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番外編
お江戸で猫の日!:前編
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猫の日とは。
兵馬は辻で受け取ってしまった──と言う事はすなわち買ってしまったのだけれども──瓦版を片手に縁側でぼんやりと空を見上げた。
兵馬が買ってしまった瓦版には“猫の日”について綴られている。
(鳴き声が二と近いから、猫の日……)
読んだ限りの事は理解出来たが、だからなんだ、と言うのが兵馬の気持ちだ。
猫の日だからなんだと言うのだ、祭りがあるわけでもなく、ただ猫の日だと言われても兵馬としては「そうか」で終わってしまう。
「あら、兵馬さん、瓦版買われたの?」
「母さん」
縁側で瓦版片手に座っている兵馬を見つけたのはおとわ。
この家に後妻として入ってきた、兵馬の父が身請けをした元花魁である。
母の記憶がない兵馬にとって母親の役をこれ以上なく担ってくれた彼女を兵馬は、素直に母と呼んでいた。
「猫の日、ふふふ、今話題よねえ」
「そうみたいですね」
だからなんだ、と難しそうな顔をする兵馬におとわは「あら」と言って
「面白そうだからってあの人、端切れを集めてお針子さんたちに猫の人形を作ってもらっているのよ」
おとわは「こんな」と言って左右の親指と人差し指で卵くらいの大きさの円を作った。
「猫の日に合わせて?」
「そうよ。それにちょっと行ったところの粟島屋さんは、猫の形のお饅頭を売るんですって」
「猫の日に合わせて……」
「そうよ。せっかくだから楽しんでみようかって事なんですって。この辺りのお店の旦那さんたちで寄り合いで決めたそうよ」
兵馬が「聞いてない」とぼやくと、おとわはクスクス笑う。
「兵馬さんはこう言う事、とんと興味ないものねえ。でもダメよ。吉村さんのところへお婿さんにいくんだから、そういうところも気をつけなきゃ」
「吉村さんで?猫の日?」
訝しげな兵馬の隣におとわは腰掛ける。
「そうよ。だっていろんな方が利用するのよ?そこでこういう話をふられた時に困っちゃうじゃない?無表情な若旦那もいいけど、だめよ?」
「船宿で……猫の日?」
「まあ、兵馬さんがそこのところダメでも、ゆづかちゃんがいるし、与助くんもいるから平気かしらねえ」
おとわはすっと立ち上がると、呆然とした顔で見上げる兵馬にニッコリと笑って
「兵馬さんはあれよねえ。もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。お仕事とゆづかちゃんには敏感なのに、それと関係なさそうな事は素通りでしょう?それじゃあダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない」
言って去って行く。
その背中を見送りながら
(確かに……そうだな。まだまだお子様ね、と母さんは言いたいんだろうけど、でも、しかし、それでもなあ……)
──────猫の日、ねえ。
猫の日を明日に控えた今日、船宿吉村に兵馬の姿がある。
彼は婿入り先の吉村にて、週のうち四、五日ほどを使い次期店主としての事を学んでいた。
教師役は店主でありゆづかの父でもある吉村勇蔵であったり、彼の腹心の部下にあたる番頭の一人であったり様々だ。
また、船が怖いと言うなんとも言えないものを克服するために時間を使う事もある。
周りは「別にいいんじゃないの?」と気にもしていないのだけれど、兵馬自身がどうしても許せないので新吾という船頭の時間を貰い奮闘中だ。
船の克服は兎も角として、兵馬は腐っても大店駿河屋の三男。
飲み込みも良く、時には店先で番頭の隣、勇蔵の隣で客の対応もさせられている。
いつかはそうなると分かっていても、まだ右も左も分からないのに早くないだろうか、と言うのが兵馬の気持ちなのに彼らは容赦がなかった。
「え?猫?」
「へえ、猫ですよ。若旦那様」
訝しげな顔になったのは兵馬。
若旦那呼びも慣れている。なにせ実家でも同じと言わなくても似たような言葉で呼ばれているのだ。若が付かない呼び名になると坊ちゃんである。
