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本編
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「あぁでも、この場合はもう請け出すなんて出来ない訳だから……私は“うん”と言ってもらわないと困るね」
困ると言っている割に、兵馬の顔はまったく困っていない。
それはそうだ、自分の言葉が足りなかったせいとはいえ──兵馬は足りなかったとは思っていないのだけれども──、面白い事実を知れたのだから。
「やはり、恋というのは勢いが良くなきゃ、いけない」
目の前で唖然とした表情から変える事が出来ないゆづかを前に、兵馬の顔は反対にどんどんと笑みが深くなる。
「いいかな、ゆづかちゃん。良家の子供という立場の先輩として、教えて上げよう」
「は……はい」
「今はとても特殊な状態だけど、私やゆづかちゃんの様な立場の子は親が勘定して結婚相手を決める。そこに子供の意見なんて物は、殆どの場合が一切無い。そして有り難い事にうちの呉服屋と、吉村屋は家としても釣り合っている。これは事実だ。これはゆづかちゃんでも解るね?」
「……は、はい」
「本来ならば男のゆづかちゃんが嫁ぐ事は不可能で、相手に理解してもらう所から始めなきゃいけない」
「……は、い」
「その点、私は何もかも問題を解決することができてしまうんだ」
「あの、それが……?」
「あぁ、うん……、そうだね。あの時の禿を請け出す事は不可能でもね、ゆづかちゃんを私が縛る方法はいくらでも残っている。というお話だよ」
軽い足音で階段を降りてくるそれに奉公人が一斉にそこを向けば笑みをたたえた兵馬がおり、全員が思わず上を見上げるもゆづかの姿は無い。
あの無表情が多い兵馬のこれは一体何事か、と思ったのだろうか。心配そうに階上を見る奉公人に
(愛されているという事は、本当に良い事だ)
兵馬は心で独り言ちると、廊下を真っ直ぐ歩いて奥へと向かう。今頃四人の大人が心配そうに顔を突き合わせているだろう、そこだ。
唖然としたまま固まってしまったゆづかを思えば暫くはあのまま動けないだろうし、その間に、全てをお願いしてしまえば良いという完全にゆづかの気持ちはそっちのけの行動だが
(嫌だとは言われていないのだからね)
とまた心で言って、障子を気持ち良く開けてみせた。
「父さん、私が十の時に言ったあの話を覚えていますか?」
開口一番のそれに部屋の大人は皆揃って首をひねった。
廊下から入ってすぐに座った兵馬に視線が集まるが、兵馬は変わらない表情で
「あの禿が欲しい。と言ったあの話です」
突然の話題に漸く動いたのは庄三郎で、何の話だと訝し気に兵馬を見る吉村夫婦はおとわに視線を動かす。
「あれはまだ、有効でしょうか?」
「……有効って、お前な、今そんな話をしてる場合じゃないだろう」
「今だからです。有効ですか?」
「そりゃ、お前……、二言は無い。俺も男だ。あれは確かに言った。二言は無いさ」
「なら、申し込んで下さい」
「は?」
「見合いを。ここのお嬢さんと、私の見合いの場を、整えて頂きたいのです。そして許していただきたいのです。私がここのお嬢さんと祝言を上げる事を」
──────お前が十七になってもそう思えたら、お前に請ける金子を用意してあげよう。
その約束を庄三郎は忘れてはいない。だからと言って一体何が何なのか、庄三郎にはさっぱりだった。
あの禿を請ける金子を用意しろと言いながら、ゆづかと見合いをして祝言を挙げさせて欲しいと言っているのだから“ゆづか”と“禿”が同一人物であると気がつかないと、今の庄三郎の様に「何の話なんだ?」と眉間に皺を寄せて怪訝な顔をするのが普通なのではないだろうか。
