屋烏の愛

あこ

文字の大きさ
上 下
32 / 36
番外編

お江戸で猫の日!:前編

しおりを挟む
とは。
兵馬は辻で受け取ってしまった──と言う事はすなわちのだけれども──瓦版を片手に縁側でぼんやりと空を見上げた。
兵馬が買ってしまった瓦版には“猫の日”について綴られている。
(鳴き声がと近いから、猫の日……)
読んだ限りの事は理解出来たが、だからなんだ、と言うのが兵馬の気持ちだ。
猫の日だからなんだと言うのだ、祭りがあるわけでもなく、ただ猫の日だと言われても兵馬としては「そうか」で終わってしまう。

「あら、兵馬さん、瓦版買われたの?」
「母さん」

縁側で瓦版片手に座っている兵馬を見つけたのはおとわ。
この家に後妻として入ってきた、兵馬の父が身請けをした元花魁である。
母の記憶がない兵馬にとって母親の役をこれ以上なく担ってくれた彼女を兵馬は、素直に母と呼んでいた。
「猫の日、ふふふ、今話題よねえ」
「そうみたいですね」
だからなんだ、と難しそうな顔をする兵馬におとわは「あら」と言って
「面白そうだからってあの人、端切れを集めてお針子さんたちにを作ってもらっているのよ」
おとわは「こんな」と言って左右の親指と人差し指で卵くらいの大きさの円を作った。
「猫の日に合わせて?」
「そうよ。それにちょっと行ったところの粟島屋さんは、を売るんですって」
「猫の日に合わせて……」
「そうよ。せっかくだから楽しんでみようかって事なんですって。この辺りのお店の旦那さんたちで寄り合いで決めたそうよ」
兵馬が「聞いてない」とぼやくと、おとわはクスクス笑う。
「兵馬さんはこう言う事、とんと興味ないものねえ。でもダメよ。吉村さんのところへお婿さんにいくんだから、そういうところも気をつけなきゃ」
「吉村さんで?猫の日?」
訝しげな兵馬の隣におとわは腰掛ける。
「そうよ。だっていろんな方が利用するのよ?そこでこういう話をふられた時に困っちゃうじゃない?無表情な若旦那もいいけど、だめよ?」
「船宿で……猫の日?」
「まあ、兵馬さんがそこのところダメでも、ゆづかちゃんがいるし、与助くんもいるから平気かしらねえ」
おとわはすっと立ち上がると、呆然とした顔で見上げる兵馬にニッコリと笑って
「兵馬さんはあれよねえ。もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。お仕事とゆづかちゃんには敏感なのに、それと関係なさそうな事は素通りでしょう?それじゃあダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない」
言って去って行く。
その背中を見送りながら
(確かに……そうだな。まだまだお子様ね、と母さんは言いたいんだろうけど、でも、しかし、それでもなあ……)

──────猫の日、ねえ。



猫の日を明日に控えた今日、船宿吉村に兵馬の姿がある。
彼は婿入り先の吉村にて、週のうち四、五日ほどを使い次期店主としての事を学んでいた。
教師役は店主でありゆづかの父でもある吉村勇蔵であったり、彼の腹心の部下にあたる番頭の一人であったり様々だ。
また、船が怖いと言うを克服するために時間を使う事もある。
周りは「別にいいんじゃないの?」と気にもしていないのだけれど、兵馬自身がどうしても許せないので新吾という船頭の時間を貰い奮闘中だ。
船の克服は兎も角として、兵馬は腐っても大店駿河屋の三男。
飲み込みも良く、時には店先で番頭の隣、勇蔵の隣で客の対応もいる。
いつかはそうなると分かっていても、まだ右も左も分からないのに早くないだろうか、と言うのが兵馬の気持ちなのに彼らは容赦がなかった。

