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本編
05
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丁度暖簾を上げて出て来たお香と目が合った兵馬は笑みをたたえて会釈する。意外な相手に一瞬驚いたようだがお香も笑顔で頭を下げた。
船宿吉村は女将の働きが良いそうだ。というのは本当らしい。
「兵馬さん、またお使いですか?」
「もう良い年ですからね、お使いというのは勘弁して頂きたい物ですが…」
「いやだわあ、だって小さい兵馬さんがまだ私の頭にいるんですもの」
そうだ、この人はこう言う人だった。と笑顔で曖昧に流した兵馬にお香は「良かったら上がって行きますか?」と勧める。
ふと暖簾の向こうでのめりの下駄を持った女中を見つけた兵馬は、笑顔の侭にそれを有り難く頂戴したのだった。
今度は川がよく見える二階の部屋に案内され、外へ張り出した窓枠に腰掛け兵馬は外を見ている。
あののめりの下駄はゆづかの物だ。そう確信が有るから上がったもののいざどうしたら良いかと、完全に兵馬は止まってしまった。
男色である事が有名な人間は多い。自分がそうだと言ってここの夫婦がそれをどこかで風潮することは無い。それにこの時代、そういう事は別におかしな事ではなかった。
ない、ないが。それでもどうやってそれを伝えれば良いかが解らない。
橋のど真ん中で「お名前はっ!!?」とひっくり返った声で女性に言っている男の気持ちを兵馬はぼんやり理解した。
きっと彼もどうやって伝えれば良いか分からず、口からは『お名前は』しか出てこなかったのだ。
(勢いは時としてこうやって後先考えずにやらかしてしまう物なんだな。これはいけない)
兵馬は幼いながらにお香と何かと顔を合わせる事もあったし、おとわから話を聞く限りお香という人はゆづかに「兵馬さんに男だと言った」なんて馬鹿な事を言うはずが無い事を兵馬は確信している。
兵馬は事実を知って、ゆづかは事実を知られていないと思って顔を合わせる事になるのだ。
(意外とこれは、難しい)
目の前で茶を運んで来た船宿のお嬢さんのゆづかはよもや、目の前の兵馬がそれを知っているとは思わないし、染み付いた物で女として狂いなく茶と菓子を出してみせた。
知ってしまった兵馬はその様に、世間を知らずに可愛がられて暮らした自分では想像出来ない物が広がっている現実を妙に、感じ取ってしまう。
「兵馬様、何かありましたら下に声をかけて下さいませ」
柔らかい笑みを持つ相手が生涯独り身なんていうのは、やはり兵馬には惜しい事だ。正しくは自分の物にしたい。酷い言い方をすれば
(帯を引き抜き着物を剥ぎ取り、この小さな体を床に押し付け、髪を乱してしまいたい。何もかもを俺の物にしてしまいたい)
のだ。
今まで一切そういった対象に思う事が無かった様な相手に持つには過激な感情でありそうだが、兵馬の中では恋はこんな物だろうと適当に済ませている。
──────おとわを見た時に、心というか体が訴えたんだ。おとわが欲しい。って。
そう、人生の先輩──────庄三郎が言ったのだから、こんな物で妥当な所だと思っていた。と言うところかもしれない。さすがは親子と言った所なのか、それともどちらかと言えば兵馬は“庄三郎寄り”の恋をすると言う事なのか。
「……兵馬、さま?」
「あ──────、ああ、すまない」
「いいえ」
かなり危ない事を想像した兵馬が何でも無いと首を振れば、じっと見ていたゆづかの顔も笑顔に戻る。この笑顔が本物なのか、それとももっと良い顔をするのかと思った兵馬の行動は早い物だ。
「此所に来る途中でね、綺麗な物を見つけて。実はそれを渡したくて上がらせてもらったんだ」
こてん、と首を傾げるゆづかを安心させる様に笑みを絶やさず近づいて、懐から手ぬぐいを出すとゆづかの正面に座りそれを目の前で開いてみせる。
そういう生き方をしてきたのか、それとも元々好きだったのか。兵馬には解らないがゆづかの顔が無邪気なそれに変わり、兵馬は満足そうにそれを手に取るとゆづかに渡す。
反射的に受け取ってゆづかに頷いて
「もう少し飾ってみせても、きっと似合うよ」
「あの……これ」
「ゆづかちゃんに、それを渡したくて来ただけだだよ。邪魔をしたね」
反論待たずに兵馬はぽかんと簪を握ったままのゆづかを置いて、部屋を出る。
妙に気持ちが清々しい。
十七の平均値を兵馬は考えた事が無かったが、大店の若旦那ならこれくらいは“有り”だと思っているし、ゆづかの様な“箱入り娘”ならあれくらいの幼さで有りだとも思う。有りだと思う自分にますます恋の恐ろしさを知るが、清々しい気持ちで一杯の兵馬はそれすら面白い。
「兵馬さん、うちの子、何かしましたか?」
