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ゆりすみれ

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46【亜楼+海斗Diary】やさしいてのひら

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 亜楼は、走って、走って、走った。思いつく限りの近所のあらゆるところを捜し回るが、なかなか海斗は見つからない。もしかしてまだ事務所の近くをうろついているんじゃないかとすれ違いの恐怖に怯えながらも、頼む見つかってくれ……と祈るような気持ちで走り続ける。

 海斗にあんな顔させたままは嫌だ……早く! 早く誤解を解かせろ……!

 焦れる亜楼がようやくたどり着いたのは、家から少し離れたところにある海が見える堤防だった。昔海斗を一度だけ本気でぶってしまったときに慌てて追いかけて海斗を見つけたのもここだったと、大切な思い出を見落としていた自分に呆れてしまう。あのときここで、初めて兄になれた気がしていた。海斗を心からいとおしいと思い、全力で守ろうと誓った。

 夜の、すべての不条理さえも飲み込んで掻き消してしまうような黒々とした海を、ひざを抱えて見つめている人影を見つけて、亜楼はそっと近づいた。

「……か、いと?」

 声を掛けると人影はびくっと肩を震わせ、亜楼の姿を認めるとふらふらと立ち上がって逃げ出した。見慣れたバッグが大きく揺れている。

「おいっ、待てよ!」

 堤防の上を走って逃げる弟を、兄は必死で追いかけた。全力だったが現役サッカー部の海斗にすんなり追いつけるはずもなく、距離はどんどん離されるばかりだった。

 ……クソッ……無駄に足速ぇんだよ……しかもこっちはさっきから散々走り回って、もう体力残ってねぇっつーの……。

 とにかく早く、海斗をつかまえたくて。泣いているのなら、すぐに涙を拭ってやりたくて。

「海斗! 好きだ!」

 亜楼はがむしゃらにそう叫んだ。うねる夜の海に、信じられない音量の告白が響き渡る。

 はっとして立ち止まった海斗の腕を、やっと追いついた亜楼がつかみ強引に引き寄せた。不覚にも腕をつかまれた海斗は、兄の手を振り払おうと必死にもがく。

「離せよっ……おまえ、サイテーだよ……サイテー! サイアク!」

「話をさせろ! ……いや、頼むから、させてくれ……」

「離せって言ってんだろ! ……もういいよ、オレ……あきらめるからさ、もうほっといてくれよ……。この先ぜってぇ事務所には顔出さねぇし、おまえの部屋にも行かねぇし、目障りだったら家だってほんとに出ていったっていい」

「海斗! 俺の話を聞けって!」

「……いい……、もうほんとにいいから。……だから、お願いだから、もう期待させるようなことすんなよ。……こうやって追いかけてきたりとか、血迷って好きって言ったりとか……」

 海斗はうつむいて、珍しく投げやりな言葉ばかりを吐き連ねた。先刻の衝撃からまだ解き放たれていないのか、亜楼の顔を見ることができないでいる。

 亜楼はゆっくりと息を整えると、そのまま海斗の腕を引っ張って、感情に任せて強く抱きしめた。

「なっ!?」

 突然のことに状況を理解できない海斗がバタバタと暴れるのを、亜楼は力ずくで無理やり腕の中に閉じ込める。

「血迷ったわけじゃねぇんだ……前に言ったのも、今のも、……ちゃんと本心だ」

「はぁ!? でもおまえ、さっき、あの人と……」

「今、振られてきた」

「は!?」

「正しいものを正しいと認められねぇバカはキライだっつって、あっさり振られたんだよ。七年も続いてたんだぞ? ……全部、おまえのせいだっつーの」

「……」

「おまえのこと恋愛対象として見ることは100%ないって啖呵切っときながら、おまえに好きだって何度も言われて、おまえとヤっちまって、……それからはずっと、おまえのことばっか考えてた」