しかし、おとわから「七年前の約束」を簡素ながらに聞いたお香と、聞かせたおとわにはピンと解った。勇蔵の眉間を思うと、彼はまだピンと来ていないのだろう。
「私、“禿”だと言うから“女の子”ばかり探していたわ。それじゃ見つからないわよね」
「おとちゃん、それは仕方の無い事よ。それが普通よ」
「どうかしら、お見合い……してくれるかしら?」
「するのはいいけど……私、あの子には本当に恋をしてほしいのよ。恋だけじゃないのよ。楽しい事をいっぱいね、知って欲しいの。本当はそんな事じゃいけないって、ここの女将である私は思うのだけれども、それでもね、私はそう思っているの。だって、私たちはその為にあの子を子供した訳じゃないんだもの」
「──────ですって、兵馬」
外で兵馬、と言われるのはくすぐったくて兵馬は好きだ。母を知る、その気持ちが膨らむから、好きだった。
「私も、私を心底好いて頂きたいので、場を整え直して頂けたら。それと二人きりで遊びに行く事を許して頂けたら、それだけで。大丈夫です、婚前交渉なんて、絶対にしませんから」
ならいいわね、そうね、と話し始めた女二人が、未だになんの事かと理解出来ないと言った表情の男を見て呆れ顔に変わる。
「あなた、まだ分からないの?」
呆れ返ったおとわの声に二人の男が気圧されつつも頷くと、おとわはわざとらしく溜息をつく。遊女だった頃のおとわに溜息をつかれ心に何かがグサリと刺さった事を思い出した庄三郎の引きつる顔と、妻の呆れた視線に小さくなっている勇蔵に兵馬が
(自分は尻に引かれない様にしよう)
と決意している事は誰にも気が付かれてはいない。しかし、とてもじゃないが奉公人に見せられない二人の様に兵馬は助け舟を出した。
片や、川に張り出した部屋には誰も来ず、漸くゆづかが自分の横顔に光を当てる川面に目を向けた様子を見る事が出来る。
あの生活を十二まで続けていたから、そういう視線の意味をゆづかは嫌という程に知っていた。
だからゆづかは自分に少しでも“色っぽい視線”を送る男には近づかなかったし、船宿吉村の娘として問題にならない程度に避ける事もしている。先に言った様に「好きだ」と言われればきちんと断るし、何よりそう言われない様に“とにかく努力”して来たつもりだ。
例えば今、ゆづかの視線の先の川で小さな波紋が、じっと見ていなければ気が付かない程の波紋が出来た程度の視線だったとしても、ゆづかは感じる様に作られた。
尤も、感じるのは相手が自分に好意を持っているのかどうか、であるのだから全てに気が付く訳ではない。これはゆづかがそうなりたくなったのではなく、そうなるべきだとなってしまっただけ。
今まではそれに感謝をした部分も有る。ここはゆづかの大切な場所だ。悪い噂なんて立てたくはないし、なるべくなら良いお嬢さんでいたい。
それがこんな風になるとは思わなかった。あの日、外で偶然会ったあの日、知ってしまったのだ。
──────兵馬様は、私に好意を持っている。
今までの様に適当にお断りするのではなく、全てを打ち明けてでも解ってもらおうとしたのは全て、あの日七年間の、あの時の一言が原因だ。
──────父さん、僕はあの子が欲しい。
初恋かと言われればあれは「もしかしたらそうかもしれない」と言えそうな程に、あの一言は今だってゆづかに取って大切な大切な言葉だった。
直接言われた訳ではない。
けれど店の道具として組み立てられ作られて行く哀れで可哀想だと花街で指さされる自分ではない自分に、あの場にいた禿の一人として言われたその言葉が、誰に言われたどんな言葉よりもゆづかの心を温かくしたのだ。
恐ろしい事に、初めて、ゆづかの心が温かくなった。
だからこそ適当に濁してしまうなんて、ゆづかには出来なかったのだ。
──────言葉は温かいものなんだ。
