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50【堂園家Diary】真実②
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「私は、笹川由夏と申します」
名乗った由夏の違和感に、秀春が一瞬肩をびくっとさせた。秀春が知る名ではない。
「もう二十年ほど前になりますが、私は以前ひばり園で職員として働いていました。秀春さんは本当にすばらしい上司で、私はもちろん、職場の誰からも好かれ慕われ、私たちはいつも秀春さんのあたたかさに救われていました。……当時私は結婚していましたが、お酒が入ると暴力を振るう夫に怯えながら生きていました。暴力は月日を重ねるごとにひどくなり、私は心もからだもボロボロになりました。逃げたかったけれど、逃げようとすればますますひどく殴られるばかりで……脅されて、誰にも相談できず、……いつしか私は、生きる希望を失っていました」
「夫が暴力を振るうことが言い訳になるとは、もちろん、思っていません。……それでも私は、秀春さんに惹かれるのをどうしても止められませんでした。秀春さんは日に日に弱っていく私にちゃんと気づいて、その大きくてあたたかい手を、当たり前のようにそっと差し出してくれました。誰にも相談できずに苦しんでいたことを、秀春さんにだけは打ち明けられた……一緒に、これからどうするか考えようと、私を支えてくれました。夫にさえ愛してもらえなかった惨めな私を、秀春さんだけは受け入れてくれたんです……うれしくて、幸せでした。道ならぬことと知りながら、私はずいぶんと長い間そうやって秀春さんのやさしさに甘え続け……ついには、秀春さんとの子供を、……っ、」
巨大な罪悪感に、由夏の言葉が詰まる。
「夫ではない人の子を身籠ってしまったなんて……誰にも言えるはずがありませんでした。だって秀春さんは、みなしごたちを救う立場の人なんです。そんな彼が信用を失うようなことは、絶対にあってはならない。ただでさえ様々な事情で大人への警戒心が強い子供たちが多い中で、私の不貞のせいで秀春さんが不利に……窮地に立たされるようなことがあってはいけない……私の選択肢はひとつしかありませんでした。これ以上の迷惑はかけられないと思った私は、妊娠のことも、別れの言葉も、ありがとうさえ言えずに、逃げるように黙ってひばり園を辞めました。……それから私はこの地を離れ、夫の子と偽ってその命を産みました。それが……冬夜です」
弟の名が出て、眞空が向かいに座っている冬夜を心配そうに見る。冬夜はうつむいたまま、少しも動かない。
「冬夜が生まれてからは夫の暴力も少しおさまって、しばらくは平穏に暮らしました。私さえ我慢して冬夜を命がけで守っていけばいい、秀春さんとのことは思い出として胸の内に秘めて生きていこうと、私は必死に夫との生活に耐えました」
「……けれど、幸せな日々はそう長くは続きませんでした。当初から私の妊娠時期をなんとなく疑っていた夫は、DNA鑑定を依頼し、冬夜が自分の子ではないと気づいてしまいます。隠し通せることではないと思いながらも夫の子として産んでしまった、これは私の罪です。それからはもう……地獄のような日々でした。暴力は一層ひどくなり、いつしか怒りの矛先は私ではなく、冬夜に向けられるようになりました。夫は冬夜に……、冬夜にも暴力を、……」
言っていて思い出したのか、まるでこのときのために何度も練習してきたかのように滑らかに語る由夏が、突然続きを紡げなくなった。ハンカチを口に当てて、次に語るべき残酷な情景を言い淀む。
眞空は冬夜の首の後ろにあった赤紫のいびつなあざを思い出し、予想通りだった冬夜の痛ましい過去に顔を歪ませた。冬夜の記憶がないくらい小さな頃の出来事だったのがせめてもの救いだとは思ったが、その理不尽な力の行使に眞空は怒りしか覚えない。冬夜が傷つけられる理由はひとつもなかった。ひとつも、なかったのに。
「……つらいことは無理して言わなくていい。俺たちにだって、それくらいの想像力はある」
