屋烏の愛

あこ

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船宿吉村

❢ その光は限りなく白く

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「板倉の旦那様、お久しぶりでございます」
「おぉ、ゆづか、お前の噂を聞いたよ。良かったじゃないか──────なに、俺が知ってて意外だなんて、お前は俺が何をしていたか、時々忘れるのだろう?まったく、今だって染み付いててな、どうにも世間の噂は耳にして置きたいくちだからな。こと、なら俺の耳は聞こえが良いぞ」

表でそう聞こえてすぐ、長身で体躯の良い男が吉村の暖簾を潜り入った。
男を見た番頭が直ぐに勇蔵を呼び、この店の一番番頭の横で何か勉強に励んでいた兵馬が顔を上げる。
(……ああ、北町の)
北町奉行所に勤めていた板倉という男はと評判の男で、年の頃は勇蔵よりも上だ。つい先日隠居し今では板倉同様真面目が服を着たと評判の息子夫婦とともに暮らしている。
彼も息子も大真面目と言われるがもありそして常に中立であり、町の人間の評判も上々──────、つまりはであった。
板倉も兵馬を見つけ鋭いが目尻にはもう皺も刻まれた目を細め、兵馬は兵馬で頭を下げる。しかし直ぐに隣の番頭に帳面について言われた様で顔を下に戻した。
捕縛した罪人を尋問するにも似た視線を向けた板倉は
(なるほどねえ。あれが駿河屋の……ふうむ)
心で独り言ちて、こちらに向かってくる少し早い足音が聞こえる方へ顔を向けた。
そちらからくるのはこの店の主人である勇蔵だ。
板倉の顔は彼を見つけ、実に楽しそうな顔になる。

「いらしてましてね、もう先においででございます」
「あぁすまない。しかしあれだね、かねてからあの子はと思ったが、うん、なかなか良い相手そうで安心したよ。なにせ駿河屋の末は上二人と違って娘らの話題に事欠かないからな。どんな男かと思っていたが、そうか、あれか。噂と違い真面目そうだ」
「板倉様がそうおっしゃって下さると、義理の父となる私としてはほっといたしますよ」
「ならば今度、ゆづかを貸してはくれぬか?」
「ゆづかをでございますか?」
「いつか言っただろう?ゆづかは大物をつり上げる事が出来ると。だから安心してどっかり座っていればいいのさと。ほらみろ、だったではないか」
「へえ、そう言われればそうかもしれませんなあ!」
「だから貸してはくれぬか?大物をつり上げるあの子と釣りをすれば、河童さえ釣れる気がするだろう?俺もはそろそろ飽きてな、だから借りたいんだよ。『今日も坊主でしたね!』と生意気を言う息子に反撃をしたいと思うのが、父親だろ?あっはははは」

階段の上と下、短い会話で板倉が奥へと進む。ゆづかの好きなあの二階の部屋が男の目的地である。

ある日より板倉はここの常連となった。
ひと月に一度か二度くるかこないか程度の客だが、板倉に取ってこの店主の吉村は無くてはならない存在となっている。
それはすべて、この部屋で待つ、一人の娘の存在があるからだ。



