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56【亜楼+海斗Diary】やり直し①
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「……冬夜、無理やり連れてかれたりしねぇよ、な……?」
同じ屋根の下で、眞空と冬夜が欲望に身を任せた2回戦に突入しようとしている頃、海斗は亜楼に向けて心細くそう尋ねた。堂園家を揺るがすあんなことがあったのだ。今夜はなんとなく一人でいたくなくて、海斗は亜楼の部屋を訪れていた。
「そんなことするような人じゃねぇだろ」
ベッドのふちに座ってスマホを眺めていた亜楼が、ふと顔を上げて海斗を見る。海斗は、いつも亜楼がパソコンで作業するときに使っているキャスター付きの椅子に座って、ぼんやりと右に左にとゆらゆら椅子を動かしていた。
「そうだけどさ……」
それでも、大人たちが決めた大きな流れには逆らえないのではないかという幼い頃からの刷り込みが、海斗をどうしても不安にさせる。幼い孤児だったあの頃の自分たちは、いろいろな大人の選択に身をゆだねるしかなかった。今はもう抗うことだってできる年齢になっているのに、いつかのその不安定さだけは未だ拭い切れていない。
「おまえが冬夜……と眞空を心配してんのはわかるけど」
冬夜のことと同じくらい、双子の片割れのことも気になって仕方ないと見える海斗を、亜楼がやさしく見つめ返した。普段あまり表には出さないが、海斗もしっかり次男の自覚があるのだと気づき、急速に亜楼の中でいとおしさが募る。
「秀春さんの大事な人だし、俺は信じる」
「うん……」
「ま、……どうしようもねぇくらい理不尽なことになったら、そんときは俺がなんとかしてやるよ。こういうときのための長男だろ?」
それを聞いた海斗が、それまでの不安に駆られた曇り顔を、ゆっくりとほころばせていった。どんなときでも自信たっぷりに強くて、家族を守ってくれる、やさしい兄。亜楼がそう言うなら、きっと大丈夫だと思えてしまうから不思議だ。
「……つーかさ、」
亜楼が、少し不機嫌そうな声を出す。
「?」
「おまえ、なんでそっちいんの?」
「……!?」
あからさまにギクッとした海斗が、おそるおそる兄の顔色をうかがった。今までは部屋に入るなり何も考えずに亜楼のベッドを我が物顔で占領していた海斗だったが、今日は控えめに亜楼のパソコンデスクの前に座って大人しくしている。夜の堤防で互いの想いを確かめ合ってから、こんな風にゆっくりと二人きりになるのは初めてだった。
「……いやぁ……改めて、オレ……今までとんでもねぇことばっかしてたなって……」
とにかく亜楼に振り向いてほしくて、無茶苦茶なことばかりしてきた無鉄砲な自分を思い出し、海斗は居たたまれなくなった。猛進しているときは夢中なので気づかないが、ふと立ち止まると思った以上に冷静になってしまう次男である。
「はぁ? 今さら何言ってんだよ。……警戒してんの?」
「は? ちが……っ」
「海斗、……こっち」
有無を言わせぬ声音で、亜楼が海斗を呼んだ。呼ばれた海斗が、おずおずとキャスター付きの椅子から立ち上がり、ベッドの方へ向かう。ゆっくりと、亜楼の隣に腰かけた。
「こっち。……もっと」
微妙な距離を空けて座った海斗に亜楼がもう一度そう言うと、観念した海斗が亜楼のすぐそばに座り直す。やっと隣に来た海斗の肩に、亜楼がストンッと頭を預けた。
「な、なにっ、……おまえ、やっぱへこんでんの……!?」
甘えるように肩にもたれてきた亜楼に、海斗は動揺を隠せない。
「ひ、秀春さんのことか!? 秀春さんを冬夜に取られるかもって、やっぱ気にしてんのか!?」