 気づかない方がいいと勝手に思い込んだ。父を哀しませ落胆させるような感情は、悪だと思った。

「おまえに無視されて、自分でも引くくらい参ってた。おまえが離れてくのが怖くて、すぐ近くにいてくんねぇと不安で、……おまえが外で他のやつとヤったら、ほんとに……、ほんとに、めちゃくちゃ嫌だって思った……」

 目隠しの下のあの瞳を、自分以外の誰かが見ることなど許せるわけがなかった。あれは俺だけが知ってる、俺だけに向けられた、俺だけの海斗の瞳。誰にもやらない。渡せるはずがない。

「外の男とやってこいなんて……なんであんなひでぇこと言ったんだろうって、すっげぇ後悔してる。……撤回させてほしい、他のやつと、……やんないで」

「……っ、おまえ、自分は他のやつとキスしようとしてたくせにっ、……クッソわがままじゃねぇかよっ」

 亜楼に抱きしめられながら、海斗が騒ぐ。

「……そうだな、まじで最低最悪のわがままだ……。でも、他にわがまま言わねぇから……これだけ、な? ……これだけは聞いてくれよ。ヤなんだよ……おまえが他のやつにとられたら、すっげぇ、やだ……」

「……!?」

 なんて自分勝手で、わがままな兄。それでも今までの家族の歴史で亜楼が理不尽なわがままを言った記憶などなく、兄の初めてのわがままに、海斗は少なからず動揺した。切り札のようにわがままを使う亜楼を、ずるいとさえ思う。

「……ダメか?」

 ひどく不安そうに、亜楼が尋ねた。

「……もう、嫌いか? 俺のこと」

「……」

 何も答えてくれない海斗に、弟を抱く亜楼の指先がかすかに震える。自業自得という単語が、亜楼の脳裏に呪いのように駆け巡った。今までの言動を省みれば当然だ。でも。それでも。

「……嫌いに、なんねぇでくれよ……」

 心からの願いで、わがままだった。

「……っ」

 兄の心細くせつなげな声に導かれ、海斗がゆっくりと口を開く。答えなんか、最初から決まっている。

「……外ではやんねぇって、最初に言っただろうが……っ」

 それを聞いた亜楼が、大きく目を見開いて、腕の中の海斗をさらに強く抱き寄せた。

「俺の想いが正しいって……俺の選び取りたいものが正解だって……やっと認められたんだ。……遅くなっちまって悪ぃ。海斗……おまえが、好きだ」

「──っ」

 まだ信じられないと、もうすでに少し濡れていたまつげを、海斗がぱちぱちと何度も上下させる。

「……おまえがわけわかんねぇことばっかするから、……好きになっちまったじゃねぇか」

「……」

 いや違うなと、亜楼が海斗の耳元に口唇を寄せて笑った。

「おまえが弟になったときから、少しも目が離せなかった。危なっかしくてやんちゃなおまえを、俺が守ってやんなきゃって、ずっと使命に思ってた。今思えば、それはもう、なんかはじまってたのかもしんねぇなぁ」

 遠き日を思い出して、亜楼はここまでの長い長い時間にほとほと呆れてしまう。大人になって、守りたいと思う気持ちに、恋という名をつけることがこんなに大変だとは思わなかった。たくさん悩んで、たくさん苛立って、たくさん泣かせた。それでも海斗が大事でいとしいのは、本当にずっとずっと変わらない。

「おまえはどうだ?」

 いつの間にかすっかり腕の中で大人しくなっている海斗に、亜楼がやさしく問いかける。

「……オレはもう、散々、ウゼェほど言ってきただろ」

「ん……、でも聞きてぇな。……もう一回、言って」

 亜楼の甘えるようなかすれた声で耳朶じだをくすぐられ、海斗の感情がぶわっとあふれた。遠慮がちにそろそろと亜楼の背に手を回し、白いワイシャツを皺ができるほど強く握りしめる。