対して若旦那と言ったのは与助。駿河屋庄三郎──兵馬の父親だ──に「愛想が良い、いるだけで明るくなりそうな好青年」と言われ、雇い主である勇蔵には「いい番頭になるだろう」と言われている。本人は一切そんな事を知らないが。
少し休憩に奥の部屋に引っ込んだ兵馬と、兵馬に茶を持ってきた与助という状態での会話ある。
「私もよくは知りませんけど、なんでもあすは猫の日なんでしょう?お客さまから“あすが猫の日”と聞いたお嬢様が『街が猫で溢れるのかしら』と昨日あたりからワクワクしておいでで」
「わくわく……」
「へえ、そうですよ。お嬢様、猫がお好きでらっしゃいますよ。お庭に鳥がくるんでって、飼いたいとは言わないんでしょうねえ」
「知らなかった」
若干悔しそうな声で兵馬が言葉を捻り出す。
確かにゆづかと与助──────いや、与助に限らずここの人間の方がゆづかとの付き合いが長いとは言え、自分が知らない事を知っていると言うのは、全くもって面白くない。
「猫か……」
少し考え込む兵馬は昨日のおとわの言葉を思い出した。
──────もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない。
ゆづかの事を隅々まで知り尽くしてみたいと思って、気にしていても全てを知るのは難しい。
自分に興味がないとは言え、確かにゆづかにとっては分からない。それを知った時にゆづかがどう反応するかも、その時になるまで判らない。
この範囲でいいかという狭い目の自分じゃなくて、もっと広い目を持たないと店主としても不合格だと兵馬は反省した。
すぐに出来るかは別として、自覚はした。
「猫ねえ」
深く考え込んだ兵馬が無言になってしまったので、与助はそっと部屋を後にした。
この後兵馬は昼過ぎにすっ飛んで帰る。
もちろん、未来の父親勇蔵に断りを入れて、許可をもらうとすぐにだ。
その兵馬らしからぬ行動に吉村屋一同首を傾げた。
唯一別の事を考えていたのは与助。
「若旦那に会えると思って帰ってきなすったお嬢様が、がっかりなさるだろうなあ」
その通りである。
兵馬は辻で受け取ってしまった──と言う事はすなわち買ってしまったのだけれども──瓦版を片手に縁側でぼんやりと空を見上げた。
兵馬が買ってしまった瓦版には“猫の日”について綴られている。
(鳴き声が二と近いから、猫の日……)
読んだ限りの事は理解出来たが、だからなんだ、と言うのが兵馬の気持ちだ。
猫の日だからなんだと言うのだ、祭りがあるわけでもなく、ただ猫の日だと言われても兵馬としては「そうか」で終わってしまう。
「あら、兵馬さん、瓦版買われたの?」
「母さん」
縁側で瓦版片手に座っている兵馬を見つけたのはおとわ。
この家に後妻として入ってきた、兵馬の父が身請けをした元花魁である。
母の記憶がない兵馬にとって母親の役をこれ以上なく担ってくれた彼女を兵馬は、素直に母と呼んでいた。
「猫の日、ふふふ、今話題よねえ」
「そうみたいですね」
だからなんだ、と難しそうな顔をする兵馬におとわは「あら」と言って
「面白そうだからってあの人、端切れを集めてお針子さんたちに猫の人形を作ってもらっているのよ」
おとわは「こんな」と言って左右の親指と人差し指で卵くらいの大きさの円を作った。
「猫の日に合わせて?」
「そうよ。それにちょっと行ったところの粟島屋さんは、猫の形のお饅頭を売るんですって」
「猫の日に合わせて……」
「そうよ。せっかくだから楽しんでみようかって事なんですって。この辺りのお店の旦那さんたちで寄り合いで決めたそうよ」
兵馬が「聞いてない」とぼやくと、おとわはクスクス笑う。
「兵馬さんはこう言う事、とんと興味ないものねえ。でもダメよ。吉村さんのところへお婿さんにいくんだから、そういうところも気をつけなきゃ」
「吉村さんで?猫の日?」
訝しげな兵馬の隣におとわは腰掛ける。
「そうよ。だっていろんな方が利用するのよ?そこでこういう話をふられた時に困っちゃうじゃない?無表情な若旦那もいいけど、だめよ?」
「船宿で……猫の日?」