止まってしまった由夏を気遣って、亜楼が告げた。由夏を気遣ったのもあるが、肩をわなわなと震わせてその先を口に出されるのを怖がっている父を、親思いの亜楼が見逃すはずがなかった。
「……慰謝料を払って離婚したいと言っても、夫は応じてくれませんでした。不貞を働いたという私の弱味を握り、一生暴力で支配し、報復していくつもりだったんでしょう。私だけにそうするなら耐えました。でも、冬夜にはなんの罪もない。不倫の子を必死で庇う私が滑稽で面白かったのか、私への当てつけで、夫は幼い冬夜ばかりを狙うようになりました。私はとにかく夫から冬夜を守らなければと、このままでは小さな冬夜が殺されてしまうんじゃないかと怯えて……冬夜を夫から隠すように、夫の知ることのできない遠くの施設に冬夜を預けることにしたのです」
「逆恨みが怖くて……万が一にも夫に冬夜の居場所を知られることがあってはならなかったので、身元を明かせず、ほとんど捨て子のように冬夜を置いてきてしまったことだけが、本当にずっと心に引っかかっていました。それでも私とともに生きていくよりはずっと幸せになれるはずだと自分に言い聞かせて、何よりも大切な息子の幸せだけを願って、毎日を過ごしました」
「まさかその施設が閉園し、巡り巡って最後にはひばり園にお世話になっていたと知り本当に驚きました。その上秀春さんが養子に迎えたと聞いて……神の悪戯のような巡り合わせに背筋が震えました。……でも、その運命の悪戯に、感謝もしたんです。たとえ血のつながった親子だとわからなくても、秀春さんなら絶対に冬夜を大事にしてくれる……そういう確信がありました。秀春さんは、弱っていた私に手を差し伸べて、やさしく受け入れてくれた人だから」
由夏は言葉を止め、一度大きく深呼吸をする。
「……これがすべての真相です。勝手なことばかりして、本当に、ごめんなさい」
深々と頭を下げて謝罪する由夏に、誰も声を発することができなかった。秀春も、口の開き方を忘れてしまったように、黙ってうつむいている。それからしばらくして沈黙を破ったのは、やはり責任感の強い長男だった。
「……事情はだいたいわかった。けどなんで今さら冬夜を引き取りたいなんて言うんだ? 身内の俺が言うのもなんだけど、冬夜はこの家でもう充分満たされてると思う。なんの不自由もさせてねぇつもりなんだが? どうして今になって……」
「そうだよ……今さらそれはねぇだろ……」
亜楼の言葉に導かれ、静観していた海斗がとうとう感情を抑えきれずに口を開いた。
「冬夜が今までどんな気持ちで過ごしてきたか、あんた、わかってんのかよ……。母親に甘えたいときにあんたはいなくて、どれだけ淋しい思いしてきたか、あんたわかって言ってんのかよ!」
眞空ほどではないが、海斗も冬夜の孤独に揺れる淋しげな横顔にははっきりと見覚えがあった。父親も母親も確かに存在していた海斗にとって、その孤独は計り知れないものだと、子供ながらにやるせなく思っていた。
「……オレたちみたいに、死んでいなくなったわけじゃねぇ。生きてんのか死んでんのか、どんな顔してたのかも、思い出の写真も記録も、何も知らなくて、何も持ってなかったんだぞ冬夜は」
口を開いたら、責める言葉しか出てこなくなった。子供側の言い分でしかないと頭では理解していても、愛情が足りなかった期間の冬夜の虚ろな目を思い出せば止まらなかった。海斗もまた、冬夜を大事にする兄のひとりだ。
「冬夜はモノじゃねぇんだ。返してほしいって言われて、はいそうですかって、簡単に差し出せるわけねぇだろ……。そんなことが簡単にできるほど、オレたち家族は薄っぺらいモンじゃねぇんだよ……何年も掛けて、血のつながり乗り越えて、ゆっくり築いてきたんだよ……。それを今さら……そんな都合のいいことあるかよ!」
「海斗! ……ちょっと言いすぎ」
感情的に言葉をぶつける海斗を、今度は眞空が強くたしなめた。もちろん海斗の言っていることは自分たちにとっての正論だと思えるが、実際に冬夜のあざを目にしている眞空には、ただその正論を振りかざすことだけが正義だとも思えなかった。