亜楼の心が読めない。頭がのせられている左肩が、じんわりと熱い。
「……まぁ、それもあんだけど」
秀春に対する心配を素直に認めた上で、亜楼が胸の内の心細さを隠さずにさらけ出す。
「……久しぶりに、死んだ母親のこと思い出してた」
「!」
思いがけない亜楼の言葉に、海斗が目を見開いた。肩を使われていて動けないので、顔だけを少し動かして亜楼をそっと見る。
「俺の親、未婚の母ってやつでさ。18ンときに俺がうっかりできて、それにビビった相手の男にあっさり逃げられて、結局ひとりで俺のこと産んだらしいんだけど。……まぁ、ガキがガキ産んで、うまくいくわけねぇよな」
24になった今なら、18の母親がいかに未熟で心許なかったか、よくわかる。亜楼はひとつひとつを丁寧に取り出すように、海斗に教えてやった。
「アローなんて、ふざけた名前つけやがって。おかげでガキの頃は散々からかわれた。働き詰めでほとんど家にいなかったし、ろくなメシも出てこなかったし、家の中もいっつも散らかってて、正直まともな家庭じゃなかった。顔を合わせりゃけんかばっかして、腹立つことも山ほどあったけど……俺にはあいつしかいなかった」
初めて聞く話に、海斗がじっと耳を傾ける。
「偉いと思ったのがさ、男を家に連れ込んだことなくて。外では好き勝手やってたのかもしんねぇけど、俺が知る限り、家には誰も連れてきたことなかった。まだ若かったのにな。青春全部、俺を育てるのに捧げたのかよって思うと、……なんだかなぁって思うけど」
なんだかなぁと言いながらも、亜楼の声は愛に満ちていると海斗は思った。
「小学校の高学年に入った頃、母親の病気が見つかって。あんま先が長くないだろうってことも、すぐにわかって。日に日に弱ってく母親がさ、俺のこと見るたびに、父親にどんどん似てくるねってうれしそうに言うんだ、面影探すみたいに」
「父親……?」
「そ、会ったこともねぇ父親。……死ぬ少し前に、教えてくれた。あんたの父親の名前が弓に弦って書く弓弦だったから、あんたの名前、亜楼にしたんだよって。弓と矢で、セットでいいでしょって」
懐かしく、母親を思い出すように、亜楼の声音はやさしかった。
「ビビって逃げたクズのこと、母親はずっと想ってて……今思えば不憫な女だったなって思うけど。……それでも、あいつなりに俺のこと大切にしようとしてくれてたのはわかって、……もう、名前のこと、文句言えなくなった」
「あ……」
ふと何かに気づいた海斗が、小さく声をもらす。
「だから、冬夜の“とう”は、……“冬”なのか」
春と冬。弓と矢。たとえ会うことは叶わなくても、せめて名前だけはつながっていられるようにと、母親たちは愛する宝に名を授けた。
「母親って、なんつーか、……すげぇよな」
海斗の肩にもたれたまま、亜楼がぼんやりと言う。
「いいお母さんだったんじゃん」
「……まぁな」
真摯な由夏の姿を見て、自身の母親と重ねたのかと思うと、海斗の中で兄に対するいとおしさが込み上げた。亜楼に触れたくて、控えめに手が伸びる。てのひらが亜楼の背に触れ、そっと、さすった。
「……そういうの、教えてくれて、……うれしい」
怖いものなど何もなくて、なんでも自分で解決できて、誰かに頼るのを許せないような兄だと思っていた。それなのに今夜は、奥底に仕舞っていた弱い部分を無防備にさらしてくれたように感じて、海斗が感極まりそうになる。本当に、この人の特別になれたのだと。隣で、その弱さを共有してもいいのだと。
「たまにはおまえに甘えんのも、悪くねぇな」
背を撫でてくれる海斗のてのひらに大人しく甘えながら、亜楼はさらにからだを寄せた。珍しく感傷的になった心身が、自然と海斗のぬくもりを求める。