「板倉様、お久しぶりでございます」
「お琴、なかなかお前に連絡も取れずに居て心配したのだ。お前はいったい何をしていた?あいつを訪ねてもお前から言いたいの一点張りで、俺をああも退けたのは、お前の亭主くらいの物だ」
言って窓際に座るお琴の前にドカリと音を立てて板倉が座る。
音と声でお琴の顔がゆったりと板倉へと向くが彼の目とはなかなか合わないし、彼女は合ったかどうかも解らない。
「どうしたって私から、板倉様に申し上げたかったのでございます。最後にお会いした日からもう随分と時間もたって、板倉様がお役を退かれたと知って私、いましかないって」
そういってはにかむお琴の顔を見る板倉の表情は、奉行所では見せた事がないだろう程に柔らかいそれだ。
「嬉しそうな顔をしおって。さてはお前、嬉しい事でもあったか?」
見れば分かる事なのにそう聞いて、お琴の顔が幸せそうに微笑むのを板倉は実に考え深く見た。
息子が嫁をもらい、その嫁がことのほか人に優しく出来た嫁であった事に安堵した時のような。「俺の息子は人を見る目がこんなにもあったのか」なんて、子供の成長を受け止めている様な表情だ。
「私、母になりました」
その言葉に目を点にして口をぽかんと開けた板倉の顔が、徐々に破顔へと変わる。ゴクリと唾を飲み込むと板倉は優しくお琴の手を握った。
「おおお、それは、それは……いつだ?いつ生まれたのだ?」
「ふた月程前でございます。それでなかなか、お会い出来ずにおりまして。今日はあの人とお母さんたちが見ててくれるんです」
「確かにそれはお前の口から聞きたかったが、それならそうと、あいつも言えば良い物を!あの馬鹿者が!」
「ふふふ、板倉様、そんな娘の出産を後から知った父親の様な事を言って……あの人にお願いしたのは私なんですから、そんなに怒らないでやって下さい」
「いいや、お前の事は常々娘の様に思っていると、以前から言ってるだろう」
からからと楽しそうな声で笑い、握られた手をそっとお琴は握り返す。
こうして手を優しく握られる事は、お琴が幼い事から良く合った事だ。
握った手の向こうの顔を、お琴は一度も見た事が無い。
どれだけ見たいと願っても、彼女の目は何も写してくれないのだ。

板倉の事は母と板倉からを聞かされた。
板倉は「お琴が生まれる前からの付き合い」で「生まれる前にとある咎人を捕まえる際、大層迷惑をかけた」為に、その恩義を感じずっとお琴の母とお琴に心を配っていたと言う。板倉がそうする相手はお琴以外に数人居たため、お琴はそれを信じている。それに自分を大切に育ててくれた母が言うのだ、信じない訳が無いだろう。
「そうか……子が。考え深い物だ。お前はまだ小さくて、それこそ昨日までここのゆづかの様な物だと思っていたのだが……そうだったなあ」
深い息を吐き出しそう言いきった板倉は目頭をグッと押さえて手を離す。
いくら目の前のお琴が目が見えないとはいえ──────いや、だからこそ彼女は相手の感情の起伏に敏感であった。
泣いてしまえば直ぐにばれてしまう。泣いた理由を言えるかどうか、板倉は心底不安だった。
「それでもうそうしてしまったから、その、事後報告で……でも板倉様にうんと言って頂きたいのでございます」
おずおずと心配そうに言ってくるお琴に板倉は目を瞬かせると安心させる様に、ぽんと握っていた手を叩く。

「名前はその、周太郎とつけました」

完全に表情を取り落とした板倉の顔をお琴は知らず、嬉しそうに笑うと続ける。
「板倉様のお名前から一文字、うちの人から一文字、それで周太郎、と」
お琴に聞こえない様に、それでも強く奥歯を噛んだ板倉は一度痛い程唇を噛み締めると震える声で言葉を落とす。お琴の手を握っていない方の手はギリギリと袴を握りしめた。
「いや、いけないよ、俺から一文字なんてお前、良い奴になるはずがない」
「いいえ板倉様。私は子が生まれたら、おのこだろうがおなごであろうが、板倉様の様に人を気にかける事が出来る子になれと必ずお名前をもらうと決めておりました。ですからどうか、うん、と」
縋る様な──────それこそ「この人と一緒になりたいから母を説得して欲しいのです!」と今のお琴の亭主になっている男を紹介してきた時の様な不安な声に、板倉の感情があふれて止まらなくなりそうになる。
しかしそれをグッと押し殺して板倉は目の奥に力を込めた。

「俺の様な男になるな、と。お前を立派に助けられる様な子に育てると約束しておくれ。それならと、喜んで言うさ」

お琴の手を握っていた手が震え、それを感じたお琴が首を傾げつつも手を強く握り返す。
ポツ、と落ちてきた冷たい雫を涙だと感じたお琴が眉をたらした嬉しそうな顔を板倉に向ける。

「板倉様、もう、なんで泣いてらっしゃるのですか」
「お前が年寄りを泣かせる様な事を言うからだろう。いいか、お琴。年を取れば皆涙が直ぐにあふれるんだ。お前がそんな、こんな俺の名前を子につけたなんていえば、俺だって泣くさ」