「……そうですよね、おっしゃる通りです。私、ものすごく勝手なこと言ってるって、わかってるんです。……それでも! それでも……、ずっと冬夜のことだけ考えて生きてきたということだけは、どうか伝わってほしい……」
由夏も、感情的になったのがわかった。
「冬夜を断腸の思いで施設に預けて、離婚を成立させるために何度も何度も夫と闘って、慰謝料払い切って、仕事を探して家を探して……罪を償ってすべてを清算してから、あなたを迎えに来たかった。とても時間が掛かってしまったけれど……ようやく冬夜を迎え入れる準備ができたんです。あなたへの想いが、私を奮い立たせる原動力でした。一日だって、忘れたことなんかなかった」
愛した人との子を、忘れることなんてできなかった。由夏はうつむいたまま自分の方をまったく見ようとしない冬夜を、潤む瞳でせつなげに見つめる。
「もう、母親なんて求めてないと思います……だからこれは私のわがままです。ただ私が、そうしたいだけ。一緒に過ごせなかった時間の埋め合わせを、どうかさせてほしい……あなたと一緒に、……また、生きてみたい……」
ただの母親としての切実な望みに、端正な顔を崩して必死に訴える凄みに、亜楼も海斗も圧倒されてしまう。
「お話は以上です。どんなお返事でも構いません、覚悟はできております。どうか、ご検討ください」
由夏はソファから立ち上がり再び深々と頭を下げると、小さなショルダーバッグに水色のハンカチを押し込んで帰る支度を始めた。
「でも……本当に安心しました。冬夜が、こんなにも冬夜を想ってくれる人たちに囲まれて暮らしていると知れただけで……もう充分かもしれないです。冬夜が幸せそうで、よかった」
そう言って柔らかく微笑んだ由夏の顔は、紛れもなく母親としてのものだった。それはまだ各々の母親が生きていた頃に亜楼も海斗も眞空も目にしたことがある種類のもので、その偉大なる無償のぬくもりに、もはや三人とも余計な口を挟むことはできなくなってしまう。
由夏を送り出した長男と双子たちは、結局リビングでは一度も由夏の顔を見ることをしなかった冬夜の小さな背中を、ただ心配そうに見つめることしかできなかった。
名乗った由夏の違和感に、秀春が一瞬肩をびくっとさせた。秀春が知る名ではない。
「もう二十年ほど前になりますが、私は以前ひばり園で職員として働いていました。秀春さんは本当にすばらしい上司で、私はもちろん、職場の誰からも好かれ慕われ、私たちはいつも秀春さんのあたたかさに救われていました。……当時私は結婚していましたが、お酒が入ると暴力を振るう夫に怯えながら生きていました。暴力は月日を重ねるごとにひどくなり、私は心もからだもボロボロになりました。逃げたかったけれど、逃げようとすればますますひどく殴られるばかりで……脅されて、誰にも相談できず、……いつしか私は、生きる希望を失っていました」
「夫が暴力を振るうことが言い訳になるとは、もちろん、思っていません。……それでも私は、秀春さんに惹かれるのをどうしても止められませんでした。秀春さんは日に日に弱っていく私にちゃんと気づいて、その大きくてあたたかい手を、当たり前のようにそっと差し出してくれました。誰にも相談できずに苦しんでいたことを、秀春さんにだけは打ち明けられた……一緒に、これからどうするか考えようと、私を支えてくれました。夫にさえ愛してもらえなかった惨めな私を、秀春さんだけは受け入れてくれたんです……うれしくて、幸せでした。道ならぬことと知りながら、私はずいぶんと長い間そうやって秀春さんのやさしさに甘え続け……ついには、秀春さんとの子供を、……っ、」
巨大な罪悪感に、由夏の言葉が詰まる。
「夫ではない人の子を身籠ってしまったなんて……誰にも言えるはずがありませんでした。だって秀春さんは、みなしごたちを救う立場の人なんです。そんな彼が信用を失うようなことは、絶対にあってはならない。ただでさえ様々な事情で大人への警戒心が強い子供たちが多い中で、私の不貞のせいで秀春さんが不利に……窮地に立たされるようなことがあってはいけない……私の選択肢はひとつしかありませんでした。これ以上の迷惑はかけられないと思った私は、妊娠のことも、別れの言葉も、ありがとうさえ言えずに、逃げるように黙ってひばり園を辞めました。……それから私はこの地を離れ、夫の子と偽ってその命を産みました。それが……冬夜です」
