデッサンを描いている姿を観察していた俺に、彼は椅子を差し出してきた。
「ありがとうございます。」とひと言礼を言い、俺はお言葉に甘えることにした。
「さ、|佐々田くんはっ、その……え、絵に興味があったりするの?」
緊張気味に、振り絞るように部長は訊いてくる。そんなに無理して話すこともないのに。後輩へわざわざ話を振るところや、描く手を止めて顔をこちらに向けて話をする姿勢など、所作の端々から彼の律儀さというか、人に対する誠実さを感じる。
「あ、全然、描きながら話してもらって大丈夫ですんで。」と前置きをして、俺は続ける。部長は律儀に「ごめんねっ。」と返して、キャンバスに向かいながら聞いてくれた。
「まあ、そうですね。嫌いじゃないです。でも、美術史とかはあんまり詳しくないですね。描くのが楽しい、ってカンジです。」
「あはは……、僕も同じかも。こうやって、デッサン描いてるのも、受験に必要だからっていうだけじゃなくて、描くのが楽しいからなんだろうね。」
「部長さんは、美大志望なんですね。」
「う、うん。いちおうね。佐々田くんは、進学とか考えてる? ……って、まだ高校生になったばっかりなのにこんな話したくないよね、ご、ごめんね。」
「……いえ、3年生になるのなんてすぐでしょうし、いずれ考えなきゃいけないことですから。」
「そ、そっか。」
「俺も進学を考えてます。美大の可能性も無くはないですね。」
「そうなんだ……! が、がんばってね!」
「はは、まだ部長さんに心配される時期じゃないですよ。」
「あはは、僕が心配できる立場じゃなかったね……!」
部長は、柔らかく握った手で、口もとを隠すように笑うのが癖らしい。彼の仕草の一つひとつに、その謙虚さも相まって、上品ささえ感じる。
「……この美術部にはさ、男子が僕しかいないから、少し肩身が狭かったんだ。」
談笑に花が咲き、ひとしきり経つと、部長は描く手を止めてこちらに向き直りつつ、そう切り出した。
「僕が1、2年生の時は、上級生に男の先輩もいたんだけどね。」
「それは……仕方ないことかもしれないですね。でも、女子の部員さんたちと話したりもするんですよね?」
「う、うん……そうなんだけど……。」
部長は口ごもりながら視線を徐々に下げていく。なにか、踏み込んではいけない質問をしてしまったのだろうか。
「あの……無理して話さなくてもいいですよ。」
「あ……ううん、大丈夫。ごめんね。えっとね、他の部員の人とはちゃんと話すよ。ただ、なんか異性として接されてないというか、なんというか……。」
……なるほど。たしかに、彼のこの容姿や振る舞いからは、あまり雄々しさは感じられない。
しかし、『男らしさ』や『女らしさ』なんて括りは時代錯誤も甚だしい。
彼の纏う雰囲気については、『男らしくない』と見るのではなく、彼個人の持ち味として見るべきなのだ。
ただ、俺のこの考えを、見ず知らずの女子部員に共有しようとするのも、そして共有した結果それが受け入れられるかどうかも、まったく困難な話である。だから、
「それは……難儀ですね……。」
と、返すしかできなかった。
「だ、だからねっ!」
くわっ、と表情を一変させ、改めて俺に視線を送ってきた。力強く、勇ましい瞳だった。
「佐々田くん……僕に『男』を教えてくれないかな!?」
俺は思わず周りに注意を配った。俺と部長が教室の隅で話していたことと、他方、教室の真ん中では師匠らが騒いでいたことが幸いして、俺たちのやり取りが周囲に気づかれることは無かった。
しかしまあ、かなり大胆なことをあまりに無垢な瞳で訴えかけていた。おそらく、というか絶対に他意は無い。彼は、己のコンプレックスを克服しようとしている、健気な男なのだ。
「……えぇと、詳しくお願いします。誤解の無いように。」
「う、うん! その……佐々田くんって、背も高くて、顔もシュッとしてるからさ……!」
「そう……なんですかね。自分じゃ分かんないですけど。背も、特段高いわけじゃないですし。」
「ぼ、僕は背も低くて、細身だから……佐々田くんが羨ましいよ……。」
「……まあ、身長とかは難しいかもしれませんけど、身体づくりとかは協力できるかもしれません。」
「ほ、本当に!?」
中学の頃から、美術部といえど特に規則もなく、ほぼ帰宅部みたいなものだったので、俺は筋トレにも手を出すくらいに暇だった。と言っても、健康維持程度の軽いものだったが。
そんなモチベーションの俺が、『自分の身体を変えたい』という尊い志で臨む彼に協力するのも、少し気が引ける。
が、しかし。
「あ、ありがとうねっ! よろしくおねがいします!」
俺の左手を大事そうに両手で握りながら、こちらにまっすぐ視線を合わせて、協力を訴えてくる部長を、俺は断る気になれなかった。
「あ、あのさ、佐々田くん。」
手を握ったまま、改めて俺を呼ぶ部長は、こころなしか気恥ずかしそうだ。
「は、はい?」
「これからは、な、夏瑪くん……って呼んでもいいかな……?」
うぐっ。
なんなんだこの生き物は……!?
やばいぞ……俺の中で別の扉が開きかけているッ!?