そんな気持ちにさせてくれた人からの好意は、甘くて優しくて温かい。
それは今でもそうである。
「私は、どうしたらいいのでしょうか」
困ると言っている割に、兵馬の顔はまったく困っていない。
それはそうだ、自分の言葉が足りなかったせいとはいえ──兵馬は足りなかったとは思っていないのだけれども──、面白い事実を知れたのだから。
「やはり、恋というのは勢いが良くなきゃ、いけない」
目の前で唖然とした表情から変える事が出来ないゆづかを前に、兵馬の顔は反対にどんどんと笑みが深くなる。
「いいかな、ゆづかちゃん。良家の子供という立場の先輩として、教えて上げよう」
「は……はい」
「今はとても特殊な状態だけど、私やゆづかちゃんの様な立場の子は親が勘定して結婚相手を決める。そこに子供の意見なんて物は、殆どの場合が一切無い。そして有り難い事にうちの呉服屋と、吉村屋は家としても釣り合っている。これは事実だ。これはゆづかちゃんでも解るね?」
「……は、はい」
「本来ならば男のゆづかちゃんが嫁ぐ事は不可能で、相手に理解してもらう所から始めなきゃいけない」
「……は、い」
「その点、私は何もかも問題を解決することができてしまうんだ」
「あの、それが……?」
「あぁ、うん……、そうだね。あの時の禿を請け出す事は不可能でもね、ゆづかちゃんを私が縛る方法はいくらでも残っている。というお話だよ」
軽い足音で階段を降りてくるそれに奉公人が一斉にそこを向けば笑みをたたえた兵馬がおり、全員が思わず上を見上げるもゆづかの姿は無い。
あの無表情が多い兵馬のこれは一体何事か、と思ったのだろうか。心配そうに階上を見る奉公人に
(愛されているという事は、本当に良い事だ)
兵馬は心で独り言ちると、廊下を真っ直ぐ歩いて奥へと向かう。今頃四人の大人が心配そうに顔を突き合わせているだろう、そこだ。
唖然としたまま固まってしまったゆづかを思えば暫くはあのまま動けないだろうし、その間に、全てをお願いしてしまえば良いという完全にゆづかの気持ちはそっちのけの行動だが
(嫌だとは言われていないのだからね)
とまた心で言って、障子を気持ち良く開けてみせた。
「父さん、私が十の時に言ったあの話を覚えていますか?」
開口一番のそれに部屋の大人は皆揃って首をひねった。
廊下から入ってすぐに座った兵馬に視線が集まるが、兵馬は変わらない表情で
「あの禿が欲しい。と言ったあの話です」
突然の話題に漸く動いたのは庄三郎で、何の話だと訝し気に兵馬を見る吉村夫婦はおとわに視線を動かす。
「あれはまだ、有効でしょうか?」
「……有効って、お前な、今そんな話をしてる場合じゃないだろう」
「今だからです。有効ですか?」
「そりゃ、お前……、二言は無い。俺も男だ。あれは確かに言った。二言は無いさ」
「なら、申し込んで下さい」
「は?」
「見合いを。ここのお嬢さんと、私の見合いの場を、整えて頂きたいのです。そして許していただきたいのです。私がここのお嬢さんと祝言を上げる事を」
──────お前が十七になってもそう思えたら、お前に請ける金子を用意してあげよう。
その約束を庄三郎は忘れてはいない。だからと言って一体何が何なのか、庄三郎にはさっぱりだった。
あの禿を請ける金子を用意しろと言いながら、ゆづかと見合いをして祝言を挙げさせて欲しいと言っているのだから“ゆづか”と“禿”が同一人物であると気がつかないと、今の庄三郎の様に「何の話なんだ?」と眉間に皺を寄せて怪訝な顔をするのが普通なのではないだろうか。
しかし、おとわから「七年前の約束」を簡素ながらに聞いたお香と、聞かせたおとわにはピンと解った。勇蔵の眉間を思うと、彼はまだピンと来ていないのだろう。
「私、“禿”だと言うから“女の子”ばかり探していたわ。それじゃ見つからないわよね」
