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本編
05
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カナメの3歳年上の兄サシャが学園から帰ってきたのは、カナメが庭で泣いてから3日ほどが経ってからである。
この時カナメは、母デボラに連れられ教会へ慈善活動に出かけていた。
あまりに鬱々としているカナメが邸にいても余計鬱々と過ごすだろうと思った彼女が、時折行っていた教会へカナメを連れて出かけたのだ。
デボラはここで本当に時々だけれど、併設された孤児院の子供たちに読み書きを教えたり、簡単な計算を教えている。
人に教えるというのは、慣れていないと本当に難しい。
教えるという事が可能になるのは、当たり前だがそれを知っているからである。
つまり、自分が知っている事を、全く知らない相手に教えなければならない。それが先生役に課せられたものだろう。
知らない人に自分が知っている事を、相手が理解出来るように説明し「どうして出来ないのか」と「どうして出来るのか」を教えていく事は、思うよりも難しいのだ。
難しい事を行うには、頭を使わなければならない。
今、何を考えても泣いてしまうカナメに取って、何かを教えるという環境はそれ以外を考えにくくなり少しの間だけでも心が落ち着くのではないかと、デボラが考えての事である。
対して、屋敷では登城していないシルヴェストルとサシャの姿が、シルヴェストルの執務室で見る事が出来た。
執務机を間に、睨むサシャと無表情のシルヴェストル、という構図で。
「どうして、白紙に出来ないのですか」
「それが“王命”であるからだ」
「何が王命ですか!あの子の、カナメの精神状態なんて、お構いなしですか!!」
ダンッと、サシャの手が机の上で跳ねる。
ジンジンとする手の痛みなんて、今のサシャには感じられない。
「あの子に、もう大丈夫だと信じていたカナメに、耐えられるはずがないでしょう。王家は大丈夫だと言ったあの口で、カナメに傷をつけ血を流させるのですか!!?」
「分かっている!」
「分かっていてなぜ……分かっていますが……どうして……」
サシャはずるずると、執務机の縁に手をかけたまましゃがみ込んだ。
馬車を呼び出し学園寮を飛び出して屋敷についてからこの執務室まで、自分の従者であるヨーセフ・リルクヴィスト──アーネの一つ上の兄である──を置いてくる勢いで走ってきた。
額にはうっすらと汗をかき、いつもはセットされている髪の毛もひどい。
「カナメが心を病んでしまってもいいと、そう、王家は言っているのですか」
そのままの体制でサシャは言う。
「そうなれば、白紙だ。それだけはもぎ取ってきた」
「そうなってしまったら、カナメにどんな幸せがありましょうね」
シルヴェストルは答えない。その状態になったカナメの姿なんて、想像したくない。子煩悩のシルヴェストルは、可愛い我が子のそんな姿なんて当然想像したくないだろう。
「どうして、突然こんな事に。エティエンヌ殿下でとなっていたはずでしょう……それを突然。カナメに二人の間に子がいなくていいとあれだけ安心させておいて」
サシャの手が、ついに執務机の縁からずり落ち床の上についた。
サシャだって分かっている。彼も“貴族”だ。
けれども彼はそれよりも弟を優先する。大切な弟なのだ、それこそ目に入れても痛くないほど可愛がり、大切にしている弟だ。
しかしそんな彼もやはり、王族へ仕えている貴族の端くれだ。
ただシルヴェストルと違い、サシャは弟と忠誠心を天秤にかければ簡単に弟に傾く。若いから尚更なのか、本人の気質なのか、彼が若い故にそれはまだ判断出来ないが、とにかく今は殊更そうである。
サシャはカナメが小さい頃から、大切に大切にしてきた。
(あの時だって、反対をしていたのに)
マチアスとカナメが二人の好意をもとに婚約をした時、サシャは本当に心配した。
“普通の貴族”の生き方をしようと決めていたこの時のカナメに、このまま貴族の義務を当然とするカナメであっても、マチアスが仮に側妃をとれば泣くと、心がすり減っていくと唯一サシャは考えていた。
人の気持ちは移りゆくものだ。
いくらカナメが「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」と思い、その感情を持ったままマチアスと婚姻をしても、心を寄り添わせている時間が長ければ長いほど、別の、しかも自分では決して不可能である子を産むという女を目の前にすればそれが“当然”であるなんていう平気な顔はきっとひとつも出来ない。そうなるのではないか、と。