弟の名が出て、眞空が向かいに座っている冬夜を心配そうに見る。冬夜はうつむいたまま、少しも動かない。
「冬夜が生まれてからは夫の暴力も少しおさまって、しばらくは平穏に暮らしました。私さえ我慢して冬夜を命がけで守っていけばいい、秀春さんとのことは思い出として胸の内に秘めて生きていこうと、私は必死に夫との生活に耐えました」
「……けれど、幸せな日々はそう長くは続きませんでした。当初から私の妊娠時期をなんとなく疑っていた夫は、DNA鑑定を依頼し、冬夜が自分の子ではないと気づいてしまいます。隠し通せることではないと思いながらも夫の子として産んでしまった、これは私の罪です。それからはもう……地獄のような日々でした。暴力は一層ひどくなり、いつしか怒りの矛先は私ではなく、冬夜に向けられるようになりました。夫は冬夜に……、冬夜にも暴力を、……」
言っていて思い出したのか、まるでこのときのために何度も練習してきたかのように滑らかに語る由夏が、突然続きを紡げなくなった。ハンカチを口に当てて、次に語るべき残酷な情景を言い淀む。
眞空は冬夜の首の後ろにあった赤紫のいびつなあざを思い出し、予想通りだった冬夜の痛ましい過去に顔を歪ませた。冬夜の記憶がないくらい小さな頃の出来事だったのがせめてもの救いだとは思ったが、その理不尽な力の行使に眞空は怒りしか覚えない。冬夜が傷つけられる理由はひとつもなかった。ひとつも、なかったのに。
「……つらいことは無理して言わなくていい。俺たちにだって、それくらいの想像力はある」
止まってしまった由夏を気遣って、亜楼が告げた。由夏を気遣ったのもあるが、肩をわなわなと震わせてその先を口に出されるのを怖がっている父を、親思いの亜楼が見逃すはずがなかった。
「……慰謝料を払って離婚したいと言っても、夫は応じてくれませんでした。不貞を働いたという私の弱味を握り、一生暴力で支配し、報復していくつもりだったんでしょう。私だけにそうするなら耐えました。でも、冬夜にはなんの罪もない。不倫の子を必死で庇う私が滑稽で面白かったのか、私への当てつけで、夫は幼い冬夜ばかりを狙うようになりました。私はとにかく夫から冬夜を守らなければと、このままでは小さな冬夜が殺されてしまうんじゃないかと怯えて……冬夜を夫から隠すように、夫の知ることのできない遠くの施設に冬夜を預けることにしたのです」
「逆恨みが怖くて……万が一にも夫に冬夜の居場所を知られることがあってはならなかったので、身元を明かせず、ほとんど捨て子のように冬夜を置いてきてしまったことだけが、本当にずっと心に引っかかっていました。それでも私とともに生きていくよりはずっと幸せになれるはずだと自分に言い聞かせて、何よりも大切な息子の幸せだけを願って、毎日を過ごしました」
「まさかその施設が閉園し、巡り巡って最後にはひばり園にお世話になっていたと知り本当に驚きました。その上秀春さんが養子に迎えたと聞いて……神の悪戯のような巡り合わせに背筋が震えました。……でも、その運命の悪戯に、感謝もしたんです。たとえ血のつながった親子だとわからなくても、秀春さんなら絶対に冬夜を大事にしてくれる……そういう確信がありました。秀春さんは、弱っていた私に手を差し伸べて、やさしく受け入れてくれた人だから」
由夏は言葉を止め、一度大きく深呼吸をする。
「……これがすべての真相です。勝手なことばかりして、本当に、ごめんなさい」
深々と頭を下げて謝罪する由夏に、誰も声を発することができなかった。秀春も、口の開き方を忘れてしまったように、黙ってうつむいている。それからしばらくして沈黙を破ったのは、やはり責任感の強い長男だった。
「……事情はだいたいわかった。けどなんで今さら冬夜を引き取りたいなんて言うんだ? 身内の俺が言うのもなんだけど、冬夜はこの家でもう充分満たされてると思う。なんの不自由もさせてねぇつもりなんだが? どうして今になって……」