「俺の母親が死んだのは中学入ってすぐのときだったけど、おまえらはもっと小せぇときだったんだよな」
「そうだな……8歳だった」
「可哀想に。……苦労したな」
「どうかな。もうあんま覚えてねぇかも」
「ま、じゃあ……可哀想な俺たちは、……仲良く傷の舐め合いでもすっか……」
弟に背をあまく撫でられ続け、実は沸々といやらしい気持ちを増幅させていた亜楼が、海斗の腰に手を伸ばして強く抱き寄せようとしたとき。
「別に、可哀想なんかじゃねぇよ」
何言ってんだとでも言うように、海斗が驚いて亜楼を見た。あまりにも穢れのない澄んだ目で自分を見つめてくる海斗に、こっそり伸ばした淫欲まみれの手を亜楼が慌てて引っ込める。
「……?」
「オレにはずっと、亜楼がいたし」
「……っ!?」
ためらいなくそんなことを言う海斗に、不意打ちを食らった亜楼がどくっと鼓動を跳ねさせる。
「この家に来てから毎日楽しくて、自分のこと可哀想なんて思ったことなかった。オレたちが淋しい思いしないようにって……柄じゃねぇくせにさ、亜楼が一生懸命がんばってくれたからだろ?」
「……わかってた、のか?」
「わかるよ。……言っとくけど、おまえの第一印象サイアクだったからな? 人睨むことしか脳がねぇみたいな悪人ヅラしててさ。誰かの面倒見るとか、ガキの相手とか、どれも絶対嫌がって、どうせすぐに投げ出すんだろうなって思ってたけど」
くだらないけんかばかりをしていた日々を思い出す。くだらないけんかをしているのは今もあまり変わっていないかと、海斗が苦笑した。
「そういうのほんとは全部苦手なのに、無理しちゃってさ……。がんばって兄貴を演じてくれてたの、知ってたよ。いちばん近ぇとこにずっといたんだ、わかるに決まってる」
不器用でどうしようもない下手な兄貴役を、海斗はずっと見ていてくれた。亜楼の胸が、ぐっと詰まる。
「俺は……ちゃんと兄貴やれてたか?」
たったひとりの肉親に先立たれて、血のつながらない家族に埋め込まれて、恩人とのゆびきりを果たすために必死だった。
「何言ってんだよ、……んなの、堂園家満場一致だろうが」
海斗が、無邪気に笑う。
「亜楼が兄ちゃんでよかった」
「──っ」
ずっと、聞きたかった言葉のような気がした。気づけばほとんど無意識に、海斗をきつく抱きしめていた。
「!? あろ……う? ちょ、苦し……」
誰かに、家族に、必要とされたかった。ひとりじゃないと、教えられたかった。
「……苦しいってば」
弟たちを淋しさから救う振りをして、自分がいちばん淋しさから逃れたかった。帰ればいつも誰かがいてくれる賑やかなこの家を、ただ大切にしたかった。その気持ちは、大事な人たちにちゃんと届いていたのだと知る。
胸を焼くように熱く込み上げてくるものが、満杯になってあふれた。言葉を知らない亜楼は、そのあふれた想いを、海斗を潰しそうなほど強く抱きしめることでしか表現できない。
「……もうっ、なんだよっ……今日はみんなして、弱りすぎじゃん……」
秀春といい、亜楼といい、今日の大人組は情緒が頼りなさすぎると、海斗がやれやれと小さく笑った。それでも亜楼がこうやって誰かを強く抱きしめたいときに一緒にいてやれてよかったと、気の済むまで抱きしめられ役に徹してやる。とても幸せな役だ。
しばらくそうしたあと、ふっと腕を緩め、苦しがる弟をようやく解放した亜楼が、すぐそばにある海斗の瞳をじっと見つめた。いつになく真剣な目を向けられて、何を言われるのかと海斗が少しだけ身構える。
「海斗」
「うん?」
「……手ぇ出していいか?」
「は!?」
「こんなうれしい気持ちにさせられて、今おまえ抱かねぇとか嘘だろ……」