「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」と思う気持ちで婚約してから婚姻、そして側妃が出来るまでの期間が短ければ短いほど、もしかしたら「それはもう王侯貴族の当然である」と割り切っていられるかもしれない。
しかし二人が婚約したのは10歳の時。
婚約発表予定は彼らの3歳年下のエティエンヌの卒業を待ってだ。そしてその後一年待って婚姻とする。そういう予定だった。
どれだけの時間を二人だけで、二人だけの思いを交わして過ごすだろう。
それは数字にする時間以上の時間があるはずだ。そう思うサシャは心配が尽きなかった。
そのうち、二人が婚姻しても子供がいなくていいのだと誰もが認めたと知り、本当に安心した。
カナメが泣かなくて済むと。苦労はきっと多いだろうが、この国の同性婚をした貴族ふうふにおいて異例ながらも、ただただ幸せになれると。
(それがどうして……こんな事になるんだ)
今のカナメに「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」という気持ちと、そうなった時にそれが義務であると割り切れた時の気持ちを思い出せなんて誰が言えるだろう。
女だってこうした事で傷つき泣いて心をすり減らすというのに、それで心を病むものがいるというのに、この日まで大丈夫であると言われ、ただ自分だけを愛してくれるのだと思っていた男に出来るだろうか。
カナメは本当に男の自分で大丈夫なのかと、どれだけ不安になって泣いたか、それを知らないはずがないのに。
「いざとなったら、私は出奔も辞さない構えです」
「そんな事をすれば、カナメが悲しむだろう」
「カナメが心を病むよりはマシですよ」
本当にやりかねないサシャにシルヴェストルは唸った。
この家で誰よりもカナメに過保護なのは、父でも母でもなく兄のサシャだ。
「ですが、それは最終手段にします。そうするかどうかは、どうしていまさらこんな事を言い出したのか、その上『決して婚約を白紙にしない』とふざけた事を言ったのか、調べてからにしますよ」
聞く人が聞けば不敬だと当然のように指摘する発言を、怒りでギラギラと燃える目で言うサシャにシルヴェストルは同意する。
そんな事、シルヴェストルだって知りたいし、調べたい。
しかしこの突然の決定の意味を知るのが国王と王妃だけのようなのだ。どうやって調べるのだと、やり手と言われるシルヴェストルだってお手あげである。
「私もやれるだけの事はしよう。お前だけに、しかも冷静ではないお前にやらせるわけにはいかない」
「そりゃあそうでしょう。父上にとってカナメは息子ですよ?やってくださいね」
この時カナメは、母デボラに連れられ教会へ慈善活動に出かけていた。
あまりに鬱々としているカナメが邸にいても余計鬱々と過ごすだろうと思った彼女が、時折行っていた教会へカナメを連れて出かけたのだ。
デボラはここで本当に時々だけれど、併設された孤児院の子供たちに読み書きを教えたり、簡単な計算を教えている。
人に教えるというのは、慣れていないと本当に難しい。
教えるという事が可能になるのは、当たり前だがそれを知っているからである。
つまり、自分が知っている事を、全く知らない相手に教えなければならない。それが先生役に課せられたものだろう。
知らない人に自分が知っている事を、相手が理解出来るように説明し「どうして出来ないのか」と「どうして出来るのか」を教えていく事は、思うよりも難しいのだ。
難しい事を行うには、頭を使わなければならない。
今、何を考えても泣いてしまうカナメに取って、何かを教えるという環境はそれ以外を考えにくくなり少しの間だけでも心が落ち着くのではないかと、デボラが考えての事である。
対して、屋敷では登城していないシルヴェストルとサシャの姿が、シルヴェストルの執務室で見る事が出来た。
執務机を間に、睨むサシャと無表情のシルヴェストル、という構図で。
「どうして、白紙に出来ないのですか」
「それが“王命”であるからだ」
「何が王命ですか!あの子の、カナメの精神状態なんて、お構いなしですか!!」
ダンッと、サシャの手が机の上で跳ねる。
ジンジンとする手の痛みなんて、今のサシャには感じられない。
「あの子に、もう大丈夫だと信じていたカナメに、耐えられるはずがないでしょう。王家は大丈夫だと言ったあの口で、カナメに傷をつけ血を流させるのですか!!?」
「分かっている!」
「分かっていてなぜ……分かっていますが……どうして……」
サシャはずるずると、執務机の縁に手をかけたまましゃがみ込んだ。
馬車を呼び出し学園寮を飛び出して屋敷についてからこの執務室まで、自分の従者であるヨーセフ・リルクヴィスト──アーネの一つ上の兄である──を置いてくる勢いで走ってきた。
額にはうっすらと汗をかき、いつもはセットされている髪の毛もひどい。