ゆづかが茶を届けに上がったのは少し前。それとまるで入れ替わる様に、直ぐ降りて来た兵馬に驚くお香が言う。それに兵馬が笑えば、お香の顔がぽかんと変わった。
それはそうだろう。あの若旦那然とした笑顔が普通だと思っていた兵馬の笑顔が、あまりにも楽しそうだったのだから。
(あらまあ、どうしましょう。おとちゃん、困った事になっちゃったわ!あぁ駿河屋さんの旦那さんになんて言おう)
さすが、船宿の女将なのか。笑顔の意味は一発で理解したようだ。しかも、笑顔の兵馬よりも意味を感じているのだから、伊達にこの商売をやっていない。
見た事が無い程に颯爽と暖簾を潜って出て行った兵馬は、勢いであの問題を解決出来そうな方向へ道を切り開いた事をこの時はまだ、知らなかった。
一方の部屋に残されたゆづかは、握ったままの簪を眺めている。
あの世界にいたゆづかは、派手な物が好きではない。あまり柄が派手な着物は来たくはないし、飾りも控えめな方が好きだ。
こんなにも大振りの花の簪は間違ってもゆづかは勿論、子供に迎えてくれたここの両親も選ばないだろう。
ゆづかの初めての父と母──勇蔵とお香の事だ──はゆづかを可愛く着飾らせたいようだが、ゆづかの気持ちを思いゆづかに合わせて買い与えてくれた。
それでもこの簪は着けても良い気がするから、ゆづかはこうして本人の知らない間に笑顔になる。
「兵馬様……」
これで今度は『吉村を一生守るお守り』が出来た。と、ゆづかは小さく呟いて大切そうに握り盆を持って部屋を出、階段へと向かう。途中の女中が笑顔で盆を受け取り、ゆづかも笑顔でそれに応じた。
自分がどんな人間か知って尚、お嬢様と扱い優しくしてくれるここの環境はゆづか本人さえ知らないうちに、ゆづかの心を暖かく満たしている。
吉村が評判がいいのはここの奉公人が「この店の為なら何をしても惜しくはない」と思う程に、ここの主夫婦に惚れ込んでいるからだ。だから自然と良い態度で仕事をする。その評判は正直、駿河屋を軽く凌ぐ。
そう言う人間が集まるのはもう、主夫婦である勇蔵とお香の人徳と、生き方なのだろう。
そこに入ったゆづかに悪い意味で同情する人間は一人もおらず、そして誰もがまるで夫婦の実の娘の様に接してくれる。これほど大勢の人に囲まれて恐怖ではない物に満たされる事は、ゆづかに取ってここにくるまで無かった事だ。
「ゆづか……?」
「お母さん?」
階段の中腹でばったりと有ったゆづかの手の中のそれを見て、お香はもう一度おとわに困った困ったと念を送ってみたのだった。
もちろん、それはおとわに届かないのだけれども。
船宿吉村は女将の働きが良いそうだ。というのは本当らしい。
「兵馬さん、またお使いですか?」
「もう良い年ですからね、お使いというのは勘弁して頂きたい物ですが…」
「いやだわあ、だって小さい兵馬さんがまだ私の頭にいるんですもの」
そうだ、この人はこう言う人だった。と笑顔で曖昧に流した兵馬にお香は「良かったら上がって行きますか?」と勧める。
ふと暖簾の向こうでのめりの下駄を持った女中を見つけた兵馬は、笑顔の侭にそれを有り難く頂戴したのだった。
今度は川がよく見える二階の部屋に案内され、外へ張り出した窓枠に腰掛け兵馬は外を見ている。
あののめりの下駄はゆづかの物だ。そう確信が有るから上がったもののいざどうしたら良いかと、完全に兵馬は止まってしまった。
男色である事が有名な人間は多い。自分がそうだと言ってここの夫婦がそれをどこかで風潮することは無い。それにこの時代、そういう事は別におかしな事ではなかった。
ない、ないが。それでもどうやってそれを伝えれば良いかが解らない。
橋のど真ん中で「お名前はっ!!?」とひっくり返った声で女性に言っている男の気持ちを兵馬はぼんやり理解した。
きっと彼もどうやって伝えれば良いか分からず、口からは『お名前は』しか出てこなかったのだ。
(勢いは時としてこうやって後先考えずにやらかしてしまう物なんだな。これはいけない)
兵馬は幼いながらにお香と何かと顔を合わせる事もあったし、おとわから話を聞く限りお香という人はゆづかに「兵馬さんに男だと言った」なんて馬鹿な事を言うはずが無い事を兵馬は確信している。
兵馬は事実を知って、ゆづかは事実を知られていないと思って顔を合わせる事になるのだ。
(意外とこれは、難しい)
目の前で茶を運んで来た船宿のお嬢さんのゆづかはよもや、目の前の兵馬がそれを知っているとは思わないし、染み付いた物で女として狂いなく茶と菓子を出してみせた。
知ってしまった兵馬はその様に、世間を知らずに可愛がられて暮らした自分では想像出来ない物が広がっている現実を妙に、感じ取ってしまう。
「兵馬様、何かありましたら下に声をかけて下さいませ」
柔らかい笑みを持つ相手が生涯独り身なんていうのは、やはり兵馬には惜しい事だ。正しくは自分の物にしたい。酷い言い方をすれば