すでにその気になっている亜楼が、今度こそ海斗の腰にしっかりと手を伸ばした。淫欲まみれの正直な手が、海斗を荒っぽく抱き寄せる。
「まっ、……え? す、すんの……?」
「俺は、すっげぇそういう気分なんだけど?」
「え、ちょっ……だって、今日は冬夜が……」
冬夜に大変なことが起きたこんな日に不謹慎ではないかと、弟二人が今何をしているかまったく知らない海斗が、ひとり慌てふためいた。
「冬夜のことは、眞空に任せればいいだろ」
「そ、そうだけど……」
「俺はもう、……いちばん厄介なのもらったから、そいつの面倒見るので手一杯だっつの……」
亜楼の手が、服の上から海斗の腰をあまったるく撫で回すと、びくっとした海斗の腰が恥じらって逃げる。
「まっ、て……」
「待たねぇよ」
大きなてのひらで腰を抱き寄せたまま、亜楼が顔を傾けて、海斗の口唇に自分の口唇を持っていこうとすると、
「……っ、ほんとに、待てって……」
と言って、海斗が亜楼の胸のあたりに手を置いて、兄のからだをぐいっと思いきり押し戻した。からだが、離れる。
「なんだよ……またキスすんなとか、わけわかんねぇこと言うんじゃねぇだろうな……?」
以前セックスの最中にキスを拒否されたことを実はずっと根に持っていて、ほとんどトラウマのようになっていた亜楼は、海斗に距離を取られてしまい言いようのない不安を覚えた。
こいつ……キス嫌がんのなんなんだよ……。俺のこと、ちゃんと好き、だよ、な……?
両手で亜楼の胸を押したまま突然うつむいてしまった海斗に、いよいよ本気で嫌がられているのかと、亜楼が困った顔をした。どんなに抱きたくても、海斗の嫌がることはしたくない。
「海斗……? 嫌か?」
「……や、じゃ、なくて、」
視線の合わない弟を心配して顔をのぞき込もうとすると、亜楼の耳に、蚊の鳴くような声がかろうじて届く。
「……す、すんなら、……目隠し、しろよっ……」
海斗は亜楼の顔を見ることができないまま、茹でた何かになったように、耳の先までを綺麗に赤く染め上げていた。
同じ屋根の下で、眞空と冬夜が欲望に身を任せた2回戦に突入しようとしている頃、海斗は亜楼に向けて心細くそう尋ねた。堂園家を揺るがすあんなことがあったのだ。今夜はなんとなく一人でいたくなくて、海斗は亜楼の部屋を訪れていた。
「そんなことするような人じゃねぇだろ」
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「そうだけどさ……」
それでも、大人たちが決めた大きな流れには逆らえないのではないかという幼い頃からの刷り込みが、海斗をどうしても不安にさせる。幼い孤児だったあの頃の自分たちは、いろいろな大人の選択に身をゆだねるしかなかった。今はもう抗うことだってできる年齢になっているのに、いつかのその不安定さだけは未だ拭い切れていない。
「おまえが冬夜……と眞空を心配してんのはわかるけど」
冬夜のことと同じくらい、双子の片割れのことも気になって仕方ないと見える海斗を、亜楼がやさしく見つめ返した。普段あまり表には出さないが、海斗もしっかり次男の自覚があるのだと気づき、急速に亜楼の中でいとおしさが募る。
「秀春さんの大事な人だし、俺は信じる」
「うん……」
「ま、……どうしようもねぇくらい理不尽なことになったら、そんときは俺がなんとかしてやるよ。こういうときのための長男だろ?」
それを聞いた海斗が、それまでの不安に駆られた曇り顔を、ゆっくりとほころばせていった。どんなときでも自信たっぷりに強くて、家族を守ってくれる、やさしい兄。亜楼がそう言うなら、きっと大丈夫だと思えてしまうから不思議だ。
「……つーかさ、」
亜楼が、少し不機嫌そうな声を出す。