「カナメが心を病んでしまってもいいと、そう、王家は言っているのですか」
そのままの体制でサシャは言う。
「そうなれば、白紙だ。それだけはもぎ取ってきた」
「そうなってしまったら、カナメにどんな幸せがありましょうね」
シルヴェストルは答えない。その状態になったカナメの姿なんて、想像したくない。子煩悩のシルヴェストルは、可愛い我が子のそんな姿なんて当然想像したくないだろう。
「どうして、突然こんな事に。エティエンヌ殿下でとなっていたはずでしょう……それを突然。カナメに二人の間に子がいなくていいとあれだけ安心させておいて」
サシャの手が、ついに執務机の縁からずり落ち床の上についた。
サシャだって分かっている。彼も“貴族”だ。
けれども彼はそれよりも弟を優先する。大切な弟なのだ、それこそ目に入れても痛くないほど可愛がり、大切にしている弟だ。
しかしそんな彼もやはり、王族へ仕えている貴族の端くれだ。
ただシルヴェストルと違い、サシャは弟と忠誠心を天秤にかければ簡単に弟に傾く。若いから尚更なのか、本人の気質なのか、彼が若い故にそれはまだ判断出来ないが、とにかく今は殊更そうである。
サシャはカナメが小さい頃から、大切に大切にしてきた。
(あの時だって、反対をしていたのに)
マチアスとカナメが二人の好意をもとに婚約をした時、サシャは本当に心配した。
“普通の貴族”の生き方をしようと決めていたこの時のカナメに、このまま貴族の義務を当然とするカナメであっても、マチアスが仮に側妃をとれば泣くと、心がすり減っていくと唯一サシャは考えていた。
人の気持ちは移りゆくものだ。
いくらカナメが「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」と思い、その感情を持ったままマチアスと婚姻をしても、心を寄り添わせている時間が長ければ長いほど、別の、しかも自分では決して不可能である子を産むという女を目の前にすればそれが“当然”であるなんていう平気な顔はきっとひとつも出来ない。そうなるのではないか、と。
「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」と思う気持ちで婚約してから婚姻、そして側妃が出来るまでの期間が短ければ短いほど、もしかしたら「それはもう王侯貴族の当然である」と割り切っていられるかもしれない。
しかし二人が婚約したのは10歳の時。
婚約発表予定は彼らの3歳年下のエティエンヌの卒業を待ってだ。そしてその後一年待って婚姻とする。そういう予定だった。
どれだけの時間を二人だけで、二人だけの思いを交わして過ごすだろう。
それは数字にする時間以上の時間があるはずだ。そう思うサシャは心配が尽きなかった。
そのうち、二人が婚姻しても子供がいなくていいのだと誰もが認めたと知り、本当に安心した。
カナメが泣かなくて済むと。苦労はきっと多いだろうが、この国の同性婚をした貴族ふうふにおいて異例ながらも、ただただ幸せになれると。
(それがどうして……こんな事になるんだ)
今のカナメに「子が出来なければ女性に生ませるのは当然」という気持ちと、そうなった時にそれが義務であると割り切れた時の気持ちを思い出せなんて誰が言えるだろう。
女だってこうした事で傷つき泣いて心をすり減らすというのに、それで心を病むものがいるというのに、この日まで大丈夫であると言われ、ただ自分だけを愛してくれるのだと思っていた男に出来るだろうか。
カナメは本当に男の自分で大丈夫なのかと、どれだけ不安になって泣いたか、それを知らないはずがないのに。
「いざとなったら、私は出奔も辞さない構えです」
「そんな事をすれば、カナメが悲しむだろう」
「カナメが心を病むよりはマシですよ」
本当にやりかねないサシャにシルヴェストルは唸った。
この家で誰よりもカナメに過保護なのは、父でも母でもなく兄のサシャだ。
「ですが、それは最終手段にします。そうするかどうかは、どうしていまさらこんな事を言い出したのか、その上『決して婚約を白紙にしない』とふざけた事を言ったのか、調べてからにしますよ」
聞く人が聞けば不敬だと当然のように指摘する発言を、怒りでギラギラと燃える目で言うサシャにシルヴェストルは同意する。
そんな事、シルヴェストルだって知りたいし、調べたい。
しかしこの突然の決定の意味を知るのが国王と王妃だけのようなのだ。どうやって調べるのだと、やり手と言われるシルヴェストルだってお手あげである。
「私もやれるだけの事はしよう。お前だけに、しかも冷静ではないお前にやらせるわけにはいかない」
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