「え?猫?」
「へえ、猫ですよ。若旦那様」

訝しげな顔になったのは兵馬。
若旦那呼びも慣れている。なにせ実家でも同じと言わなくても似たような言葉で呼ばれているのだ。若が付かない呼び名になるとである。
対して若旦那と言ったのは与助。駿河屋庄三郎──兵馬の父親だ──に「愛想が良い、いるだけで明るくなりそうな好青年」と言われ、雇い主である勇蔵には「いい番頭になるだろう」と言われている。本人は一切そんな事を知らないが。
少し休憩に奥の部屋に引っ込んだ兵馬と、兵馬に茶を持ってきた与助という状態での会話ある。
「私もよくは知りませんけど、なんでもあすは猫の日なんでしょう?お客さまから“あすが猫の日”と聞いたお嬢様が『街が猫で溢れるのかしら』と昨日あたりからワクワクしておいでで」
「わくわく……」
「へえ、そうですよ。お嬢様、猫がお好きでらっしゃいますよ。お庭に鳥がくるんでって、飼いたいとは言わないんでしょうねえ」
「知らなかった」
若干悔しそうな声で兵馬が言葉を捻り出す。
確かにゆづかと与助──────いや、与助に限らずここの人間の方がゆづかとの付き合いが長いとは言え、自分が知らない事を知っていると言うのは、全くもって面白くない。
「猫か……」
少し考え込む兵馬は昨日のおとわの言葉を思い出した。

──────もう少し自分の興味のない事も気にかけなきゃダメよ。素通りしたものが、お仕事やゆづかちゃんにとっては意味のある事かもしれないじゃない。

ゆづかの事を隅々まで知り尽くしてみたいと思って、気にしていても全てを知るのは難しい。
自分に興味がないとは言え、確かにゆづかにとっては分からない。それを知った時にゆづかがどう反応するかも、その時になるまで判らない。
この範囲でいいかという狭い目の自分じゃなくて、もっと広い目を持たないと店主としても不合格だと兵馬は反省した。
すぐに出来るかは別として、
「猫ねえ」
深く考え込んだ兵馬が無言になってしまったので、与助はそっと部屋を後にした。

この後兵馬は昼過ぎにすっ飛んで帰る。
もちろん、未来の父親勇蔵に断りを入れて、許可をもらうとすぐにだ。
その兵馬らしからぬ行動に吉村屋一同首を傾げた。

唯一別の事を考えていたのは与助。
「若旦那に会えると思って帰ってきなすったお嬢様が、がっかりなさるだろうなあ」
その通りである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

『番外編』イケメン彼氏は警察官!初めてのお酒に私の記憶はどこに!?

すずなり。
恋愛
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の身は持たない!?の番外編です。 ある日、美都の元に届いた『同窓会』のご案内。もう目が治ってる美都は参加することに決めた。 要「これ・・・酒が出ると思うけど飲むなよ?」 そう要に言われてたけど、渡されたグラスに口をつける美都。それが『酒』だと気づいたころにはもうだいぶ廻っていて・・・。 要「今日はやたら素直だな・・・。」 美都「早くっ・・入れて欲しいっ・・!あぁっ・・!」 いつもとは違う、乱れた夜に・・・・・。 ※お話は全て想像の世界です。現実世界とはなんら関係ありません。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

オメガなパパとぼくの話

キサラギムツキ
BL
タイトルのままオメガなパパと息子の日常話。

フローブルー

とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。 高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。

同僚に密室に連れ込まれてイケナイ状況です

暗黒神ゼブラ
BL
今日僕は同僚にごはんに誘われました

すべてはあなたを守るため

高菜あやめ
BL
【天然超絶美形な王太子×妾のフリした護衛】 Y国の次期国王セレスタン王太子殿下の妾になるため、はるばるX国からやってきたロキ。だが妾とは表向きの姿で、その正体はY国政府の依頼で派遣された『雇われ』護衛だ。戴冠式を一か月後に控え、殿下をあらゆる刺客から守りぬかなくてはならない。しかしこの任務、殿下に素性を知られないことが条件で、そのため武器も取り上げられ、丸腰で護衛をするとか無茶な注文をされる。ロキははたして殿下を守りぬけるのか……愛情深い王太子殿下とポンコツ護衛のほのぼの切ないラブコメディです

【完結】運命さんこんにちは、さようなら

ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。 とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。 ========== 完結しました。ありがとうございました。

処理中です...