「?」
「おまえ、なんでそっちいんの?」
「……!?」
あからさまにギクッとした海斗が、おそるおそる兄の顔色をうかがった。今までは部屋に入るなり何も考えずに亜楼のベッドを我が物顔で占領していた海斗だったが、今日は控えめに亜楼のパソコンデスクの前に座って大人しくしている。夜の堤防で互いの想いを確かめ合ってから、こんな風にゆっくりと二人きりになるのは初めてだった。
「……いやぁ……改めて、オレ……今までとんでもねぇことばっかしてたなって……」
とにかく亜楼に振り向いてほしくて、無茶苦茶なことばかりしてきた無鉄砲な自分を思い出し、海斗は居たたまれなくなった。猛進しているときは夢中なので気づかないが、ふと立ち止まると思った以上に冷静になってしまう次男である。
「はぁ? 今さら何言ってんだよ。……警戒してんの?」
「は? ちが……っ」
「海斗、……こっち」
有無を言わせぬ声音で、亜楼が海斗を呼んだ。呼ばれた海斗が、おずおずとキャスター付きの椅子から立ち上がり、ベッドの方へ向かう。ゆっくりと、亜楼の隣に腰かけた。
「こっち。……もっと」
微妙な距離を空けて座った海斗に亜楼がもう一度そう言うと、観念した海斗が亜楼のすぐそばに座り直す。やっと隣に来た海斗の肩に、亜楼がストンッと頭を預けた。
「な、なにっ、……おまえ、やっぱへこんでんの……!?」
甘えるように肩にもたれてきた亜楼に、海斗は動揺を隠せない。
「ひ、秀春さんのことか!? 秀春さんを冬夜に取られるかもって、やっぱ気にしてんのか!?」
亜楼の心が読めない。頭がのせられている左肩が、じんわりと熱い。
「……まぁ、それもあんだけど」
秀春に対する心配を素直に認めた上で、亜楼が胸の内の心細さを隠さずにさらけ出す。
「……久しぶりに、死んだ母親のこと思い出してた」
「!」
思いがけない亜楼の言葉に、海斗が目を見開いた。肩を使われていて動けないので、顔だけを少し動かして亜楼をそっと見る。
「俺の親、未婚の母ってやつでさ。18ンときに俺がうっかりできて、それにビビった相手の男にあっさり逃げられて、結局ひとりで俺のこと産んだらしいんだけど。……まぁ、ガキがガキ産んで、うまくいくわけねぇよな」
24になった今なら、18の母親がいかに未熟で心許なかったか、よくわかる。亜楼はひとつひとつを丁寧に取り出すように、海斗に教えてやった。
「アローなんて、ふざけた名前つけやがって。おかげでガキの頃は散々からかわれた。働き詰めでほとんど家にいなかったし、ろくなメシも出てこなかったし、家の中もいっつも散らかってて、正直まともな家庭じゃなかった。顔を合わせりゃけんかばっかして、腹立つことも山ほどあったけど……俺にはあいつしかいなかった」
初めて聞く話に、海斗がじっと耳を傾ける。
「偉いと思ったのがさ、男を家に連れ込んだことなくて。外では好き勝手やってたのかもしんねぇけど、俺が知る限り、家には誰も連れてきたことなかった。まだ若かったのにな。青春全部、俺を育てるのに捧げたのかよって思うと、……なんだかなぁって思うけど」
なんだかなぁと言いながらも、亜楼の声は愛に満ちていると海斗は思った。
「小学校の高学年に入った頃、母親の病気が見つかって。あんま先が長くないだろうってことも、すぐにわかって。日に日に弱ってく母親がさ、俺のこと見るたびに、父親にどんどん似てくるねってうれしそうに言うんだ、面影探すみたいに」
「父親……?」
「そ、会ったこともねぇ父親。……死ぬ少し前に、教えてくれた。あんたの父親の名前が弓に弦って書く弓弦だったから、あんたの名前、亜楼にしたんだよって。弓と矢で、セットでいいでしょって」