ああ、いやだ。と懐から手ぬぐいを出しグッと涙を拭いた板倉は、目の前のお琴の隣に彼女の母がいればとふと過った。
きっとこの報告を飛び跳ねる様に喜んだだろう姿が、目を閉じれば瞼の裏に浮かぶのだ。
くったくない笑顔で「なんてすばらしいことでしょう!」とキラキラとした目で言うに違いないのに。
(なんだって呆気なくいっちまったんだ)
先に行った恩義の話は本当だ。
しかし言っていない事が一つだけある。目の前のお琴が実は自分の子であるという一点だ。
妻に不満を一つも持った事がない板倉の、初めての恋だった。たった一度、そう嘘偽りなく咎人を捕縛する際に迷惑をかけたその一度で二人は何もかも忘れるくらいに惹かれた。
このまじめが服を着ている板倉が、我慢出来ないほどに彼女を愛してしまった。たった一度会っただけなのに。
どうあっても離縁して後妻になんていう事をお琴の母は思わなかったし、板倉もそれは思わなかった。けれど一度で二人揃って恋に落ち、二人は世間も何もかも忘れてしまったのだ。
その一度だけの行為でお琴が生まれたと聞いた時、板倉の心に広がったのは息子が生まれた時と何も変わらない愛おしさだ。
それからずっと、お琴には「咎人を捕まえる際に……」と、その恩義だと言い、事実であるそれを良い事に支援を続けた。
そんなきっと生涯父だと言えないだろう実の娘からの、大きすぎるこの報告が板倉に様々な物を考えさえ思い出させる。

板倉は亡き妻には一度だけ、ああのだと思う様な事を言われていた。
怒り狂ってもいいだろうに、彼女は小さく笑って「父親がいると知れるだけで、人は強く幸せにもなれるのですよ」と。
すまない、とも、そうだな、とも、何もいないままの板倉を彼女は責めなかった。──────わがままにもあなたを夫にしたいと言い出し、最後には亡き父にも泣きついて無理やり叶えてもらった世間知らずだったわたしですが、わたしを誰よりも大切にしてくれている気持ちが本物であると言う事は、しっかりと分かっているんですよ。だからいつか、後悔しない様にしてください。
板倉の亡き妻はそう言ったが、板倉はきっとそれをしないだろう。
(俺の様な、不真面目で不誠実な奴が父親だなんて、言えるはずもないさ)
妻に対して最後まで誠実でいようと思ったのに、けれどお琴の母との思いも決して嘘ではなかった。
なんていう男なのだと、板倉は今でも後悔している。どうして、あの時理性が働かなかったのだろうかと。
それなのにお琴が生まれた事が、こうして立派に育った事が、こんなにも嬉しいのだ。
──────愛している。愛しているんだ。お前を大切に思っているんだ。
それを生涯口から言えない代わり涙が流れるのだと、板倉は思った。
なんて自分勝手で浅ましいのかと思い自分に呆れ軽蔑すらするのに、彼は嬉しいのだ。

「ああそうだ、折角だからお前がいつも…………周太郎に聞かせる歌でも俺に聞かせてみてくれ」
「子守唄ですよ?」
「ああ、だからいいんじゃないか」

おもしろい板倉様、と笑った声が次いで優しい歌を歌う。周太郎、という前に板倉がつい開けてしまった僅かな間をお琴は涙の所為だと気にしない。
父親の様に慕う相手が、子供の名前を噛み締めていってくれた気がして寧ろ誇らしい。
(板倉様が父であれば、私はどれだけ幸せだろう…)
母と板倉の間に合ったのは確かに恩義だったと今もお琴は思う。もしそんな感情がそこにあればあの母ならば、きっと死ぬ前に言うと思っているからだ。
しかしそれが母の板倉の妻への思いで、そしてそれを知るからこその板倉のこの思いである。
幸せにしてやれたとは言えない、この先だって言えないだろう娘の愛しい子の名をとして呼んでいいのか、それともとして呼んでいいのか、板倉には判断出来なかったのだ。それで生まれたその少しの間。
(ああしかし、孫として呼んだ俺は、なんて情けねェんだろうか)
静かな歌声を聴きながら目を閉じた板倉はやはり、涙を抑える事が出来なかった。
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