(帯を引き抜き着物を剥ぎ取り、この小さな体を床に押し付け、髪を乱してしまいたい。何もかもを俺の物にしてしまいたい)
のだ。
今まで一切そういった対象に思う事が無かった様な相手に持つには過激な感情でありそうだが、兵馬の中では恋はこんな物だろうと適当に済ませている。
──────おとわを見た時に、心というか体が訴えたんだ。おとわが欲しい。って。
そう、人生の先輩──────庄三郎が言ったのだから、こんな物で妥当な所だと思っていた。と言うところかもしれない。さすがは親子と言った所なのか、それともどちらかと言えば兵馬は“庄三郎寄り”の恋をすると言う事なのか。
「……兵馬、さま?」
「あ──────、ああ、すまない」
「いいえ」
かなり危ない事を想像した兵馬が何でも無いと首を振れば、じっと見ていたゆづかの顔も笑顔に戻る。この笑顔が本物なのか、それとももっと良い顔をするのかと思った兵馬の行動は早い物だ。
「此所に来る途中でね、綺麗な物を見つけて。実はそれを渡したくて上がらせてもらったんだ」
こてん、と首を傾げるゆづかを安心させる様に笑みを絶やさず近づいて、懐から手ぬぐいを出すとゆづかの正面に座りそれを目の前で開いてみせる。
そういう生き方をしてきたのか、それとも元々好きだったのか。兵馬には解らないがゆづかの顔が無邪気なそれに変わり、兵馬は満足そうにそれを手に取るとゆづかに渡す。
反射的に受け取ってゆづかに頷いて
「もう少し飾ってみせても、きっと似合うよ」
「あの……これ」
「ゆづかちゃんに、それを渡したくて来ただけだだよ。邪魔をしたね」
反論待たずに兵馬はぽかんと簪を握ったままのゆづかを置いて、部屋を出る。
妙に気持ちが清々しい。
十七の平均値を兵馬は考えた事が無かったが、大店の若旦那ならこれくらいは“有り”だと思っているし、ゆづかの様な“箱入り娘”ならあれくらいの幼さで有りだとも思う。有りだと思う自分にますます恋の恐ろしさを知るが、清々しい気持ちで一杯の兵馬はそれすら面白い。
「兵馬さん、うちの子、何かしましたか?」
ゆづかが茶を届けに上がったのは少し前。それとまるで入れ替わる様に、直ぐ降りて来た兵馬に驚くお香が言う。それに兵馬が笑えば、お香の顔がぽかんと変わった。
それはそうだろう。あの若旦那然とした笑顔が普通だと思っていた兵馬の笑顔が、あまりにも楽しそうだったのだから。
(あらまあ、どうしましょう。おとちゃん、困った事になっちゃったわ!あぁ駿河屋さんの旦那さんになんて言おう)
さすが、船宿の女将なのか。笑顔の意味は一発で理解したようだ。しかも、笑顔の兵馬よりも意味を感じているのだから、伊達にこの商売をやっていない。
見た事が無い程に颯爽と暖簾を潜って出て行った兵馬は、勢いであの問題を解決出来そうな方向へ道を切り開いた事をこの時はまだ、知らなかった。
一方の部屋に残されたゆづかは、握ったままの簪を眺めている。
あの世界にいたゆづかは、派手な物が好きではない。あまり柄が派手な着物は来たくはないし、飾りも控えめな方が好きだ。
こんなにも大振りの花の簪は間違ってもゆづかは勿論、子供に迎えてくれたここの両親も選ばないだろう。
ゆづかの初めての父と母──勇蔵とお香の事だ──はゆづかを可愛く着飾らせたいようだが、ゆづかの気持ちを思いゆづかに合わせて買い与えてくれた。
それでもこの簪は着けても良い気がするから、ゆづかはこうして本人の知らない間に笑顔になる。
「兵馬様……」
これで今度は『吉村を一生守るお守り』が出来た。と、ゆづかは小さく呟いて大切そうに握り盆を持って部屋を出、階段へと向かう。途中の女中が笑顔で盆を受け取り、ゆづかも笑顔でそれに応じた。
自分がどんな人間か知って尚、お嬢様と扱い優しくしてくれるここの環境はゆづか本人さえ知らないうちに、ゆづかの心を暖かく満たしている。
吉村が評判がいいのはここの奉公人が「この店の為なら何をしても惜しくはない」と思う程に、ここの主夫婦に惚れ込んでいるからだ。だから自然と良い態度で仕事をする。その評判は正直、駿河屋を軽く凌ぐ。
そう言う人間が集まるのはもう、主夫婦である勇蔵とお香の人徳と、生き方なのだろう。
そこに入ったゆづかに悪い意味で同情する人間は一人もおらず、そして誰もがまるで夫婦の実の娘の様に接してくれる。これほど大勢の人に囲まれて恐怖ではない物に満たされる事は、ゆづかに取ってここにくるまで無かった事だ。
「ゆづか……?」
「お母さん?」
階段の中腹でばったりと有ったゆづかの手の中のそれを見て、お香はもう一度おとわに困った困ったと念を送ってみたのだった。
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