懐かしく、母親を思い出すように、亜楼の声音はやさしかった。
「ビビって逃げたクズのこと、母親はずっと想ってて……今思えば不憫な女だったなって思うけど。……それでも、あいつなりに俺のこと大切にしようとしてくれてたのはわかって、……もう、名前のこと、文句言えなくなった」
「あ……」
ふと何かに気づいた海斗が、小さく声をもらす。
「だから、冬夜の“とう”は、……“冬”なのか」
春と冬。弓と矢。たとえ会うことは叶わなくても、せめて名前だけはつながっていられるようにと、母親たちは愛する宝に名を授けた。
「母親って、なんつーか、……すげぇよな」
海斗の肩にもたれたまま、亜楼がぼんやりと言う。
「いいお母さんだったんじゃん」
「……まぁな」
真摯な由夏の姿を見て、自身の母親と重ねたのかと思うと、海斗の中で兄に対するいとおしさが込み上げた。亜楼に触れたくて、控えめに手が伸びる。てのひらが亜楼の背に触れ、そっと、さすった。
「……そういうの、教えてくれて、……うれしい」
怖いものなど何もなくて、なんでも自分で解決できて、誰かに頼るのを許せないような兄だと思っていた。それなのに今夜は、奥底に仕舞っていた弱い部分を無防備にさらしてくれたように感じて、海斗が感極まりそうになる。本当に、この人の特別になれたのだと。隣で、その弱さを共有してもいいのだと。
「たまにはおまえに甘えんのも、悪くねぇな」
背を撫でてくれる海斗のてのひらに大人しく甘えながら、亜楼はさらにからだを寄せた。珍しく感傷的になった心身が、自然と海斗のぬくもりを求める。
「俺の母親が死んだのは中学入ってすぐのときだったけど、おまえらはもっと小せぇときだったんだよな」
「そうだな……8歳だった」
「可哀想に。……苦労したな」
「どうかな。もうあんま覚えてねぇかも」
「ま、じゃあ……可哀想な俺たちは、……仲良く傷の舐め合いでもすっか……」
弟に背をあまく撫でられ続け、実は沸々といやらしい気持ちを増幅させていた亜楼が、海斗の腰に手を伸ばして強く抱き寄せようとしたとき。
「別に、可哀想なんかじゃねぇよ」
何言ってんだとでも言うように、海斗が驚いて亜楼を見た。あまりにも穢れのない澄んだ目で自分を見つめてくる海斗に、こっそり伸ばした淫欲まみれの手を亜楼が慌てて引っ込める。
「……?」
「オレにはずっと、亜楼がいたし」
「……っ!?」
ためらいなくそんなことを言う海斗に、不意打ちを食らった亜楼がどくっと鼓動を跳ねさせる。
「この家に来てから毎日楽しくて、自分のこと可哀想なんて思ったことなかった。オレたちが淋しい思いしないようにって……柄じゃねぇくせにさ、亜楼が一生懸命がんばってくれたからだろ?」
「……わかってた、のか?」
「わかるよ。……言っとくけど、おまえの第一印象サイアクだったからな? 人睨むことしか脳がねぇみたいな悪人ヅラしててさ。誰かの面倒見るとか、ガキの相手とか、どれも絶対嫌がって、どうせすぐに投げ出すんだろうなって思ってたけど」
くだらないけんかばかりをしていた日々を思い出す。くだらないけんかをしているのは今もあまり変わっていないかと、海斗が苦笑した。
「そういうのほんとは全部苦手なのに、無理しちゃってさ……。がんばって兄貴を演じてくれてたの、知ってたよ。いちばん近ぇとこにずっといたんだ、わかるに決まってる」
不器用でどうしようもない下手な兄貴役を、海斗はずっと見ていてくれた。亜楼の胸が、ぐっと詰まる。
「俺は……ちゃんと兄貴やれてたか?」
たったひとりの肉親に先立たれて、血のつながらない家族に埋め込まれて、恩人とのゆびきりを果たすために必死だった。
「何言ってんだよ、……んなの、堂園家満場一致だろうが」