「おとちゃん、それは仕方の無い事よ。それが普通よ」
「どうかしら、お見合い……してくれるかしら?」
「するのはいいけど……私、あの子には本当に恋をしてほしいのよ。恋だけじゃないのよ。楽しい事をいっぱいね、知って欲しいの。本当はそんな事じゃいけないって、ここの女将である私は思うのだけれども、それでもね、私はそう思っているの。だって、私たちはその為にあの子を子供した訳じゃないんだもの」
「──────ですって、兵馬」
外で兵馬、と言われるのはくすぐったくて兵馬は好きだ。母を知る、その気持ちが膨らむから、好きだった。
「私も、私を心底好いて頂きたいので、場を整え直して頂けたら。それと二人きりで遊びに行く事を許して頂けたら、それだけで。大丈夫です、婚前交渉なんて、絶対にしませんから」
ならいいわね、そうね、と話し始めた女二人が、未だになんの事かと理解出来ないと言った表情の男を見て呆れ顔に変わる。
「あなた、まだ分からないの?」
呆れ返ったおとわの声に二人の男が気圧されつつも頷くと、おとわはわざとらしく溜息をつく。遊女だった頃のおとわに溜息をつかれ心に何かがグサリと刺さった事を思い出した庄三郎の引きつる顔と、妻の呆れた視線に小さくなっている勇蔵に兵馬が
(自分は尻に引かれない様にしよう)
と決意している事は誰にも気が付かれてはいない。しかし、とてもじゃないが奉公人に見せられない二人の様に兵馬は助け舟を出した。
片や、川に張り出した部屋には誰も来ず、漸くゆづかが自分の横顔に光を当てる川面に目を向けた様子を見る事が出来る。
あの生活を十二まで続けていたから、そういう視線の意味をゆづかは嫌という程に知っていた。
だからゆづかは自分に少しでも“色っぽい視線”を送る男には近づかなかったし、船宿吉村の娘として問題にならない程度に避ける事もしている。先に言った様に「好きだ」と言われればきちんと断るし、何よりそう言われない様に“とにかく努力”して来たつもりだ。
例えば今、ゆづかの視線の先の川で小さな波紋が、じっと見ていなければ気が付かない程の波紋が出来た程度の視線だったとしても、ゆづかは感じる様に作られた。
尤も、感じるのは相手が自分に好意を持っているのかどうか、であるのだから全てに気が付く訳ではない。これはゆづかがそうなりたくなったのではなく、そうなるべきだとなってしまっただけ。
今まではそれに感謝をした部分も有る。ここはゆづかの大切な場所だ。悪い噂なんて立てたくはないし、なるべくなら良いお嬢さんでいたい。
それがこんな風になるとは思わなかった。あの日、外で偶然会ったあの日、知ってしまったのだ。
──────兵馬様は、私に好意を持っている。
今までの様に適当にお断りするのではなく、全てを打ち明けてでも解ってもらおうとしたのは全て、あの日七年間の、あの時の一言が原因だ。
──────父さん、僕はあの子が欲しい。
初恋かと言われればあれは「もしかしたらそうかもしれない」と言えそうな程に、あの一言は今だってゆづかに取って大切な大切な言葉だった。
直接言われた訳ではない。
けれど店の道具として組み立てられ作られて行く哀れで可哀想だと花街で指さされる自分ではない自分に、あの場にいた禿の一人として言われたその言葉が、誰に言われたどんな言葉よりもゆづかの心を温かくしたのだ。
恐ろしい事に、初めて、ゆづかの心が温かくなった。
だからこそ適当に濁してしまうなんて、ゆづかには出来なかったのだ。
──────言葉は温かいものなんだ。
そんな気持ちにさせてくれた人からの好意は、甘くて優しくて温かい。
それは今でもそうである。
「私は、どうしたらいいのでしょうか」
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