「ど、どうぞご自由に……。」
瞬間、部長の顔はぱあっと明るくなった。かわいい。……いやいや、なにを俺は。
「よ、よろしくね! 夏瑪くんっ!」
ぐはっ。笑顔が眩しすぎる。
あまりに眩しいものだから、俺は思わず天を仰いで目を固く瞑った。
俺の手を握って離さない部長は、さらに続ける。
「あ、あのさっ! 僕のことも薫って呼んでいいよ……?」
この人、距離の詰め方が尋常ではない。しかし、満更ではない俺も、心の中に、確かにいた。
「部長さん、下の名前で呼ばれるのは嫌だったんじゃないんですか?」
「そうだけど……そうなんだけど、夏瑪くんになら……良いよ……?」
そう言いながら、至って無垢な瞳を、上目遣いで向けてくる。
もう、俺はダメかもしれない。
「……じゃあ、か……薫、先輩……と呼ばせてもらいます……。」
「うんっ!」
向けられた笑顔は、どこか先ほどのものよりも熱っぽく見えた。俺にとっては、それはまさしく、魔性の笑顔というやつだった。
俺は、これ以上はなにかとマズいと察知し、まずは彼の両手の中にある左手の脱出を試みた。
さも自然に、咳払いを一回、その後、椅子に座り直すような動作のために、左手に引く力を込める。すると、人の機微に聡い部長は、俺の行為を邪魔しないように、両手をパッと解いた。
「お熱いねー、そこの二人。」
俺があくせくしていると、背後から師匠の声がした。『助かった』と表現しておこう、今は。
「仲良くなったか? ん?」と、師匠は不気味なほどの笑みを携えて、こちらに訊ねる。分からないが、きっとなにか企んでいるに違いない。
「う、うん。仲良くなった……よね?」
また、この手の選択肢のあるようで無い質問だ。
だが、回答を口にするのが不思議と面倒に感じないのは、それが意味のあることだと、内心で気づいているからなのだろう。
「そうですね。薫先輩とは、すっかり仲良しです。」
意味がある。そう、薫先輩の笑顔が見れる。
……はっ!? いま俺はなにを……!?
「ほーん。薫先輩ねぇ……。良かったじゃねぇの、薫チャンよ。初めての男後輩兼友達じゃん。」
「さ、さすがに初めてじゃないよ!?」
「まあ、いいわ。佐々田ぁ、今日はもう帰っていいぞ。かんなもな。」
「へ?」
「はい! お疲れ様でした!」
「ほら、早く来い。入り口まで送ってやるから。」
踵を返して美術室の扉へと向かう師匠と煤牛。
俺は、「またね。」と言った薫先輩に短く礼をし、彼女らの追った。
美術室の入り口を出てすぐのところで、「おい、佐々田。」と師匠が言うと、俺は歩みを止めた。ついでに隣の煤牛も、止まった。
「薫チャンさ、結構ナイーブだったろ?」
「……まあ、そうですね。」
「だからよ、アレとダチんなったんなら、頼むわ。」
いつになく真剣なトーンと表情で、彼女はそう言った。
部長に過去、なにがあったのかは定かでは無いが、あの純真さゆえに、傷ついたことも多くあったのだろう。
「はい。」と、決意を込めて俺は返した。
「おう。いつでもコッチに来て、部長と話してくれて構わねーからな。」
「じゃあ、たまにお邪魔しますね。」
「ああ。いつ来ても良いからな。マジで。部長がいる時に。」
「はい。」
「いや、マジでな。ホント、部長マジ寂しがり屋チャンだから。ホントに。」
「わ、分かりましたって。」
ものすごい念押しした挙句に、俺の返事を聞いて安心したのか、師匠はにっこりと微笑んだ。表に出さないにせよ、師匠は薫先輩を相当心配しているようだ。
「じゃ、またな。」
あ、『入り口まで送る』って美術室のか。生物室まで付いてくるのかと思った。それにしても、にっこりとしている。依然として。
「お邪魔しました。」
「ありがとうございました! また来週、漫画……
煤牛の言葉を遮るように「かんなぁ!!」と師匠が扉から顔を出して叫んだ。
俺と煤牛はその咆哮に固まった。
師匠は、先ほどまでの笑顔から一変して、鬼の形相で、唇に人差し指の橋を渡しながら「シィーーーー……。」と深く長い声を、合わせられた歯の隙間から漏らしていた。
煤牛はそれを見てなにかを理解したのか、驚いた表情をキッと正して、それはそれは見事な敬礼を師匠に向けた。なんなんだ、この人たち。
「行ってよし。」
師匠は、扉の間から出した顔を再び笑顔に切り替えて言った。
あの悪魔のような形相を見た後では、たとえ先ほどまでの笑顔と同じでも、めちゃくちゃ不気味に映る。これもまた、魔性の笑顔か。
あまりに作られた笑顔、そして煤牛とのやりとり。やはり、なにか裏を感じるのは気のせいだろうか……。
しかし、俺と薫先輩の仲を取り持つことになにか意味があるとは思えない。では一体、師匠はなにを……?
……と、こんなことを考えたとて、なにをどうすることもない。
そんなことよりも今日は、友人が一人増えたという喜ばしい事実を祝おう。
俺は、わだかまりを奥に追いやって、清々しい気持ちで生物室に帰る足を進めるのだった。
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