海斗が、無邪気に笑う。
「亜楼が兄ちゃんでよかった」
「──っ」
ずっと、聞きたかった言葉のような気がした。気づけばほとんど無意識に、海斗をきつく抱きしめていた。
「!? あろ……う? ちょ、苦し……」
誰かに、家族に、必要とされたかった。ひとりじゃないと、教えられたかった。
「……苦しいってば」
弟たちを淋しさから救う振りをして、自分がいちばん淋しさから逃れたかった。帰ればいつも誰かがいてくれる賑やかなこの家を、ただ大切にしたかった。その気持ちは、大事な人たちにちゃんと届いていたのだと知る。
胸を焼くように熱く込み上げてくるものが、満杯になってあふれた。言葉を知らない亜楼は、そのあふれた想いを、海斗を潰しそうなほど強く抱きしめることでしか表現できない。
「……もうっ、なんだよっ……今日はみんなして、弱りすぎじゃん……」
秀春といい、亜楼といい、今日の大人組は情緒が頼りなさすぎると、海斗がやれやれと小さく笑った。それでも亜楼がこうやって誰かを強く抱きしめたいときに一緒にいてやれてよかったと、気の済むまで抱きしめられ役に徹してやる。とても幸せな役だ。
しばらくそうしたあと、ふっと腕を緩め、苦しがる弟をようやく解放した亜楼が、すぐそばにある海斗の瞳をじっと見つめた。いつになく真剣な目を向けられて、何を言われるのかと海斗が少しだけ身構える。
「海斗」
「うん?」
「……手ぇ出していいか?」
「は!?」
「こんなうれしい気持ちにさせられて、今おまえ抱かねぇとか嘘だろ……」
すでにその気になっている亜楼が、今度こそ海斗の腰にしっかりと手を伸ばした。淫欲まみれの正直な手が、海斗を荒っぽく抱き寄せる。
「まっ、……え? す、すんの……?」
「俺は、すっげぇそういう気分なんだけど?」
「え、ちょっ……だって、今日は冬夜が……」
冬夜に大変なことが起きたこんな日に不謹慎ではないかと、弟二人が今何をしているかまったく知らない海斗が、ひとり慌てふためいた。
「冬夜のことは、眞空に任せればいいだろ」
「そ、そうだけど……」
「俺はもう、……いちばん厄介なのもらったから、そいつの面倒見るので手一杯だっつの……」
亜楼の手が、服の上から海斗の腰をあまったるく撫で回すと、びくっとした海斗の腰が恥じらって逃げる。
「まっ、て……」
「待たねぇよ」
大きなてのひらで腰を抱き寄せたまま、亜楼が顔を傾けて、海斗の口唇に自分の口唇を持っていこうとすると、
「……っ、ほんとに、待てって……」
と言って、海斗が亜楼の胸のあたりに手を置いて、兄のからだをぐいっと思いきり押し戻した。からだが、離れる。
「なんだよ……またキスすんなとか、わけわかんねぇこと言うんじゃねぇだろうな……?」
以前セックスの最中にキスを拒否されたことを実はずっと根に持っていて、ほとんどトラウマのようになっていた亜楼は、海斗に距離を取られてしまい言いようのない不安を覚えた。
こいつ……キス嫌がんのなんなんだよ……。俺のこと、ちゃんと好き、だよ、な……?
両手で亜楼の胸を押したまま突然うつむいてしまった海斗に、いよいよ本気で嫌がられているのかと、亜楼が困った顔をした。どんなに抱きたくても、海斗の嫌がることはしたくない。
「海斗……? 嫌か?」
「……や、じゃ、なくて、」
視線の合わない弟を心配して顔をのぞき込もうとすると、亜楼の耳に、蚊の鳴くような声がかろうじて届く。
「……す、すんなら、……目隠し、しろよっ……」
海斗は亜楼の顔を見ることができないまま、茹でた何かになったように、耳の先までを綺麗に赤く染め上げていた。
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