「まあ、兵馬さんがそこのところダメでも、ゆづかちゃんがいるし、与助くんもいるから平気かしらねえ」
おとわはすっと立ち上がると、呆然とした顔で見上げる兵馬にニッコリと笑って
「兵馬さんはあれよねえ。もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。お仕事とゆづかちゃんには敏感なのに、それと関係なさそうな事は素通りでしょう?それじゃあダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない」
言って去って行く。
その背中を見送りながら
(確かに……そうだな。まだまだお子様ね、と母さんは言いたいんだろうけど、でも、しかし、それでもなあ……)
──────猫の日、ねえ。
猫の日を明日に控えた今日、船宿吉村に兵馬の姿がある。
彼は婿入り先の吉村にて、週のうち四、五日ほどを使い次期店主としての事を学んでいた。
教師役は店主でありゆづかの父でもある吉村勇蔵であったり、彼の腹心の部下にあたる番頭の一人であったり様々だ。
また、船が怖いと言うなんとも言えないものを克服するために時間を使う事もある。
周りは「別にいいんじゃないの?」と気にもしていないのだけれど、兵馬自身がどうしても許せないので新吾という船頭の時間を貰い奮闘中だ。
船の克服は兎も角として、兵馬は腐っても大店駿河屋の三男。
飲み込みも良く、時には店先で番頭の隣、勇蔵の隣で客の対応もさせられている。
いつかはそうなると分かっていても、まだ右も左も分からないのに早くないだろうか、と言うのが兵馬の気持ちなのに彼らは容赦がなかった。
「え?猫?」
「へえ、猫ですよ。若旦那様」
訝しげな顔になったのは兵馬。
若旦那呼びも慣れている。なにせ実家でも同じと言わなくても似たような言葉で呼ばれているのだ。若が付かない呼び名になると坊ちゃんである。
対して若旦那と言ったのは与助。駿河屋庄三郎──兵馬の父親だ──に「愛想が良い、いるだけで明るくなりそうな好青年」と言われ、雇い主である勇蔵には「いい番頭になるだろう」と言われている。本人は一切そんな事を知らないが。
少し休憩に奥の部屋に引っ込んだ兵馬と、兵馬に茶を持ってきた与助という状態での会話ある。
「私もよくは知りませんけど、なんでもあすは猫の日なんでしょう?お客さまから“あすが猫の日”と聞いたお嬢様が『街が猫で溢れるのかしら』と昨日あたりからワクワクしておいでで」
「わくわく……」
「へえ、そうですよ。お嬢様、猫がお好きでらっしゃいますよ。お庭に鳥がくるんでって、飼いたいとは言わないんでしょうねえ」
「知らなかった」
若干悔しそうな声で兵馬が言葉を捻り出す。
確かにゆづかと与助──────いや、与助に限らずここの人間の方がゆづかとの付き合いが長いとは言え、自分が知らない事を知っていると言うのは、全くもって面白くない。
「猫か……」
少し考え込む兵馬は昨日のおとわの言葉を思い出した。
──────もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない。
ゆづかの事を隅々まで知り尽くしてみたいと思って、気にしていても全てを知るのは難しい。
自分に興味がないとは言え、確かにゆづかにとっては分からない。それを知った時にゆづかがどう反応するかも、その時になるまで判らない。
この範囲でいいかという狭い目の自分じゃなくて、もっと広い目を持たないと店主としても不合格だと兵馬は反省した。
すぐに出来るかは別として、自覚はした。
「猫ねえ」
深く考え込んだ兵馬が無言になってしまったので、与助はそっと部屋を後にした。
この後兵馬は昼過ぎにすっ飛んで帰る。
もちろん、未来の父親勇蔵に断りを入れて、許可をもらうとすぐにだ。
その兵馬らしからぬ行動に吉村屋一同首を傾げた。
唯一別の事を考えていたのは与助。
「若旦那に会えると思って帰ってきなすったお嬢様が、がっかりなさるだろうなあ」
その通りである。
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