「一回でいいのかよ……」

 海斗の声が震える。静かに泣いているのだと、兄が気づく。

「……っ、……確かに、一回じゃ足んねぇな」

 不意にあおられて、亜楼も徐々に余裕がなくなってくる。

「……、オレも、一回じゃ、全然足んない……、ずっと、言ってたい……」

「あぁ、好きなだけ言ってろ。……全部、受け止めてやるから」

「……っ、……好き、……オレ、亜楼が好きだ、っ……好き、すげぇ好き……ほんとに、誰にも、とられたくない……好き、好……んんっ、」

 その言葉をずっと聞いていたい気持ちよりもほんの少しだけ、口唇を重ねたい欲が勝って、亜楼は海斗の口を勢いよく塞いだ。短いキスを、何度かする。

「んっ……っ」

 くちづけを解くと、亜楼はからだを少しだけ離し、海斗の顔をしっかりと見た。まつげを濡らしている海斗も、まっすぐに亜楼を見つめる。

「俺は性欲にだらしねぇとこあるし、今の今まで不倫みてぇなこともしてた。口は悪ぃし、すぐに手が出る乱暴者だし、おまえのことも簡単に泣かせる最低の男だし、それに……俺がおまえの兄貴であることに変わりはねぇ」

 海斗が小さくうなずく。

「俺はあの家を出ていくつもりも、名字を返すつもりもねぇ。兄弟のまま、他人には理解してもらえねぇ関係になんだぞ? ……そんな俺で、おまえは本当にいいのか?」

 弟の未来を潰すのではないかと、不安だった。想いを殺して、家族から解き放ってやるのが兄の務めだと思ったこともあった。

「……オレは亜楼がいい。おまえじゃなきゃ、意味ねぇよ」

 それでも迷うことなく亜楼を選び取る海斗が、兄の肩に額をこすりつけ、幼い子供のように甘えた。

「そうか」

 噛みしめるように、亜楼がつぶやく。

「亜楼が、いい」

 もう一度そうはっきりと口にすると、張り詰めていた緊張が解けたのか、海斗はひっくひっくと控えめに嗚咽をもらし始めた。あのときもこの場所でぼろぼろ泣いていたなと、あの頃からちっとも変わっていない泣き虫な弟がいとしくて、亜楼は海斗の次から次へとこぼれ落ちるしずくを一つ残らず丁寧に親指で拭ってやる。

 海斗の背を抱く自分のてのひらがひどくやさしいことに、亜楼自身がいちばん驚いていた。ぶったり、乱暴にしたり、時には情欲に負けて泣かせたりしてきた身勝手な手が、こんなにもやさしい手つきで大切なものを守ろうとしている。離したくなくて、もうまちがえたくなくて、やさしさの中に熱がこもる。

 不器用でどうしようもないこの手に、まだこんなことができるなんて。こんな風に抱きしめてやれるなんて。まるで知らなかった。全部海斗が教えてくれた。

「海斗……ありがとな」

 感謝を伝えるそれは、愛を語る数多あまたの麗句よりも、ずっとずっとあたたかくて自分たちらしい言葉の気がした。好きになってくれて。まっすぐに、好きを伝えてくれて。

「……オレ、亜楼と……ずっと一緒に、……いられる?」

「いられるに決まってんだろ……おまえがウゼェって思うほど、毎日一緒にいてやるよ。……家族、だしな」

「っ、……うん」

 ようやく心から安堵した海斗が、亜楼の背中に強く強くしがみついた。ためらいがちにつかんだワイシャツではなく、ちゃんと兄の背を抱きしめる。

 夜の海の色と、月と、湿った夏の風のにおい。きっと忘れない、忘れられるはずがないと、海斗は思う。欲しかった答えをもらえた、大切な夜。

「あーぁ、……俺は、ほんとにおまえ泣かせてばっかだな。まじでダメな兄貴だ」

 いつまでも小さく嗚咽をもらしている泣き虫に、亜楼が苦笑した。

「……これは、……うれしい、やつだから、いい……だろ、っ」

 止めたくても止まらないのだと、海斗が訴える。

「知ってる。……好きだよ海斗」

 耳元にひどくあまったるい声を残して、亜楼は海斗の気が済むまで存分に泣かせてやった。

 やさしいてのひらで、大切な背をいつまでも撫でながら。
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