「そうだよ……今さらそれはねぇだろ……」
亜楼の言葉に導かれ、静観していた海斗がとうとう感情を抑えきれずに口を開いた。
「冬夜が今までどんな気持ちで過ごしてきたか、あんた、わかってんのかよ……。母親に甘えたいときにあんたはいなくて、どれだけ淋しい思いしてきたか、あんたわかって言ってんのかよ!」
眞空ほどではないが、海斗も冬夜の孤独に揺れる淋しげな横顔にははっきりと見覚えがあった。父親も母親も確かに存在していた海斗にとって、その孤独は計り知れないものだと、子供ながらにやるせなく思っていた。
「……オレたちみたいに、死んでいなくなったわけじゃねぇ。生きてんのか死んでんのか、どんな顔してたのかも、思い出の写真も記録も、何も知らなくて、何も持ってなかったんだぞ冬夜は」
口を開いたら、責める言葉しか出てこなくなった。子供側の言い分でしかないと頭では理解していても、愛情が足りなかった期間の冬夜の虚ろな目を思い出せば止まらなかった。海斗もまた、冬夜を大事にする兄のひとりだ。
「冬夜はモノじゃねぇんだ。返してほしいって言われて、はいそうですかって、簡単に差し出せるわけねぇだろ……。そんなことが簡単にできるほど、オレたち家族は薄っぺらいモンじゃねぇんだよ……何年も掛けて、血のつながり乗り越えて、ゆっくり築いてきたんだよ……。それを今さら……そんな都合のいいことあるかよ!」
「海斗! ……ちょっと言いすぎ」
感情的に言葉をぶつける海斗を、今度は眞空が強くたしなめた。もちろん海斗の言っていることは自分たちにとっての正論だと思えるが、実際に冬夜のあざを目にしている眞空には、ただその正論を振りかざすことだけが正義だとも思えなかった。
「……そうですよね、おっしゃる通りです。私、ものすごく勝手なこと言ってるって、わかってるんです。……それでも! それでも……、ずっと冬夜のことだけ考えて生きてきたということだけは、どうか伝わってほしい……」
由夏も、感情的になったのがわかった。
「冬夜を断腸の思いで施設に預けて、離婚を成立させるために何度も何度も夫と闘って、慰謝料払い切って、仕事を探して家を探して……罪を償ってすべてを清算してから、あなたを迎えに来たかった。とても時間が掛かってしまったけれど……ようやく冬夜を迎え入れる準備ができたんです。あなたへの想いが、私を奮い立たせる原動力でした。一日だって、忘れたことなんかなかった」
愛した人との子を、忘れることなんてできなかった。由夏はうつむいたまま自分の方をまったく見ようとしない冬夜を、潤む瞳でせつなげに見つめる。
「もう、母親なんて求めてないと思います……だからこれは私のわがままです。ただ私が、そうしたいだけ。一緒に過ごせなかった時間の埋め合わせを、どうかさせてほしい……あなたと一緒に、……また、生きてみたい……」
ただの母親としての切実な望みに、端正な顔を崩して必死に訴える凄みに、亜楼も海斗も圧倒されてしまう。
「お話は以上です。どんなお返事でも構いません、覚悟はできております。どうか、ご検討ください」
由夏はソファから立ち上がり再び深々と頭を下げると、小さなショルダーバッグに水色のハンカチを押し込んで帰る支度を始めた。
「でも……本当に安心しました。冬夜が、こんなにも冬夜を想ってくれる人たちに囲まれて暮らしていると知れただけで……もう充分かもしれないです。冬夜が幸せそうで、よかった」
そう言って柔らかく微笑んだ由夏の顔は、紛れもなく母親としてのものだった。それはまだ各々の母親が生きていた頃に亜楼も海斗も眞空も目にしたことがある種類のもので、その偉大なる無償のぬくもりに、もはや三人とも余計な口を挟むことはできなくなってしまう。
由夏を送り出した長男と双子たちは、結局リビングでは一度も由夏の顔を見ることをしなかった冬夜の小さな背中を、ただ心配そうに見つめることしかできなかった。
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